第9話 深まる親睦

 当然だが、リバスークでトリルを知らない者はいない。どこへ行っても気さくに話しかけられ、軽快な会話が繰り広げられた。その最初の話題になるのはもちろんネルとミリアだ。年齢が高ければ高いほどネルたちを自分の子供や孫を見るような目をし、初老からネルと同じくらいの歳の男性ともなると、ネルを目の敵のように敵意を向けてきた。


 それだけトリルの人気が高く、人望があるということだろう。


 ミリアは人見知りのようでトリルかネルのうしろに隠れることが多かった。意外な一面だ。ネルやアンリのときはそんな余裕がなかったに違いない。ノノリルのときは彼女が人見知りをさせなかった様子が簡単に思い浮かべられた。


 ネルはというと、人見知りをせずそれなりに会話することができた。他人の顔色ばかりを注意して生きていただけに、コミュニケーション能力は培われていた。


 数時間かけてネルたちは村の端――いつもネルたちが来る側とは逆の位置――に着いた。ネルの手にはたくさんの荷物があった。トリルを見かければみんな話しかけ、最後には「これ持って行きな」と言ってなにかしらを渡してくるのだ。例えるなら、村人のほとんどが親戚のおばさんのようだった。あの有無の言わせなさ、強引さ、押しの強さはどこからくるものなのだろう。


 そんなことがあり、さほど遠くない距離を数時間かけることになったのだった。


「この先にはなにがあるの?」


 村の出入り口かつ境界線の役割を果たしている門の向こう側を見て、ネルはトリルに訊ねた。肌色に近い色をした道が真っ直ぐ伸び、やがて木々が囲われた暗闇の中に消えていた。


「ブランドアがあるんだよ」トリルは答える。「ずっと、ずーっと先だけどね。って行っても、私はこっちから出たことがないから、本当かどうかをこの目で確かめられたわけじゃないんだ」


「森しかないのかな」


「さあどうかな。あの二人に訊いたらわかるかもね」


「私は、海が見たい」


 ミリアの顔を見ると、期待する目をしていた。無邪気に輝かせ、夢を抱いている。なにも知らないから、なにも見えないから、先に希望を抱ける。


「海があって欲しい」


「いいね」ネルは頷いた。「海があったら行ってみたい」


「三人で行っちゃう? あ、マユさんとノノリルも誘った方がいいかな」


「ノノリルは誘わないと、あとで怖そうだ」


 短い付き合いでも容易に想像できるのだから、ノノリルの性格の単純さ、明確さは凄い。普通ならあそこまで自分を曝け出すことはしないだろう。まずは様子を見る。相手が信じるに足る人物なのかを測ろうとする。同時に相手に受け入れられようとも。ノノリルにはその計算がないのだ。


 だから言いたいことを好き勝手に言い、やりたいことをやれる。


 彼女のような性格は学校生活でクラスの中心に立てるタイプだ。いい意味でも、悪い意味でも愛されるに違いない。


 そこまで考えて、ネルは自分がノノリルのことをマスコットのように思っていることに気付いた。マスコットだからなにをしても許されるのかと、一つの解答を得た。


 誰にも言えないが。


 しばらく三人で海に思いを馳せた。ネルは海に行ったことがない。もちろんテレビで見たことはあり、波の音や色などは想像に易い。ただ潮風やその匂いは知らない。だからネルの頭の中に広がる海は、どちらかと言えば湖のようだった。


「行こうか」


 トリルが終了の鐘を鳴らし、ネルたちは移動を始めた。


 次に連れて来られたのは、なにやら騒がしい建物だった。笑い声が絶え間なく聞こえて楽しそうな雰囲気ではあるものの、その中にビンかガラスの割れる音が混じり、それが一気に身体を委縮させた。


 ここは大人の遊ぶ場所なのでは、と。


 酒の臭い、煙草の煙が充満している世界なのでは、と。

「なにここ」


「リバスークの遊び場だよ。今日も賑やか!」


「ミリアの教育に悪いんじゃないかなあ……ねえ、ミリア」


 この三人の中で最も発言力あるのはミリアだ。これはミリアを楽しませるための企画だ。彼女が入るのを拒めば、もちろん入ることはない。


 それに期待したネルだったが、ミリアはすでに扉を開こうとしていた。顔には出ないが、彼女の胸の中は好奇心で燃え上がっているのかもしれない。


「心配しなくても大丈夫だよ。危ない場所に連れていくわけないでしょ」


「たしかに」


 納得はするが、信じ切れてはいなかった。扉を開いた先に目つきが鋭かったり、顔に刃物で切ったような傷があったり、鍛え抜かれた腕に入れ墨があったりする可能性を捨てきれない。


 リバスークで育ったから大丈夫だと思うだけで、他の人たちからすれば大丈夫じゃない場所なのだ。


 しかしそんな心配はやはり杞憂に終わるのだった。


 たしかに強面の人もいるが、子供も結構いる。あの音はビンが割れていた音で、子供たちが射的をしているからだった。


 ミリアの興味を引いたのは、射的ではなくカードゲームの方だった。大人たちが真剣な顔や不敵な笑みを浮かべながらしているそのゲームをじっと眺めていた。無論、彼女の存在が彼らの集中力を削いでいたのは言うまでもない。


 ネルたちはそのうしろに着いてゲームを見る。使っているカードはトランプのようだ。四つのマークも知っているものだった。


「ポーカーかな?」


「うん。だいたいはポーカーだね」


 トランプでやるゲームも変わらないようだ。ポーカーなら見ていても仕方ないと、ネルは店の中を回ることにした。


 子供もいるからだろうか、煙草の臭いや煙はそれほど感じられない。控えめにはしているようだ。それに子供の集まる場所の近くでは誰も煙草は吸っていない。吸える場所とそうでない場所が明確に分かれているらしい。


 トランプをしている子供はババ抜きやトランプタワーの建設に勤しんでいた。


 射的場に辿り着き、ビンに照準を合わせる姿をうしろから眺める。一人はふざけたポーズをとりつつ、一人は堅実な構えで、一人は台の高さよりも身長がないためその上に寝そべるようにして狙っている。


 三者三様のタイミングでコルク弾を撃ち出すが、どれ一つとしてビンには直撃しなかった。情けない音が鳴った。思っていたより威力はないようだ。


 三人がもの凄く悔しがっていたので、ネルは景品がなにかを訊ねてみた。余程いいものが手に入るのだろう。


「景品? なんもないよ?」


「ただビンを壊すだけの遊びにそんなものあるわけないよなあ」


「でも景品あるのはいいね!」


 なにか賭けようか、と三人はそれぞれが負けたときに出せるものを口々に言い始めた。それは実に微笑ましいもので、子供の言う「宝物」が純粋な好意でできているのだと改めて知った。


 三人の勝負を邪魔するのも悪いので、ネルはその場をあとにした。


 トランプや射的だけではなく、小規模のボウリングやダーツもある。たしかにここは娯楽施設のようだ。ただ一人で入る勇気はネルには持てそうにない。


 ぐるりと回ったあと、ミリアたちがいたテーブルに戻ろうとしたとき、そこには人だかりができていた。なにかあったのだろうかと足早に近づく。


 人だかりの中に分け入ろうとすると、わっと盛り上がった。なにが起きたのか確かめるべく、人の合間を縫うように進んだ。前列まで漕ぎつけると、目に映し出されたのはテーブルを囲む四人の姿だった。最初に見た強面を含む三人の男と、ミリアがポーカーをしていた。しかも様子を見るかぎりでは、ミリアが勝っているようだ。


「なにが起こってるんだ……」


 ぽろりと零れ落ちた疑問に答えたのは、傍にいた知らない年配の男だった。


「あのお嬢ちゃんが恐ろしいほど負けねえんだよ。勝負感が強いのもそうだが、なによりあのポーカーフェイスが凄い。さすが、トリルが連れてきただけはある」


「トリルも強いんですか?」


「運も実力のうちって言うだろ? トリルはまさにそれだ。勝負時での運の良さがぶっ飛んでやがる。よく来ては場を荒らしてしていくぜ」


「へえ……」


 負けないと聞いて「降りる」こともしないのかと思ったが、当然だがそうじゃない。この場合の「負け」とは最終成績のことを言っているのだ。ここのポーカーは数回戦で一勝負。その最終成績で常にトップにいる。それがどんなに難しいことか。


 たしかにそれだけ勝てるのなら、ここで遊ぶのは楽しいだろう。ミリアのように無表情で淡々とするのではなく、店での営業スマイルを見せていそうだ。絶対に相手をしたくはない。


 トリルの姿を捜すと、ミリアのうしろで満足そうにしていた。ポーカーを教えたのは彼女のようだ。顔が師匠のそれである。


「でも、そんなに勝ってばかりの相手だったら、みんなやりたくなくなるんじゃないですか?」


「逆だよ。だからこそ勝ちてえんだ。みんな勝つ喜びを、快感を知っている。トリルからの一勝はおそらく、百勝分の価値がある。そこに行き着きてえのさ」


「なるほどー」


 これまで勝てなかった相手に勝てたのなら、たしかに嬉しい。それがマグレだとしてもいいのだ。運が良かったと言われてもいいのだ。トリルがまさにそのタイプであり、それを上回れたのだから。


 その一勝のために百敗したからこその価値。


 遊びならではの醍醐味だ。


 再びミリアが勝った。相手のどんな言葉にも揺るがない。微動だにしない。ただ声をかけてきた相手の目をじっと見つめるだけだ。それはまるで生気のない人形のようだった。トリルの教えの賜物――そう思われているに違いない。


 遊びで勝っても、ミリアは喜ばない。


 感情はまだ奥底に眠ったままだ。


 結局ミリアは無敗のまま、店を出ることになった。自分よりもうんと年上の男たちに再戦を求められ、怖気づくことなく頷くその姿、幼き少女のそれではなかった。貫禄さえ感じさせられる。


 日は沈みかけ、濃紺の空が広がっていた。煙が溜まっているかのような薄い雲が、その色を映えさせている。


「楽しかったねー」トリルが手を組んだ腕を胸の前で伸ばした。「ミリアちゃんは才能あるね」


「なんの?」とミリア。


「勝負のかな」


「たしかに凄かったね。ルールはトリルが教えたの?」


「そだよ。私が教えたのはルールだけ。それでもあんなに勝てるんだから、ミリアちゃんは相当に筋がいい」


 勝負を降りるかどうかも、ミリア自身が決めていた。誰からも助言されず、自分の考えで。なにが末恐ろしいかと言えば、たとえ勝てそうにない手札であっても、勝てそうな空気なら押し通すところだ。終始彼らが翻弄されたのは、彼女のその部分だった。


「ミリアの意外な一面を見られてよかった」


 並んで歩くミリアの頭を撫でてそう零すと、トリルが覗きこむようにして笑った。私のおかげとでも言いたいのだろう。まさしくそうなのだから、ネルは続けてこう言った。


「今日はありがとう。楽しかった」


 ミリアのことだけじゃない。トリルのことも知ることができた。誰からも信頼され、信頼されるほどの意志の強さを持ち、勝負事が好き。ただ天真爛漫にウエイトレスをしているわけじゃない。


「どういたしまして」


 満足そうにすると、トリルは声をかけてきた男の子たちに手を振った。こういう気さくなところも、人気を獲得する要因なのだろう。人気者の隣を歩くのも悪くない、とネルは密かに思った。


「最後にいいところ連れてってあげる」


 そう言われて連れて行かれたのは、この村に唯一ある鐘楼だった。高い場所で受ける風は、どこか特別なものに思えた。そこからは村全体を一望できる。建物の窓から零れる光、それが照らす行き交う人々。賑やかな声がどこからか流れてくる。


「私はこの村が好き」


 ミリアと風景を楽しんでいると、トリルが静かに言い出した。振り返ると、トリルは慈愛に満ちた目で、村を見ていた。風に揺れる髪に手をかざす彼女の姿が、有名な絵画のようだった。思わず心を奪われる。


「ここから全部見えちゃうくらい小さなこの村が好きなの。ここで生まれて、ここで夢を持って……。その夢を叶えるために一度は離れたけど、一日も忘れたことはなかったんだよ。リバスークに必ず戻るんだって、みんなの顔を思い出せば辛いことも頑張れた」


「どうしてそのことを僕たちに?」


「二人もこれから辛いことがあると思うの。それは、二人だけで乗り越えられるかもしれない。でも二人だけでどうにもならなかったときに、私たちを頼って欲しいって思ったんだ。私たちはいつでも二人の味方だよって。帰る場所があるんだって、覚えておいてほしいの」


 今日トリルが村中を案内した本当の理由がわかった。ただ楽しませようとしたわけじゃない。顔を合わせさせ、知り合いを作り、この場所に敵がいないことを、ネルたちを拒む人たちがいないのだと伝えたかったのだ。


 両親がいないと知り、その穴を埋めようとした。


 今の場所を追われたときに頼れる人と場所があるのだと。


 トリルはネルたちを、それこそ家族のように受け入れているのだろう。いやネルたちだけじゃなく、この村にいる全員を。


 どこまでも広いその心に、ネルはただただ感服した。


 だからこそ、ありがとう、と、ただ一言しか返すことができなかった。


 すると、トリルが一つ咳払いをした。こほん、と可愛らしく、どこか照れるようなしぐさを見せながら。


「ネルくんに一つお願いがあります」


「どうしたの、改まって。お願いって?」


「私の頭を撫でてくれない?」


「……え?」


 どんなお願いをされるのかと期待と不安があったネルだったが、その斜め上のお願いに思わず訊き返してしまう。あまりにも不意打ちだった。


「いやね、ミリアちゃんの頭を撫でるネルくんを見ててさ、お兄ちゃんなんだなあって思ったんだよ。私、一人っ子だから昔からお兄ちゃんに憧れてて、それで……」


 説明しようと言葉を並べるに連れて、トリルの顔はどんどん紅潮していった。恥ずかしさと照れが入り混じり、それでいて冷静でいようとすることがさらに彼女を混乱させているのだろう。少し前の聖母のような彼女はそこにはいない。


 頑張り続ける、どこにでもいる一人の女性がいるだけだ。


 おこがましいかもしれない。だが、ネルはこれまでの頑張りを労うように、トリルの頭にそっと手を乗せ、優しく撫でた。なにか言葉をかけようとも思ったが、トリルが瞼を閉じただ堪能する姿を見て、言葉は心の中で消失した。


「私も」


「ミリアちゃんも撫でてくれるの?」


「うん」


 ミリアにも届くように、座り込んだトリル。ネルはミリアと、しばらくの間、彼女の頭を優しく撫で続けた。

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