第8話 救いの手

 目を覚ましたことで、自分が眠っていたことに気付いた。窓から差し込み、床で照り返した光が眩しく、瞼を開けるのに慎重になった。目を慣れさせながら、頭の重みでしびれていた腕を解放する。そのまま背もたれに体重を預けるように身体の筋を伸ばした。


 アンリの話では、ネルの内部には『核』があるらしい。その『核』があるおかげで、深淵術で身体を構成できている。常人よりも身体能力が高く、余程のことがないと壊れないとのこと。「人間」としての機能はそのままらしい。痛覚もあれば、空腹も感じる。


 また深淵術を使うことができる。正確に言えばネル自身が深淵術そのものであるため、使うというのはおかしい表現だ。ただそれ以外に言葉が見つからず、やはり使うがしっくりくるのだった。


 つまり今のネルは身体能力が上がり、余程のことがないと壊れない点を除けば、深淵術を使えるただの人間ということだ。


 それを人は化物と呼ぶのだろうが、日常生活の中くらいでは人間でありたい、とネルは思った。


「おはよう」


 誰もいないと思っていたため、その声に心底驚く。ネルは椅子とともに倒れそうになるが、なんとかバランスをとって安定させた。


 振り向くと、ミリアがじっとこちらを見ていた。


「おはよう、ミリア。よく眠れた?」


「うん」頷いて、ミリアは自分の左頬を指差す。「跡ついてるよ」


 ネルが自分の左頬に手をやると、ミリアが「逆」と端的に間違いを正した。言われたとおりに右頬に触れると、たしかに異様な凹凸を指先に感じた。


「ほんとだね。すぐに直ればいいんだけど」


 指先で頬を弄っていると、ミリアがネルの頬に手を伸ばした。ほんのり温かい手が頬に触れる。そしてネルがしていたように。跡をどうにかして消そうとする。しかもなぜか両方だ。


 もしかして遊ばれているのだろうか、とネルは思ったが、悪い気はしなかったので止めずにおいた。


「みんな出掛けたよ」


「そうなんだ」頬を弄られながらもしっかり答える。「どこ行ったの?」


「わかんない。でも出掛けるって」


「ついていかなかったの?」


 アンリはともかく、ノノリルとは仲良さそうにしていた。それこそ姉妹のように、あるいは同年代の友達のように。


「うん。お兄ちゃんが独りになっちゃうから」


「そっか。ありがと」


 ネルはふと考える。どうしたらミリアは笑ってくれるのだろうかと。


 あの惨状を見てからでは、笑顔を見せて、とは簡単に言えない。年頃の女の子が経験していい絶望ではなかった。そのショックに耐え切れる心を持っているはずもない。感情が欠落してもおかしくはないのかもしれない。


 でも、だからこそ取り戻してほしいと思うのだ。


 とはいえ、出会う前のミリアのことを知らないネルが勝手に想像しただけだ。もしかしたら初めから感情表現が乏しい子ということもある。その場合、取り戻すではない。


 ネルはひとまず考えることをやめて、ミリアの頬に両手を伸ばして摘まんでみた。嫌がられるとも危惧したが、ミリアは黙ってそれを受け入れる。縦や横に軽く引っ張ってみたり、ぐるりと円を描いたりしてみる。実に柔らかい頬だ、とネルは感動した。顔の筋肉が凝り固まっているわけではないらしい。


 とりあえず、形だけでもと笑顔を作ってみた。自然ではないが、それでも可愛らしい笑顔を容易に想像できる。


「ひゃにしへぇるの?」


「ちょっと遊んでるだけ」


 そう言うと、ミリアの手も激しく動くようになった。ネルと同じようにいろんな引っ張り方をする。どうやらネルの頬もそれなりに柔らかいようだった。


 しばらく無言のまま戯れの時間を過ごしていると、終わりを告げるようにネルの腹が鳴った。ネルが手を離すと、ミリアもそうした。


「そういえば、ご飯食べてないや」


「食べに行く?」


「行きたいけど、僕、お金持ってない」


「私持ってるよ」


 そう言って、おもむろにミリアは布製の子袋を取り出し、その口を広げて見せた。中には金貨が入っていた。金貨の大きさと袋の膨らみようかして、二十枚近くはあるだろう。


「どうしたの、これ」


「アンリにもらった」


 いったいなにをする想定の金額なのか、その価値を知らないネルにはわかりかねた。あるいはその想定を考えるのが面倒で、これくらいあれば不自由ないという意味で渡したのかもしれない。


 ともかく、お金が手に入ったのだから食事をしない理由はない。


「じゃあ行こうか」


 なんとなく察してはいたが、日はすでに高く昇っており、朝は過ぎ昼になっている頃合いだった。気温は高すぎず、春のような暖かさだ。風に乗った緑の香りも気分を晴れやかにしてくれる。


 昨晩の川で顔を洗ってから、トリルの店に向かった。


 書き入れ時ともあって店内は混んでいた。トリルが躍るようなステップで軽快に各テーブルを回っている。大変そうではあるが、同時に楽しそうでもある。注文を聞き、厨房に伝え、料理を運び、空いた皿を片付け、さらには客と談笑もする。とんでもない仕事量を彼女一人でこなしていた。


 見とれていると、ミリアが服の袖を引っ張った。


「いっぱいいるね」


「そうだね。もう少し経ってからにしようか。そのへんで時間を潰してれば、違う店も見つかるかもしれないしね」


 少し見て回りたい気持ちもあったため、都合がよかった。リバスークにはしばらく世話になるかもしれない。だから店や住居を把握したかった。ネルが知っているのはここと果物屋だけだ。もう少しは場所を知っていてもいいはずだ。


 ミリアが頷いたのを見て、ネルは踵を返した。


 しかし扉に手をかけたとき、


「どこへ行くんです、お客さんっ」


 と、背中越しに声をかけられた。


 振り返ると、トリルが満面の笑顔を向けていた。頬を一滴の汗が伝う。紅潮した顔が妙に色っぽかった。


「混んでるからまたあとで来ようかなと思って」


「大丈夫ですよ。マユさんの関係者は特別席があります」


 そう言われて通されたのは、昨日と同じテーブルだ。賑やかさでここも埋まっていると錯覚していたが、そんなことはなかったらしい。ネルとミリアは対面するかたちで席に着いた。


「この場所は常に空けておくようにとマユさんに言われてるんですよ」


「迷惑じゃないの、それ」


「その分のお代は充分にもらってます」


 どうやらアンリはお得意様であるらしい。おそらくはいつ来ても座れるように、という効率化のためだろう。ミリアにあれだけの金貨を渡すくらいだ。テーブル一つ貸し切り続けることなんてわけないのかもしれない。


 テーブルにメニュー表が置かれた。ネルとミリアはそれを覗きこんだ。


 考えてみれば、文字を読むのは初体験だ。昨日の注文も口頭だった。果物屋にも名前を書いたプレートのようなものはなかった。


 アルファベットのような文字だった。似てはいるが、もっと形が崩れている。記憶が勝手にアルファベットと置き換え、なんとかそれっぽいと認識できるくらいだ。しかしどれ一つとしてネルの知っている英単語にはなっていない。似てはいても、違う言葉なのだ。


 だからこそ、ネルはその文字が読めることに驚いた。意味が理解できる。知らない文字、見たこともない単語のはずなのに、幼少のころから触れていたかのように自然と読み取ることができた。


(これも、アンリのおかげ?)


 深淵術の賜物なのだろうか、とネルはその疑問を念頭に置きつつ、なにを食べるか決めることにした。親切なことにここのメニューにはその商品の主となる材料が明記してある。よくわからないものに手を出す心配はほとんどない。


 起きたばかりだが、ガツンと胃にくるようなものが食べたいと思った。ステーキという言葉に自然と目が移る。朝に食べると聞くと少し拒絶反応が起きるが、今は昼だ。存分に食べることができる。


「私、これにする」


 ミリアが指差したのはサンドイッチだった。ハムとレタスを挟んだ、マスタードソースのものだ。女の子らしい軽食だ。ただ昨日のことを思うと、少ないのではないかと思う。昨日が異常だっただけのかもしれない。


「僕はこれで」


 指を差して、ステーキセットを注文する。パンとサラダとスープが付いてくるものだ。トリルはにこやかに伝票に書き記していく。


「飲みものはどうします? ブドウ酒にしますか?」


「僕はそれで。ミリアは?」


「牛乳」


「わかりましたー」


 満足そうにして、トリルは伝票を厨房に届けに行った。


 料理を待っている間、ネルはメニューをじっくり見た。指でなぞりながら、文字を観察する。英語ではないなにか。アルファベットではないなにか。意味はわかるが、読むことはできない。


 口は日本語のときと変わらない動きをしている。じゃあこれは日本語なのだろうか。ひらがなでもカタカナでも漢字でもないこの文字が「日本語」だというのか。そこには違和感しかない。


 同じところを往復していた人差し指に、ミリアの人差し指があてがわれる。一方の動きを止められ、反対に逃げようとすると、今度は中指が行く手を阻んだ。それを機に指遊びが始まった。小さな手から伸びる脆そうな指が一生懸命動いている様子に、ネルは微笑ましさを感じた。


 だがやはり、ミリアの顔に笑顔はない。


 どうしたら笑ってくれるのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、料理が運ばれてきた。最初は牛乳とブドウ酒だ。続いてすぐにサンドイッチが、そこから少し遅れてステーキセットがやってきた。ミリアは全部揃うまで待っていた。先に食べていいと言っても、頑なに首を横に振った。


 全部が揃ったところで、ようやく食事が始まる。


「いただきます」


 二人揃って手を合わせた。


 食事の時間は、会話がほとんどなかった。お互いの食べているものの感想を訊くくらいで、談笑があるわけじゃない。トリルの元気な返事や、店内の賑やかさを聞きながら、淡々と目の前の料理を平らげていく。昨日とは打って変わり、緩やかな時間だ。食べる速度も自然と遅くなる。


 ネルが食べ終えたころには、店内はがらりとしていた。ずっと賑やかだと思っていたのは、頭の中に残っていたものだったようだ。ミリアはとっくに食べ終えて、今はネルはじっと見ていた。


「今日はずいぶんとゆっくりだったね」


 一仕事を終えたといった解放感ある顔で、トリルがやってきた。ネルたちと同じテーブルの席に着き、持っていたジョッキに口をつけて、勢いよく煽った。


「ぷはあー。今日も大盛況で満足だよ!」


「お疲れさま。いつもこうなの?」


「そうだよ。ありがたいことに……というか、食堂はここだけだからね。みんな来てくれるんだよ」


「これだけ美味しいと何度も来たくなるよ。そういえば、昨日の二人はどんな調子?」


「良好だよ。一人は手伝いとかしてくれるし、もう一人も起きてご飯食べられるようになった。これもマユさんの血清のおかげだよ」


 その名前を出そうとしたネルの口は、音を発することなく空気だけが漏れ出た。アンリとも呼ぶわけにもいかない。


「付き合い長いの?」


「そんなでもないよ。かれこれ……」トリルは指をこめかみに当てた。「二週間ほどかな。来店早々このテーブルを貸し切りにするように言うから印象強いよ。それにあんな美人で、研究者さんだなんて天は何物も与えるもんなんだって思った」


「トリルも診療所で働いてたくらいだから頭良いでしょ?」


「ノノリルから聞いたなあ。あのお喋りさんめ」


「どうして辞めたの?」


「もともと続ける気はなかったんだ」トリルは生徒に物事を教える教師のような柔らかい声で言う。「この村には医者がいないんだよ。そういった知識をまともに持っている人もいない。昔から伝わってる知恵はあるんだけどね。それも限界だなって思ったのは、私がまだミリアちゃんくらいのときだったかな。知り合いがウラシフの診療所に着く前に亡くなってね。応急処置は間違ってなかったんだけど、もっといい方法があって、そっちだったら間に合ったかもって話を聞いたとき、この村はこのままじゃダメだって思ったの」


 なにかの死に直面したときに、医療の道に進もうという意志が湧くとはよく聞く話だ。トリルもその意志でリバスークを出て、ウラシフの診療所に勤めるようになった。


 一人でも多く救おうというトリルの気持ちは、時を経てリバスークに広がり、誰もが「救い」を差し伸べるようになる。そんな話の流れだったのか、とネルは昨晩聞いた話を思い返していた。


 トリルが戻ってから、たくさんの人が助けられたのだろう。だからトリルの気持ちが、意志が、人々の心にも宿り、村全体で掲げるようになった。


 敵対国の人間でも救おうとする村に。


 そのかたちになるまで紆余曲折あったのだろうが、それはネルの知るところではないし、想像する必要もない。それは「今」というかたちが好きだからだ。


「次はこっちから質問!」喉を潤したトリルが言った。「ネルくんとミリアちゃんはとういう関係なの? どういう経緯でマユさんのところで働くことになったの?」


「えっと……」


 ネルは言い淀んだ。そのあたりのことを踏み込まれるとは思っていなかった。想定していなかったため、設定もしていない。アンリかノノリルが適当に繕ってくれると思っていたからでもある。


 今作るしかない、とネルは簡単に設定を生み出す。


「ミリアは僕の妹だよ」


「やっぱり! そうなんじゃないかなって思ってたんだ」


 トリルがミリアに顔を向けると、彼女は肯定するように頷いた。目配せもなしに話を合わせられる賢い子である。


 ともかく第一段階はクリアしたようだ。双子でもないかぎり、男女の兄妹であれば疑われることもそうないだろう。


 問題は次だ。働くことになった経緯。


「でも、親元を離れて働くとなると、ご両親が反対したんじゃない?」


 説得したと言えばどう説得したのかを、反対を押し切ったと言えばそれもまた根掘り葉掘り聞かれる。出した答えに、現実性と整合性を付け加えなければならない。トリルの納得するものを用意しなければ。


 必死に考えを巡らせるネル。


 しかし、その取り繕うのに難しい質問に答えたのはミリアだった。


 あまりにも短いその答えに、ネルの心は酷く痛んだ。それは、ミリアの言葉に偽りがないという確信があったからだ。残酷で、冷徹で、非情な真実を感じ取れてしまった。


「二人とも死んじゃったよ」


 空気が一気に冷え返り、重い沈黙が一瞬だけ訪れた。


 ただトリルとネルとでは、その言葉の受け取り方が違う。


「そうなんだ……。ごめんね、辛いこと言わせて」


 トリルの頭には「一般的な死」が描かれているだろう。人の死でまず想像する事故や病気などの死因を思い浮かべているはずだ。そのあとに殺人や戦死も片隅に現れる。それが一般的だ。通常の思考だ。


 なにも知らなければそう考える。


 知っているネルの頭に浮かぶのは廃獣の姿だ。あのときすでにミリアは一人だった。ミリアだけが逃げ延びていた。ただ離ればなれになっただけだと思っていた。すぐにでも合わせたいとも。


 だけどそれは、最悪のケースを考えないようにしていたからだ。最も可能性があったからこそ、多くの希望で隠した。奇しくもそれは、ミリアによって引き剥がされてしまったが。


 トリルがそっとミリアを抱き締めた。ミリアの顔が彼女の胸に埋もれる。


「ネルくんと二人で頑張ったんだね」


 頑張っていない。ミリアにまだなにもしてやれていない。けれどもミリアは頷く。その姿にまた胸が締め付けられる。まるで母親に甘える子供のように、トリルの胸に顔を埋めるミリアを見て、母親が恋しいのだと痛感する。


 ネルでは代わりになれない。ネルには与えられないそれを、トリルは与えることができる。


 もしかしたらミリアの居場所はここなのかもしれない、と漠然と思い始めていた。アンリも、ノノリルも、そしてネルも、ミリアと同じ人間のようでいて、まったく違う。平穏な日常に身を置いていない。


 どうするのがいいのか。まだ十七年生きてきた経験や知識をもとに考えてみても、答えは見つからなかった。


「そうだ! 三人で遊びに行こうよ!」


 唐突にトリルが提案した。


 顔を見上げるミリアと、驚くネルを交互に見る。


「なになにその顔はー。こんな村にも遊ぶところはあるんだからねっ」


 ネルたちが返答する暇もなく、トリルはせっせと遊ぶ支度を始めた。まず厨房に出掛けることと夜までには戻ることを伝える。そして店の奥へ入り、しばらくして着替えて戻ってきた。


 エプロンが取れただけで、ぐっと年齢が下がったように思えた。服装だけで見た目年齢がこうも変わるとは女性は怖い。ハイウエストスカートが胸を強調させ、ネルは目のやり場に困り、最終的に顔を見ることで落ち着いた。


 ステージに立つ演者のようにくるりと回り、立ち止まるとスカートを両手で広げて丁寧にお辞儀をした。


 思わず拍手をするネルとミリア。


 顔を上げたトリルは顔を赤らめて恥ずかしそうに笑った。


「えへへ。ありがと」


 金貨の価値がさっぱりわからないネルは支払いをミリアに任せた。なにか疑われるだろうかと思ったが、ミリアのしっかりした性格が評価されるだけで、ネルがなにかを言われることはなかった。


 外に出ると、村は活気に溢れていた。荷馬車がゆったりと通り、値段交渉が大声で行われ、どこかで子供を叱る声がし、それを笑うように声が響いてきた。音と声が一つの楽曲みたいだった。乱雑さが逆に心を躍らせる。


「さあ行こう!」


 トリルはネルとミリアの手を取って歩き始めた。

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