第7話 神焔法

 小屋に戻ったのは日が昇り始めたころだった。


 近くの小川で手を洗い、血を落とした。名前も知らない、顔もぼんやりとしか見ていない人間の中を流れていたはずのその赤い液体は、水とともに流れていき、すぐにその色は見えなくなった。


 彼だった“モノ“はノノリルが処理した。胴体も、散らばった骨片や肉片も、すべて蛇たちが食った。十秒にも満たないほんの僅かな時間だった。


 人間の呆気なさに、ネルは少々驚いたりもした。


 こんなにも簡単に消えるのだと。


「ただいまー」


「ただいま」


 小屋の中は、出て行ったときとそう変わっていなかった。ミリアは眠り、アンリは椅子に座っている。あのときと違うのはテーブルの上が片付けられ、代わりにいくつかの本が置かれていることだ。


「おかえりなさい」アンリは本から目を離さない。「どうだった?」


「やっぱり潜り込んでるみたい」


 ノノリルが椅子に飛び乗って座った。身体が軽いのと、高さが低かったことが幸いして音はそれほど響かず、ミリアが目を覚ますことはなかった。


 ネルも続くようにして座った。座席の位置は昨晩と同じだ。


「ちゃんと片付けた?」


「六人くらい。一人は後輩くんがやった」


「あら、偉いじゃない」アンリはようやく目を離し、ネルを見た。「てっきり今回は無理かと思ってたわ」


「後輩くんは自分が何者なのかを知ったのさ」


 それはさておき、とノノリルが話を切り替えた。


「どうやら廃獣化の原因はあいつらの神焔法のせいみたいだ」


「ウラシフの現状から察すると、それは厄介ね」


 あまり驚いていないあたり、察しはついていたのかもしれない。おそらくは最初に疑ったのが神焔法なのだろう。それをひとまず思考から切り離し、別の原因がないかと、アンリは調査していたのだ。


 昨晩の仕事も、それにノノリルと最初に対面したときも、ウラシフ周辺にいるブランドアの人間を探し、神焔法のことを聞き出す目的だった。


 あの余裕も頷ける。


 しかしわからないこともある。ネルは一つずつ訊くことにした。


「神焔法(セイクリド)ってなんなの? 深淵術(アンチコード)とは違う……んだよね?」


「深淵術はノワルゲート独自の技術。神焔法はブランドアが見出した技術よ」


「深淵術は魔力でソウルを得て、維持にも使うんだよね」


「そうよ。ソウルは言わば『異界の力』。この国の名前の由来でもある《ノワルゲート》という大地の虚から得ているわ。わたしたちはどこに繋がっているのかも知らない、得体の知れない力を使っているのよ」


 当然、そんな不明瞭な存在のままにしないために調査を行ったのだろう。アンリがそれを放っておくはずがない。なによりも最初に調べたに違いない。けれどもわからなかった。解明できなかった。


《廃獣化》の調査もその延長戦なのかもしれない。彼女の原点は《大地の虚》にあり、その解明の手掛かりを別の角度から調査しようとしている。


 しかし気になるのは『異界』という単語。ソウルの意味が果たして英語と同じなのかはわからないが、そうだとするならば、彼女たちは《大地の虚》がどこに繋がっているとしているのかがわかる。


「神焔法はマナを魔力で操ることで発動できるわ。マナというのは『星の力』。水や風、空気や草木、そういった『神が与えてくれたもの』が持つのがマナという力よ」


 アンリの声は心地よく、情報がすんなりと頭に残る。だからこそ、未知の話だからというだけでなく、素直に楽しいと思えた。それはおそらく自分が賢いと錯覚できるからでもあるのだろう。


 そんなネルの横でノノリルが大きな欠伸をした。酷くつまらなさそうである。


「ソウルみたいにリスクはないの?」


「廃獣化のようなものはないわ。言い方を変えましょうか。廃獣化、魔力の大量消費が深淵術におけるデメリット。神焔法におけるデメリットは、まともに扱えるようになるまでに多くの時間を費やすこと」


「それはデメリット?」


「魔法の力は偉大よ。たった一人が参戦するだけで戦況は簡単にひっくり返るほどに。戦いは質もあるでしょうけど、やはり根本的には数なの。魔法を使える者の多さが、そのまま国の持つ力の大きさになる」


 そうか、とネルは納得した。ネルはただ魔法が使えるかどうかで考えていた。だからこそ危険性の少ない神焔法の方が優れていると思ったし、時間を費やすことにデメリットを感じなかった。


 しかしその背景に戦い――戦争があるのならば話は全然違う。


 失ったものは簡単には戻らない。失ったのが一という最小の数値でも、それを取り戻す間に十やあるいは百を失うかもしれないのだ。だとすればアンリの言うとおり、そのデメリットは大きい。


「ん? じゃあ深淵術は使用者を増やすこと自体は簡単なの?」


「魔力を持っていれば誰でもできるわ。深淵術のメリットはそれと、少量の魔力でも爆発的な力を使えること。ただしだからといって誰もが使いたがるわけじゃない。それはやっぱり廃獣化の危険性が使用することを押し止めるから」


「ハイリスクハイリターンなんだね」ネルは頷く。「神焔法のメリットはその危険性がないこと?」


「それと成長性があることね。神焔法には深淵術のような等価性はないの。一の魔力で一のソウルを得るのが深淵術の基本、そしてこれは絶対に揺るがない。神焔法の場合、一の魔力で扱えるのは“最低限”で一のマナ。練度が高ければ、一対十、一対百交換もできるようになるわ」


「でもやっぱりそこに至るまでには途方もない時間が必要なんだね」


「才能を度外視すればね。どんな時代にも規格外な存在はいるわ。常識を嘲笑い、常軌を逸する者が必ずね」


 話はひとまずそこで区切られた。アンリがその空気を作ったからだ。ネルはそれを感じ取り、休憩がてら情報の整理に努めた。まず考え方の基本を刻んだ。魔法がなんのためにあり、なにに使用させるのかを忘れてはいけない。


 深淵術と神焔法。どちらにもメリットとデメリットがある。一概にどちらがいいとも言えない。時間さえあれば、神焔法の方が優れていると、ネルは思っているが。


 ノノリルが船を漕ぎ始めた。疲れているのか、ただ眠いのか、あるいはつまらないのか。その全部かもしれない。


 もういいだろうか、とネルは再び質問をした。


「どうして僕たちは廃獣化しなかったの?」


 単純に考えれば、廃獣化するほどに魔力が枯渇しなかった、だ。即時効果を発揮する類のものではなく、時間がかかるものだった。だから炎の壁に閉じ込める必要があった。辻褄はこれで合う。


 合うが、もやもやは消えない。それはやはりどう考えても、脆すぎるからだ。もちろん彼の慢心がなかったとは言えない。しかし敵国に攻め込んでくるほどの使い手が慢心するだろうか。慢心を裏付ける確信があった。事実があった。経験があった。


 その他の要因として、ネルとノノリルの姿かたちが子供であるから、とも考えた。子供だから甘く見たのだと。しかしそれはありえない。あの神焔法使いは深淵術が使えることを知っていた。もちろん見ていたからだろう。


 だから慢心はあったと結論付けた。経験と事実が確信を生んだ。この程度ならばすぐに廃獣化できるという確信。


 それが“見誤り”をさせた。


 それが神焔法の話を聞くまでのネルの考えだ。当然、今は考え方が違う。まずあの男の評価だ。敵国に攻め込むほどに神焔法を扱える者なのだ。そんな実力者が見誤ることなどあり得るだろうか。


 もちろんあり得る。


 ネルはその仮説が正しいかどうかを知るためにアンリに問うた。もしそうならばただただネルたちに出くわした彼が不運だった。


「あなたたちは廃獣化しないわ」アンリが答える。「あなたたち自身が『深淵術そのもの』なんだもの」


 固唾を呑む暇もなかった。緊張もなく、だから脱力することもなく、ただ質問に返ってきた答えを受け入れるだけだった。


 そしてその答えは、ネルが思っていたとおりだった。


「知っていた――というよりは気付いていたのね」


「ノノリルが言ったんだ。僕たちはアンリのおかげで生きていられるんだって。それが妙に引っかかってた。ノノリルも僕と同じなの?」


「経緯は違うけれど、私が深淵術で命を繋ぎ止めているのは同じね」


 澄ましているアンリに、ネルはただただ戦慄を覚えていた。


 深淵術を使うにはソウルと魔力が必要だ。ソウルを得るのにも、また維持するのにも魔力を使う。つまりアンリは魔力を常に消費し続けている。命を繋ぐために必要な魔力量など想像できるはずもなく、それを二人分だというのだから、わかるのは一つだけ。


 アンリの魔力が途方もなく絶大量ということだけ。


 どの時代にもいる規格外。


 常識を嘲笑い、常軌を逸する存在。


 それはまさしく彼女自身を言い表したものだろう。

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