第2章

第6話 命の選択

 冷たく妖しげな風が、ネルの頬を舐めるように吹き通った。小屋から出たときは星空や小屋の灯り、眼下に見えるリバスークの灯りでそれほどの暗さを感じなかったのだが、森に足を踏み入れてからは、まるで取り憑かれているかのように常に恐怖を傍に感じていた。


(ウラシフのときと似てるなあ……)


 前を歩くノノリルを見て思う。ただあのときとは違い、ネルが遅れそうになるとノノリルが待ってくれる。先輩風を吹かせなくても、普通に面倒見はいいのだろう。


「『骸コブラ』に気をつけないとね」


「大丈夫大丈夫」ノノリルは愉快そうに言う。「私はあいつらと友達なんだ」


「ふ、ふうん?」


 アンリといるから生物には詳しいということだろうか。果物屋の女店主に話していたことが嘘でなく、『骸コブラ』の血清を持っていたように、アンリは生態調査『も』しているようだ。彼女の指示で動いているようだし、自然と知識が身についていてもおかしくはない。


 つまりは「よく知った間柄」という意味で友達と言ったのだろう。一方的に知っているのだから友達というよりはストーカーではあるが。


 道なき道を歩いていく。小さな気配をよく感じた。虫や小動物がネルたちに気付いて意識を向けているのかもしれない。


「仕事のことなんだけど、僕もやらないといけないの? その……人殺しをさ」


「当たり前だよ、後輩くん。まあ私がいるから必ずしも後輩くんが敵を殺す必要はないけど、いつかは絶対にやることだ。それに、アンリに助けられた命なんだから、彼女に従うべきじゃない?」


「まあ、そうだけども」


 アンリに助けられていなければ、目覚めることはなかった。壊された用済みの人形のように打ち捨てられていただけだ。今があるのは彼女のおかげ。だから彼女に従って動くのは恩を返すようなものだ。拒絶すべきことではない。


 ただ問題なのは返すその「恩」だ。


 余程のことでなければネルだって断らない。命を救われた自覚はある。けれども今回はよりにもよってその「余程のこと」なのだ。


 人殺し。殺人。


 敵対国の存在を知り、敵国の人間を村に置いておくことを危惧したネルではあるが、しかしだからといって彼らを殺そうと思ったことはない。


「それに、私たちが生きていられるのはアンリのおかげなんだぞ」


「うん? そうだ……ね?」


 なぜ同じことを言われたのだろう、とネルは少し戸惑う。強調のために繰り返すことはよくある。しかしそれならば「それに」が引っかかる。


 すっきりとしないまま、話は進む。


「ところで後輩くんは深淵術の感覚は覚えてる?」


 そういえば、あれ以来使っていない。使う機会がなかったのだから当然だ。もしもこれからブランドアの人間と戦うことになるのなら、身を守るためにあの感覚を思い出す必要がある。


 自分の左手を見て、身体の左側を意識する。今は普通に人間と変わらない色と形、そして感触をしている。それを黒く染め上げる。しかし上手くいかない。今度は力を込めてみる。それでも変化はなかった。


「なるほど。忘れちゃったかー」


「みたいだね」


「じゃあ思い出してきてね」


 ふいに耳元でそう囁かれたかと思うと、背中に壊れんばかりの衝撃を受けた。靴裏が地面から離れ、身体は浮き上がった状態になる。まるで黒騎士の突進のように、ネルは枝葉の抵抗に負けることなく森を直進した。


 すると、身体中に受けていた抵抗が突然なくなる。開けた場所に着いたようだ。ネルは消えた抵抗にバランスを崩し、その場に惨めに転がった。一回転、二回転とし、木の幹に背中を打ちつけたときは、視界が逆さまになっていた。


「何者だ!」


 その逆さまの世界に見覚えのある装備をした男たちがいた。あの二人と違うのは装備のどこにも損傷はなく、頭に兜を付け、右手に剣を、左手に盾を持っていることだ。


「あ、怪しい者ではないです……」


 精一杯取り繕ってみたが、異常な勢いで森から現れ、逆さまになっている男が怪しくないわけもない。とにかくネルは体勢を立て直すことにした。その際に、今まで森の中で見えなかった満天の星が、この場所では見えることに気付いた。


 しかしその素晴らしい景色を、写真を破るように一筋の鈍銀色が二分した。それが剣だと気付いたのは、黒く染め上がった左腕で受けてからだ。


「深淵術の使い手か!」


 ノワルゲートの人間だとはわかっていたようだ。少し考えてみれば当然である。ブランドアにしてみれば、ここは敵国であり、ここで出会うほとんどがノワルゲートの人間だ。それに軽装の男となれば、それはもう現地の人間に他ならない。


 男の左腕と、視界の端に映る他の兵士の姿が動き出し、ネルは剣を弾き返し、距離を取った。空振った盾と、空を裂いた剣。留まっていれば袋叩きにあっていた。


 変化からして、ネルの身体で深淵術の恩恵を受けているのは左側だけだ。右腕であの盾を防げば、骨をへし折られるに違いない。


 ネルが深淵術を使えるという情報が、兵士たちの手をあぐねさせている。ただネルが思考えている間にも、向こうもまた同様に作戦を練ることができる。


 逃げるべきだろうか。


 兵士の数は五人。二人が先行し、残りの三人が様子を窺っている。その三人の意識はネルだけに向けられていない。増援の可能性を危惧している。


 しばらくは睨み合いが続く。


 そう思っていた矢先、様子見をしていた三人のうちの一人が消えた。


 最も後方にいたその兵士が消えたことに、その場の全員が一瞬遅れて気付く。振り返り、横を見、視線を移したその先にあったのは――いたのは大量の蛇だった。銀色の蛇が群れを成して、一匹の蛇のように固まっている。


「ダメだぞ、後輩くん」


 森の中からそう言って現れたノノリルの姿を見て、ネルは声を失った。右側の袖を突き破るようにして、次々と蛇が生み出されていたからだ。人間の腕から蛇が現れている、というよりは、蛇が人間の腕を構成していた、と表現した方が近いほどに、蛇が解けていく。


 ふいに彼女の言葉が蘇る――『骸コブラ』は友達。


「使えたのなら使えたって先輩に報告しないとね」


 ノノリルを捉えながらも、ネルの意識はもう一つの光景に縛られていた。


 大量の蛇が残りの二人も呑み込んだのだ。一瞬の悲鳴もすぐに蛇の息遣いに消され、あっという間に、人間二人が姿かたちを残すことなくこの世界から消えた。


「ば、化物……」


 最初に斬りかかってきた男が声を震わせた。余裕ができたからなのか、ネルはその男がまだ青年だということに気付いた。兜の中に見える顔が若々しく、けれど恐怖に彩られてしまっている。


「倒しがいがあるでしょう?」


「ゆ、許してくれ」もう一人の兵士が剣と楯を捨て、情けない声で懇願した。


「うん、許す。でも死ね」


 ノノリルの表情も、声色も変わらない。戦う気がある者も、恐怖に慄く者も、降参を示す者も同列でしかなく、そこに慈悲はない。相手は敵だ。情けをかける意味など、必要性などない。


 それはわかっている。理解もできる。


 けれどもネルは――。


「ちょっと待って!」


 ネルはノノリルと兵士たちの間に割って入った。静かに迫ってきていた蛇の大群の動きも同時に止まる。


「どうしたの? もっと酷いことをしたいとか?」


「この人たちは戦う気がないんだ。だったら殺す必要はないよね」


「今はね」ノノリルは小さく息を吐いた。「後輩くん、その人たちは兵士なんだよ。まあたしかに敵を前にこんな醜態を晒しているようじゃあ失格ではあるけど、それでも兵士でしかなく、戦意が戻ればまたここに来る」


「そのときに戦えばいいじゃん」


「うーん、そうなんだけどさ。私はそれでもいいよ。じゃあ後輩くんは?」


「それでいい……!」


「次に彼らと出くわすまでに、彼らにミリアちゃんを殺される可能性があっても?」


 今度は「それでいい」とは言えなかった。


 いいはずがないからだ。


「優しい先輩からの助言だ。誰を救いたいのかくらいはちゃんとした方がいいぞ」


 まるで強風が吹き抜けたかのように、大量の蛇が一斉に動き出した。ネルの背後で――二人の兵士がいた場所で蠢き続ける。貪り続ける。蛇の噴気音がまるで、彼らの断末魔のように聞こえた。


 無駄に希望を与えてしまった。


 一気に殺すよりも酷い方法になってしまった。


 揺らぐ心に酔ってしまいそうだった。あまりにも不安定で、あまりにも不明確で、まるで波のようだ。感情が、気持ちが、想いが、寄せては返っていく。


 ノノリルはおどけるように言ったが、あの助言は正しい。正しいから――正しすぎるから、ネルの心を動揺させた。


 誰を救いたいのか。


 誰を救えるのか。


 決してその意味はなかったのだろうが、ネルには「身の程を知れ」と言われているように感じられた。


「まあそう深く考え込むこともないよ、後輩くん」


 落ちていた視線を上げると、ノノリルの右腕が再構成されていくところだった。大量の蛇がその質量を無視して、細い腕になっていく。あの腕の中にあの五人も含まれているのだろうか。


「考える必要なんてない」


 そう言葉を紡いだのは、ノノリルでもネルでもない。知らない男の声だった。


「お前たちはここで終わるんだからな。深淵術使いども!」


 途端、赤白い光が――炎が、ネルたちのいる一帯を走った。円を描き、二人をその中に閉じ込めると、今度は地面が輝き出す。なにが起きているのかわからなかったネルでも、その図を見てすぐに理解した。


 ネルたちの下に描かれたのは魔法陣だ。


 魔法――深淵術。


 そう解釈すべきはずなのに、ネルはこの魔法陣を深淵術だと思えなかった。


 だからこそこの中にいるのは不味い。きっと不味いことが起きる。ネルはそう思って逃げようとするが、そうしようとしないノノリルの姿を見て足が止まった。どうして動こうとしないのか。


「なんだこりゃあ。《神焔法(セイクリド)》も落ちたもんだ」


 初めて聞く言葉をノノリルは告げた。やはりこれは深淵術ではないようだ。ブランドア独自の魔法なのかもしれない。


「いつまでそうしていられるかな!」どこからともなく男の声が響いてくる。「すぐにお前たちの魔力は枯渇する!」


 男の言葉に、ネルは戦慄した。魔力の枯渇を引き起こす魔法。それはつまり、彼らが――ブランドアがウラシフを廃都にしたと言っても間違いない。その魔法で人々を廃獣化させ、平穏を奪った。


 そんな魔法があっていいのか。


 その魔法があるかぎり、廃獣化は引き起こされ続ける。どんなに抗っても、魔力が奪われてしまえば、深淵術を使う者は廃獣と化す。ウラシフのような場所が増えていくということだ。


 そんなことがあっていいのか。


(いいわけ……ないだろ!)


 頭に浮かんでいるのは、箱馬車の中で蹲っていたミリアの姿だ。ブランドアがノワルゲートにいるかぎり、ミリアのような子がいなくならない。


 ネルの中でなにかが弾けた。ブレーカーが落ちるように、スイッチが切り替わるように、大きく変化が起きた。一切の雑念が消え、五感が研ぎ澄まされる。視界にあるのは炎。だが、見ているのはその外側だった。


 ――見つけた。


 その姿を捉えた瞬間、ネルは対象に向かって飛びかかった。それはまるであの黒騎士のように、狙ったものを確実に壊すための動きだ。自分は一つの弾丸。射出され、一直線に進み、対象を穿つ。


 突き伸ばした左腕はしかし、炎の壁によって妨げられる。熱によるものだろうか。腕の表面が焼け爛れるように崩れていく。けれども同時に、再生も行われる。熱による痛みと焼け焦げる臭いだけがネルを襲い続けた。


「バカめ! お前たちを外に出すわけがないだろう! そこで燃え尽きるがいい!」


 思ったよりもずっと近い。


 左腕に力を込め、炎の中に侵攻していく。


 分厚い壁に身体をのめりこませていく。


 身体が熱に包まれ、血液が滾っていくごとに、ネルの心は冷たく研ぎ澄ませた。


「どれだけ足掻こうが、この神焔法の前では深淵術使いはゴミになるんだよ! いいや、ノワルゲートの人間などゴミだらけだ! 死んで当然なんだよ!」


 男の笑い声。


 手を伸ばせば届きそうだ。


 しかし勢いが足りない。突破力が不足している。


 あと少しが遠い。


 ふとノノリルの姿が脳裏を過ぎった。蛇でできているような、蛇を生み出したような細い腕を思い出していた。


 そしてあの言葉を。


 ああ、そうか。


 ネルは気付き、


 自分という存在を、


 藤宮ネルという人間を、


 捨てた。


 瞬間、左手には、見ず知らずの男の頭があった。まるで黒蛇が獲物の首を引き千切ったかのような光景が、燐となって散る神焔法の中にあった。


「ミリアを悲しませたのなら、僕は許さない」


 そうだ。


 守りたいのは他の誰でもなくミリアなのだ。


 彼女を守るためならば、人だって殺そう。


 化物と蔑まされたとしても。


 決意を固めるように、左手にあったものを握り潰した。

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