第3話 二度目の目覚め

 いつからその女の子が傍にいたのか、ネルは憶えていない。いつの間にか傍にいて、いつの間にか仲良くなっていて、そして知らずに彼女を傷つけ続けた。自分だけが楽しい日常を過ごした。


「こっちにきて。一緒に遊ぼう」


 そう言われると、まるで魔法にかかったように身体が自然に動いた。自分のすべてが彼女に支配されているみたいだったが、しかしそれを苦に思ったことはない。


 差し伸ばされた手をいつも握りしめた。


 柔らかく、温かかった。ネルの手を引っ張る力強さも、まだ憶えている。


 それなのに――。


 思い出が泡のように消え、ネルは覚醒する。黒だけの世界に色がついた。天井と吊りランプ、それに憶えたばかりの顔と繋がれた手があった。


 力が入っていることに気付き、ネルは飛び起きた。なにせ彼女の手を握っていたのは、左手だったのだから。


「だ、大丈夫? 手痛くない?」


「大丈夫だよ?」


 女の子が小首を傾げた。なにを心配されているのかわかっていないらしい。それ故にネルは安心した。今は、左腕は“ただの腕”のようだ。


「起きた?」


 女の子のうしろからアンリが現れ、ネルにカップを渡した。


「ここは?」


「ウラシフの近くにある小屋よ。あなたは熱で意識を失ったの。ミリアに感謝しなさい。付きっきりで看病してくれたんだから」


 視線を落とすと、自分がベッドの上にいて、かけられたタオルケットの上に丁寧に畳まれた淡い紫色のハンカチが落ちていた。触れると、生温さと湿り気を感じた。


「私、ミリア」


 女の子――ミリアが自己紹介をした。その顔に不安や緊張の色は見えず、ネルはそっと胸を撫で下ろした。そして同時に既視感を抱いた。自己紹介にではない。その面影をどこかで見たような覚えがあった。ただそれは、一瞬の感覚でしかなく、勘違いだと言わんばかりに跡形もなく消えていった。


「僕はネル。よろしくね。あと、ありがとう」


「もう治った?」


 ミリアがネルの額に手を当て、続けて自分の額に当てた。ちょっと考えた仕草を見せたあと、また小首を傾げる。どうやら判然としないようだ。すると、ミリアは身を乗り出し、自分の額をネルの額に当てた。鼻先どうしがぶつかった。


 幼い子供にされているはずなのに、鼓動が速まった。視界いっぱいに映し出されるきめ細かい肌はなぜか見てはならないように思え、ネルは視線を外した。


「まだちょっとあるかも」


「僕は体温が高い方なんだ。そのせいかな」


 ミリアの何気ない行動に緊張してしまったからとは言えず、ネルはそう嘘をついた。大きな瞳がなかなかネルを放さない。


「僕はどれだけ寝てたの?」


 逃げるようにアンリに訊ねた。


「数時間程度ね」


「意外と短い……」


「そうね。意外と早く馴染んだと思うわ」


 その言葉に、ネルはアンリに訊かなければならないことがあったことを思い出す。受け入れかけていたが、本来は持たざる力なのだ。それを仄めかすような発言をアンリはしていた。


 驚かないこと、焦らないこと――冷静でいることを不思議がった。


「僕の……僕の身体になにをしたの」


 アンリが話し出すまで、しばらく沈黙が続いた。重く、息苦しい時間。小さな手がネルの手を掴んだ。ネルはミリアを一瞥して微笑み、軽く握り返した。


 きっと彼女もネルと黒騎士の戦いを見ていたはずだ。普通の人間ではない者たちによる戦いを目の当たりにしていたはずだ。歪で、異質だっただろう。それでもミリアはネルの左手を掴んでくれる。


 その気持ちが、ネルの支えとなっていた。


 順を追って話すわ、とアンリが口を開いた。


「わたしが見つけたとき、ネルの身体は左半分を失っていたわ」


 あまりにも流暢に、そしてなんの起伏もなく言われて、ネルはその意味を理解するのに数瞬の時間を要した。


「え? は? 身体の半分がなかった?」


「そうよ」アンリはあっさり頷く。嘘をついている様子はない。出会ったばかりだが、そもそも冗談を言うタイプでもないことはわかる。「それなのに血を一切流さず、呼吸は通常どおり行われていた。死んでいなければならない状態で、ネルは生きていたの。そんな面白いもの見逃すわけにはいかないでしょう? だから直した。足りない部分に深淵術を施した」


「助けてくれたんだ……。ありがとう」


 アンリが意表を突かれたと言わんばかりの表情をした。


「ネルは感謝するのね」


「だって助けてくれたんでしょう? だったら感謝するしかないよ」


 どんな治療が行われたかなんて関係ない。助けてもらったのならば、それは感謝すべきことだ。感謝以外の言葉が見つかるわけもない。


 なにより、その力でネルはミリアを救うことができたのだから。


 悪意を持って弄られたわけでも、理由がわからないわけでもない。はっきりとした理由があるために、ネルはそれでもう納得できた。


「変わってるわね」


「そんなこと言われたのは初めてだよ」


 そう言われないように生きてきたのだから当然だ。個性を殺し、周りからはみ出ることなく、まるで擬態するように紛れていた。


 生前に言われていたらきっと気持ちが沈んでいただろう。その言葉は、評価は決して褒めているものじゃない。一線を引くものであり、喜べるはずがない。


 けれどもネルは今、嬉しかった。この環境にまだ適応できずにいることが、ネルを自然体に、否応なく「昔」に戻した。仮面をつける余裕なんてない。そもそもここではどんな仮面をつけるのがいいのかわからない。


 わからないままでいよう――ネルはそう思った。そんな生き方も――過ごし方もしてみたかった。


 次の質問に入ろうとしたとき、小屋の扉が開かれた。蝶番の擦れる音に意識が向いてしまい、ネルの質問は思考の底に埋もれてしまった。


「お、起きたのかい、新人くん」


 現れたのは銀髪の女だった。ミリアと同じかそれよりも小柄。開いた口には八重歯が覗いていた。


「おかえり、ノノリル。楽しかった?」


「気分転換にはなったかな」


 ノノリルと呼ばれた女はアンリと軽く会話をして、ネルのいるベッドに飛び乗るように座った。埃が舞い、窓から差し込む光に照らされ輝く。その拍子に身体が揺れ、思わずノノリルの顔に顔が当たりそうになった。


「おはよう新人くん。私はノノリル。よろしく」


「僕は藤宮ネル」


「フジミヤネルか」


「ネル! 藤宮はいらない」


 苗字と名前を一緒にされてしまいかけたため、焦って訂正する。どうやら日本よりは海外寄りの名付けのようだ。区切り方と発音に気をつけることにし、基本的には「ネル」と名乗っていくことにした。


 その明るさにネルはたじろいでいた。この手のノリが苦手なのだ。流暢な挨拶もそうだが、パーソナルスペースが異常に狭いのも気になる。なにか裏があるのではないかと疑ってしまう。アンリの仲間ということは信じてもいいのだろうが。


「突然アンリに呼ばれたときはなにかと思ったら、倒れた“二人”を運んでだもん。片方は同胞だけど、もう一人はただの人間なんだから、そりゃあ驚くよね。あのアンリが人助けって」


「ちょ、ちょっと待って。倒れたのは二人?」ネルはミリアを一瞥した。「それじゃあミリアも?」


「うんうん。なんだ、聞いてなかったんだ。ただミリアちゃんは眠ってただけなんだけどね。新人くんに比べればなにも問題はないよ。心配しないしない」


 ノノリルはネルの肩をバシバシと叩いた。経験はしたことないが、上司と飲みに行っているような、そんな感じだった。ただ相手は自分よりもずっと年下に見えるため、傍から見てもそうは思われないだろう。


 心配が伝わったのはミリアも同じようで、元気だとアピールするように、胸の前で二つの拳を握るポーズをとった。


「ちょうどいいから出かけましょうか」


 一区切りを見極めてか、アンリがそう切り出した。


 断る理由もなく、ネルたちは小屋の外に出た。小屋があるのは小高い場所であり、視界の下に小さな村を眺めることができた。周りには木々が鬱蒼と生い茂り、小屋のある場所を隠すように囲んでいる。けれども、青い天井を見上げることができた。


 ノノリルとミリアが姉妹のように先頭を歩き、そのうしろをネルとアンリがついていく。緩やかな坂ではあるが、整地されていないため少し歩きづらい。


「あそこはウラシフ?」


「違うわ。リバスーク。ウラシフから一番近く、ノワルゲートの末端にある村よ。友好的な村人しかいない不思議な場所よ」


 ノワルゲートにありながらね、とアンリは付け加えた。


「一番近くってことは廃獣に襲われる可能性も高いんじゃあ?」


「その可能性は充分にあるわ。そのためにわたしとノノリルがいるの」


 村が襲われないようにするためなのか――ネルはそれを訊くことができなかった。その疑問が浮かんだのは、黒騎士を見るアンリの表情を思い出したからだ。調査をしているとは言っていた。けれど、人を助けるためだとは言っていない。その性能や行動を知る調査をしているのかもしれない。成長や進化を見たいのかもしれない。


 もしもそうならば、アンリたちはリバスークを助けることはしない。


 そしてネルにはすでに答えが出ていた。


「ノノリルも深淵術が使えるの?」


「ネルと同じよ」


「歳は? ミリアと同じくらい?」


「おそらくね。気にしたことないわ」


 ふうん、とネルは前を行くノノリルの後ろ姿を見た。ミリアに手振り身振りでなにかを話しているようだ。反応の薄さにも構わず、むしろその薄さをいいことに激しくボディタッチをしていた。ノノリルのパーソナルスペースが脅威というべきか、ミリアの同じなさが脅威というべきか、ネルには判然としなかった。


 ミリアと同じくらいの年齢。


 見た目だけならば可愛いものだが、アンリの付き添いができるのだから、きっとその実力は折り紙つきなのだろう。深淵術のエキスパートなのかもしれない。人は見た目によらないとも言う。


 リバスークには入口を示す簡素な門があった。とは言っても扉があるタイプではなく、運動会の入場門のような、押せば倒れてしまいそうなものだ。


 遠くから見てもわかったが、ウラシフと比べてかなり寂れている。背の高い建物は見張り台が四つと鐘楼が一つあるだけだ。地面は石畳が敷かれておらず表面の乾いた黄土色の土である。人気はないわけじゃないが、それでも数えられるほどしか見当たらない。


 村というよりは商店街の一部を切り取ったかのようである。


 それを連想させたのは賑やかさもあってだろう。話し声が絶え間なく聞こえ、笑い声もちらほら。子供たちも笑いながら走っている。


 きっと廃獣のことを知らないのだろう。


 ウラシフの現状を知らないのだろう。


 だから明るく、しかしだからこそネルの心を穏やかにさせた。


 ミリアたちは屋台でなにかを買ったようだ。恰幅のいい女が立ち去っていく二人に小さく手を振っていた。ネルは彼女たちが買ったものが気になり、並んでいる商品を見た。色鮮やかな――とはいかずともいろんな種類の果実が並んでいた。


(リンゴに……。これはブドウかな)


 見覚えのあるようなものもいくつかある。しかしやはり輝きや鮮やかさは記憶にあるものに比べると数段劣っていた。似て非なるものだろうか、とネルは試しに女店主に訊いてみた。


「これはリンゴ?」


「他になにに見えるってんだい」女店主は快活に笑う。ネルの言葉を冗談と捉えたのだろう。「あれ、あんた見ない顔だね。もしかして旅行者かい?」


「え、あ、はい。まあそんなところです」


 女店主は身を乗り出して、ネルの顔を凝視した。まるで焼きたてのパンを彷彿とさせる顔には、ビー玉のように綺麗な目が埋め込まれていた。眉毛はやや下がりつつも、どこか気の強さを感じさせた。丸い鼻から息を漏らすと、女店主はネルから離れた。


「その顔と目は都市部の人間だね。綺麗な肌をしているけど、どこかその内に苦労を感じさせる。どこかの貴族かい?」


「そんなあなたは占い師ですか?」


「大小様々の食べる水晶玉を売っているのさ」


 女店主は両手を広げて、並べられた商品を示した。


 ネルが黙って見ていると、彼女はウインクをしてみせた。ああそうか、とネルは頬を緩めた。ここは笑うところなのだ。人間らしいやりとりを忘れてしまうなんて、会話の着地点を見失うなんて。


「さ、どれを買うんだい?」


「さっきの子はどれを買いました?」


「さっきの子――ああ、ノノリルのことだね。あの子ならブドウを買っていったよ。相変わらず大した目利きをしていくよ」


「知り合いなんですか?」


 そう訊いてすぐに愚問だとネルは思った。アンリの小屋からリバスークはすぐ傍であり、ノノリルのあの性格からして、村の誰かと親しくしていてもおかしくはない。どの程度の親密さかを訊き出すためだったと考えれば、愚問ではなくなるだろうと自分を説得させた。


 女店主はにっかりと歯を見せて笑う。


「まあね。最近顔を見せるようになったんだけど、あの子が人懐っこいこともあって会話が弾んじまってねえ!」


 それからしばらくノノリルの話が続いた。どうやらかなり仲がいいらしい。お互いの目利きの実力を認め合うだけでなく、たまに一緒に食事をすることもあるようだ。それはノノリルの性格があってのことでもあるだろうが、この女店主の明るさも起因しているに違いない。


 少しの強引さ、気の強さもあるが、裏表のなさが見てわかる。ノノリルだけでなく、他の村人からも愛され、信頼されているに違いない。


 ネルは会話も程々にして、リンゴを買うことにした。


 しかし今更ながらに気付く。


(あ、僕、無一文だった)


 なにも買わずに立ち去ることもできる。女店主もそれを気にしないだろう。だけどもネルは、一つくらいは買わないと失礼ない気がしてならなかった。ここまで交流しておいて、話すだけで終わりなのは、出鼻を挫かれたような気分になる。


 他の商品を見ている振りをして、どうしたものかと考える。頭上から降り注ぐ女店主のこれでもかと言わんばかりの果物とそれらに適した料理の説明。ジャムやパイなどの言葉が耳を通るたびに、口腔内に唾液が溢れる。


「あんたが来るなんて珍しいね」


 誰か他の客が来たのか、女店主は説明を切り上げた。ネルは邪魔にならないようにさりげなく屋台の端に移動しようとした。


 しかし、続けて呼ばれたその名前に身体が強張った。


 まるで冷水を頭からかけられたかのように、体温が急激に下がるのが自覚できた。心臓が爆発するように膨らんでは収縮している。視界が灰色に染まったかと思うと、記憶の濁流が呑み込んでいく。


 マユ。


 その名前は“彼女”と同じだ。


 数瞬の時を数時間かけるように振り向く。そこに彼女がいるわけでもないのに、言いようのない感情がすでに幻影を作り上げていた。


 けれど、やはり幻影は幻影。彼女はもういない。


 いたのはアンリだった。


「どうしたの、ネル」


「いや、ううん。なんでもない」


 ネルはアンリから目を離し、再び商品に目を向ける。下がっていた体温、奇妙な鼓動がもとに戻り始めた。


(いるわけないだろ……)


 たとえ夢でも、彼女は現れない。


 マユは会ってくれない。

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