第2話 熱帯びる後悔
それを見たとき、まず驚いたのは一瞬でも「人間」だと思ったことだ。たしかにシルエットは人間だ。着ている衣服も、ネルがいた世界のものとよく似ている。だが、ある一点だけはおよそ「人間」と呼ぶことができない状態になっている。
内側から膨張し破裂したような巨大な右腕。
そのアンバランスさに、不気味さを通り越した説明のつかない感情が湧いた。気持ち悪いとも思わない。そして気付く。説明がつかないではなく整理がついていないのだと。あまりにも常軌を逸していて脳も心もついていけていない。処理が遅れている。
その化物はネルたちに気付いている様子はなく、ただ足もとの箱馬車を眺めている。直立した状態でも箱馬車に届く右手ではなく、わざわざしゃがんで左手でノックをした。その人間らしさがネルの胃を締め付けた。
「あれが《廃獣化》した人間だったものよ」
「なんであんなことしてるの?」
「さあ? あの中に人間でもいるんじゃない?」
ネルは一瞬言葉を失った。その原因は二つ。一つは襲われそうになっている人間がいること、もう一つはその可能性に気付いているのに確かめようともしないことだ。興味が《廃獣化》に向いているからという理由だけじゃない。本当に興味がないのだ。そんな冷たさをネルは感じ取った。
「じゃあ助けに行かないと!」
思い出したかのように、そして急かすように言った。もしも可能性があるのなら、助けるべきだ。そう思ったからだ。
しかし返ってきた言葉は、
「いってらっしゃい」
その一言だった。
「……え?」
「わたしは別に助けたくはないもの。もしかしてわたしがあなたの助けたいものを助けると思った? わたしはわたしが救いたいものに手を差し伸べるだけ。あそこで誰かが廃獣に殺されようとも知ったことではないわ」
なにか言い返そうと思ったが、なにも言い返せなかった。助けたいと思ったのはたしかにネル自身だ。自分で行くべきなのは当然である。それに、ネルの代わりにアンリが動くわけがない。その道理がない。
理解はできる。納得もできなくはない。
だけども、すっきりとはしない。心にもやもやとした嫌なものが残る。
そんなネルを急かすように、廃獣のノックの音が激しくなり始めた。箱馬車が大きく揺れ、木や金属の軋み擦れ合う音が響き渡る。箱馬車の扉だけでなく、そのものが壊れてしまいそうな勢いだ。
中に誰かいるとしたら、心を蝕む恐怖はネルの比ではないだろう。比較的安全な位置で、いつでも逃げられる状態のネルとでは比較にならない。長引けば長引くほどその心が受ける負担は大きいはずだ。
(僕が行くしかない!)
ネルは決心して廃獣に向かって走り出した。どうせ死んだあとに見ている夢の中。死ぬことになったのも子供を助けたからだ。それならば、ここでも同じことになっても構わない。きっと目覚めが悪くなる。
もう目覚めることはないけれど。
夢の中でも後悔はしたくない。
「こっち! こっちだ!」
箱馬車から三メートルほど離れた地点で、大きく両腕を振って自分の存在を示した。聞こえているかどうかはわからないが、大声も出して注意を向ける。
廃獣の動きはぴたりと止まり、ネルを見た。その目に光はなく、目と言うよりは洞だ。眼球があるはずなのに、まるで洞のように暗闇に奥行きがある。行き止まりはすぐそこのはずなのに、どこまでも続いていそうな。
意識が飲まれかけたことに気付き、取り繕うように慌ててなにかないかと周囲を調べようとした。
だが、それは遅すぎた。探し出してから廃獣の前に出るべきだった。
嫌な気配を感じ視線を戻すと、廃獣が飛びかかってきていた。
「うわぁあ!」
情けない声を出しながらも、咄嗟に回避をする。廃獣から少しでも遠ざかるように、倒れ込むような勢いで地面に飛び込んだ。最初は情けなかったものの、ネルはすぐに態勢を立て直すことができた。真面目に体育の授業を受けていた成果だろう。きちんとした受け身をとれたのだ。
自然と柔道の動きができたことに驚きつつ、背後を確認した。受け身を取りながら聞いたその音が想像とは違っていたため、より廃獣の状態が気になった。
石畳の壊れる音ではなかった。
むしろ壊れたのは――。
見れば、肥大化した右腕があらぬ方向に曲がっていた。肉を裂いて骨が突き出し、赤い血と微かな肉片が飛び散っていた。濃い血の臭いが漂っている。痛みを感じているのか、廃獣は声を漏らしていた。だが、その痛みを掻き消すように何度も右腕を地面に叩きつける。その度に血と肉が飛び散る。骨が浮き彫りになる。
再び声を上げる廃獣。人間の左手で頭を掻き毟り、肉を剥ぎ取っていく。
その姿を見て、ネルは悟った。
もう手遅れなのだと。
病のようなもの、調査している、魔法が存在していることから、《廃獣化》は治せるものだとどこかで思っていた。廃獣の姿を見ても、まだなんとかなると思っていた。廃獣になった彼も助けられると。
しかし逆だ。病のようなものでも病ではなく、調査しているのは魔法でどうにかなることではないからだ。
廃獣が左腕を振り上げ、ネルに叩きつけようとした。鞭のようにしなやかで、茨のように刺々しい左腕。胸元で銀色のペンダントが大きく揺れていた。
本当はどんな腕だったのだろうと――どんな姿だったのだろうとネルは廃獣を見て思った。どんな生活をして、どんな声をしていて、どんな感情があって、どんな性格をしていたのか。
今となってはそれを知ることはできない。
彼もそれを思い出すことはできないのかもしれない。
だから――。
ネルは左手で廃獣の頭を掴み潰した。振り下ろされた怪物の左腕を、か細く「黒い」左腕で弾き、躊躇うことなく前進した。最初に感じた恐怖はない。ただ廃獣となってしまった彼をこれ以上見ていられなかったのだ。
頭部を失ったことで膝から崩れ落ちる廃獣。
彼という命がようやく終わった瞬間を、ネルはただ見つめていた。死の間際くらいは人間に戻れていると信じて。
「それがあなたの深淵術。上手く使えたじゃない」
いつの間にかアンリがすぐ傍に来ていた。廃獣を一瞥し、それからネルの左腕を凝視した。
「僕の? どうして使えるの?」
「意外と冷静なのね」アンリの蒼眼がネルの目を捉える。「もっと驚いたり、焦ったりすると思ってた」
「戸惑ってる……戸惑ってるよ」声が震える。「でも、身体がそれに追い付いてないんだ。数十分の間にいろいろありすぎて、どうしていいかわからない」
深淵術を使ったが、使えることを知っていたわけじゃない。ただ廃獣を――廃獣になった人をあのままにしておきたくない。そう思ったら身体が勝手に動いたのだ。呼吸をするように、反射運動をするように。
救いたい――そう思っただけで、左腕は黒く染まり、廃獣の巨椀をものともしない強度と頭蓋を握り潰す力が備わった。
深淵術を発動してから、不思議な浮遊感があった。ネルは近い感覚を知っている。微熱のときと同じだ。気分は悪くなく、むしろいいように感じる。
「ともかく、調べたら?」
アンリの視線が、廃獣が乗っていた箱馬車に向けられた。そうだ、とネルは走る。廃獣になった人を助けることで頭がいっぱいになっていたが、そもそもは廃獣に襲われそうになっていた“かもしれない”誰かを助けようとしていたのだ。
車輪に手をかけてよじ登る。廃獣がそうしたように箱馬車の側面に立った。黒塗りのそれはそれなりに位の高い人が乗るようなものに思えた。再三殴られたことで凹みが見られるが、それでも高級感は死んでいない。
亀裂の中で一番大きな隙間に指を入れ、一気に引っ張った。強靭な左腕のおかげで、凹んで歪んでいてもその扉は簡単に引き抜くことができた。
箱馬車の内部は思ったよりも綺麗だった。赤い布地の椅子も破けず、ただ木片が火かかっている程度だった。
そして逆側面――最奥にその姿はあった。頭を抱えるようにして蹲っている。傍から見てもわかるほど震えていた。見るからに小さい身体。そこには溢れんばかりの恐怖が詰まっているのだろう。
だから、ネルは右手を伸ばした。
「もう大丈夫だよ」
ぴくり、と小さな身体は反応し、さらに小さくなる。見向きもしない。すべてが敵だと思っているのだろう。自分の外側には恐怖しかないと判断しきっているのだ。救いなどない。優しさも温かさもない。
そう見えてしまうのは、きっと幼いころに出会った彼女があったからだ。世界に救いがないと思っていた彼女と、目の前の小さな身体を持つ誰かが重なる。
しかしだからこそ、ネルは声をかける。
救いはあるのだと、救いの手はすぐそこにあるのだと。
「もう、大丈夫だから。一緒に行こう」
あの世界で出したことのない優しさを精一杯出す。偽りの優しさは日常的に使っていた。そうすれば自分が傷つかないから、自分の評価が上がるから。
本当の優しさなんて忘れてしまっていると思っていた。そんなものがまだ自分に残っていると思っていなかった。
だからなのかもしれない。
ネルの必死に伝えようとしたそれは、お世辞にも温もりのあると思えない声でも、しっかりと届いた。
小さな殻を破り、その顔がネルを見上げた。女の子だった。恐怖に汚され、悲しみの沁み込んだ顔を見て、この世界を知ったような気がした。
この夢の意味を知った気がした。
「おいで。僕と帰ろう?」
ゆっくりと立ち上がった女の子が、ネルの手を両手で掴んだ。ネルもしっかりと掴み返し、箱馬車の中から引き上げた。深淵術のおかげなのか左腕だけでなく、全体的に身体能力が上がっているようだ。
ただまだ感覚を掴めていないのか、ネルは女の子を引き上げてすぐに、そのまま尻餅をついた。想像以上に勢いがつきすぎたみたいだ。
女の子の身体の重みを受けて、ネルは思わず抱きしめてしまう。
「よかった……」
女の子はそれを受け入れてくれた。泣きもせず、声を出すこともない。ただ身体の冷たさだけが身体に残り、震えは消えていた。安心してくれているのだろう、とそっと頭を撫でた。
「本当にいたんだ」
降り注がれた声に反応して、ネルは顔を上げた。蒼い月のような目が二人を見下ろしていた。その色のように冷ややかで、興味なさそうだった。
「うん。後悔しなくて済んだ」
後悔――それが、この夢のなかにいる意味だろう。
女の子。小さな身体に詰め込まれた恐怖と絶望。
重なる記憶。
ネルはずっと“彼女”を救えなかったことを後悔していた。あんなにもサインを出してくれていたのに、それに気付かず自分だけが楽しんでしまった。子供だったのだから仕方ないと納得しようとしたこともあった。けれど、子供だからこそ、純粋な気持ちで救えたのではないかとも思えてしまう。むしろ、そっちの気持ちの方が強い。
強く刻まれたこの後悔を消し去ることはできない。
だけど、似た過ちを繰り返さないことはできる。
「ふぅん。でもまだ安心はできないんじゃない?」
アンリが噴水の方を向いた。それとほぼ同時にあの雄叫びが響いた。耳を劈き、身体の芯まで振動が浸透する。それどころか街全体が揺れている。特に窓ガラスに亀裂が入る音が顕著だ。
ネルはそれが収まるまで、女の子の耳を塞いだ。
ちらりとアンリを見ると、耳を塞ぐことなく噴水の方を見つめていた。その口元には笑みが浮かび、蒼い瞳には嬉々とした輝きがあった。
その方向を見やると、そこには黒い騎士がいた。身体全体から煙のような黒いものが噴き上げている。右手には刀身が赤黒くなった剣を握っている。
「何者……」
「あれも廃獣よ。強い意志を持っていた人間が廃獣になると、他の廃獣とは違う特別な存在になるの。壊れているけど壊れていない。獣のようでいて人のよう。だからただの獣よりも知的で、人よりも自由」
「もしかしてアンリの調査しようとしていたのって」
「そうよ。あれよ」
どうする、とアンリは投げかける。
「さっきの廃獣とは比べ物にならない強さを持っているわ。今はまだ気付いていないけど、いずれわたしたちに気付く。その子はどうなるでしょうね」
脅すように、煽るように、嘲笑うように、アンリは言う。そしてそれはまさしくそうなのだ。脅し、煽り、嘲笑っている。ネルの行動を楽しんでいる。
隠された問いかけ。
ネルは黙って立ち上がった。
「僕がなんとかする」
「勝算はあるの? この子はどうするの?」
「勝算はないよ。だけど、守ってみせる!」
ネルは女の子の耳に口を近づけた。
「このお姉さんの傍にいれば大丈夫だから待っててね」
アンリに頼んでもきっと断られるだけだ。だが女の子が勝手に傍にいるだけならばなにも言わないだろう。ならばそこが一番安全な場所だ。心も不安に負けることはないだろう。高が、誰でもいいから傍にいるだけで心は落ち着く。
女の子の頭をひと撫でして、ネルは颯爽と黒騎士の前に向かった。
前に出てわかったが、黒騎士の放つ威圧感は凄まじいものだった。水の中で溺れたときよりも息苦しく、重々しい。言うなれば泥水の中、底なし沼の中に飛び込んだかのような感覚だ。
声で注意を引こうとしたとき、静かに黒騎士がこちらを向いた。そして三度の雄叫びを上げる。黒い煙が周囲に拡散していく。
ピリピリとその肌に感じる痛み。その痛みに意識を向けた一瞬で、ネルはいつの間にか黒騎士の間合いに入っていた――黒騎士に近づかれていた。
(――え?)
一挙一動に伴い鎧の音はたしかにしていた。だから今もきっとしていたのだろう。たとえば踏み込んだとき、たとえば静止したときに。けれどもネルはそれを聞き取れなかった。認識できなかった。
振り上げられた赤黒い剣。ガシャリ、と今度はたしかに音がした。
その音を合図にして、ネルは弾けるようにその場から動いた。力強く踏み込み、できるだけ体勢を低くして、全力で回避をする。足先の方から石畳の砕ける音がした。左腕で受け切ることができただろうか。いや、できない。まだ腕で剣を受けるという行動が、ネルの中で確立していないため、あまりにも危険な行為だ。
さっきの廃獣のようにどうにかなると思っていた。しかしそれは思い違いだった。この黒騎士はどうにもならない。ネルは勝利を捨てた。僅かながらも感じていた勝利という終着点を捨て、少しでも遠ざけるように誘導することに専念することにした。
受け身を取って体勢を立て直すと、黒騎士が剣先をこちらに向けていた。だが、それも間違いだ。一瞬、一瞬しか捉えきれていないための誤認。反応が、処理が遅れているために起きる不具合。
黒騎士は突進してきていた。
まるで弾丸のように鋭く、砲丸のように重い突きが左胸を穿つ。
そんな光景が浮かぶと、身体が自然と動いた。その剣との距離がほぼゼロに等しくなったとき、ネルの身体は右に逸れていた。左胸を穿つはずだったそれは左腕を掠めるだけで、しかし黒騎士の本体が直撃したことでネルの身体は大きく吹き飛ばされる。身体の内部から嫌な音が聞こえてきたような気がした。壁に叩きつけられたとき、それは確証を持って聞こえた。
「――かはっ!」
身体の中にあるものすべてを吐き出してしまいそうになった。それどころかないものまで出てきそうな痛みと苦しさ。それでも二本の足で立てるのは深淵術の賜物なのだろう。あるいは呪いなのかもしれない。
この程度の痛みと苦しみでは死なせないと。
痛みと苦しさを感じずに死んだネルに対する呪い。
彼女はもっと痛み、苦しんだのだと。
このまま黒騎士に殺されれば、もっと痛みと苦しみを味わうことになる。もしかしたらこの夢が終わるかもしれない。悪夢を終わらせる方法はより深く黒い悪夢を見ることだと彼女が言っていた。
もしかしたらそうなのだろう。
けれど、そうするわけにはいかない。痛み、苦しんでも、まだ死ぬわけにはいかない。まだちゃんと救えていない。あの女の子のために、膝を屈するわけにも、諦めるわけにもいかなかった。
(もっと遠くへ……)
今度はゆったりと近づいてくる黒騎士を、じっと見据える。姿に惑わされて、相手の動きが遅いと思ってしまう。まずはその常識を捨てる。最悪のパターンを想定した。身軽さと強度の両立ができている場合だ。
黒騎士が突きの構えに入った。そして一瞬の溜めもなく、急接近してくる。音で気付いたが、突進は走ってきているわけじゃない。踏み込んだ勢いを利用している。つまり足は地面についていないか、あるいは微かに触れている程度でしかない。
突進の軌道から外れ、左腕を構える。初動を見逃さなかったはずが、それでもギリギリだった。しかしむしろそれが好都合でもある。
ネルは目の前を通過する黒騎士の腰部を左手で思いっきり殴った。押し込むように、軌道を変えるように。一瞬の接触に、ネルは全力を尽くした。触れている間は時が止まり、左腕が崩れてもいいと思いながら、自分の拳がその鎧を貫通するようにと、ありったけの力を込める。
「っそがあ!」
途端、手に感じていた重さが消える。次のことを捨てた一撃だったため、消えた間食に向かってネルの身体は倒れ、地面に顎を打ちつけた。だが、目は完全に閉じなかった。黒騎士の動きを見逃さないためだ。
黒騎士は衝撃音と破壊音を伴って近くの建物に飛び込んでいった。砂塵が舞い、レンガが飛び散り地面に落下する。
いくら鎧とは言え、強固なのはその殻だけだ。内側にいる人間だった部分が衝撃に強いとはかぎらない。なにせ頭部を失えば機能を失う点は同じだ。それは「脳」という器官が存在していることを意味し、またその存在に意味があるということ。
ならば脳を揺らせば、気絶もありえる。
(どうだ!?)
どっちだ、とネルは黒騎士の消えた個所を見守りながら立ち上がる。瓦礫が崩れる音の中から鎧の音を探す。一つでも聞き逃せば、突進の直撃は免れない。
いや、そうじゃない。
(弱気でどうする……! やるって決めたんだろ!)
ガシャリ、と小さいがたしかな音を耳が捉えた。気絶はしない。もしかしたら廃獣はゾンビのような存在なのかもしれない、と推測する。映画で観たゾンビは頭部を大きく損傷すれば動かなくなった。廃獣もそうだ。
だとすれば、黒騎士を完全に停止させるためには頭部を奪う必要がある。
集中力を高めていくと、それに連れて胸が急激に熱を帯び始めた。まるで炎で焼かれているかのように熱い。その熱は次第に左腕に侵攻していき、ネルにも理解できるほど「力」が増幅した。
すべてを一瞬に捧げる準備が整っていく。
今か今かと待ち受けていると、黒騎士の姿が砂塵の中から現れた。驚くことに黒騎士は悠々と歩いている。また突きがくると思って身構えていただけに、緊張感がさらに高まった。
ネルは乱れかけていた心を落ち着け、荒くなりかけた呼吸を正した。予想を外しただけで冷静さを失うわけにはいかない。整えた準備が台無しにしてしまう。
黒騎士が吠える。
なにを仕掛けてくる、とネルは構えたが、黒騎士はさらに予想外の行動をとる。剣を下ろしただけでなく、ネルに目もくれずに踵を返した。まるでなにかに反応したかのような行動だ。しかしその方向にあるのは突進によって破壊された建物だけ。
自分に向かってこない、戦いが終わる安堵感――そんなものはネルに芽生えなかった。あるのは言い知れぬ不安だけ。
黒騎士の背を追いかけ、建物の中に入った。それがいかに危険かもわかっていたが、不安を抑えきれなかった。
「――いない」
その内部は荒れに荒れていた。臭いからして酒店だったのだろう。多くの瓶が散見された。ガラス片を踏み進んで行っても、奥に出入りができそうな扉や穴はない。天井もまたそうだ。
音もなく黒騎士はこの場所から消えた。
「僕はなにと戦ってたんだ?」
まるで夢のようだ。
そう思ったとき、ネルはハッとした。夢の中で夢のような出来事が起きるのは不思議じゃない。夢ならなにが起きてもおかしくはない。
ハッとしたのは、この夢に“現実感”を抱き始めていたからだ。
夢と現実の境界に立っているかのように。
曖昧で、揺らいでいる。
呼吸が荒くなり、全身に熱が回る。立っていられない――膝を曲げると、ネルはそのまま熱の中に沈んだ。
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