第1章

第1話 夢の始まり

 懐かしい匂いがした。優しく、温かい。花を愛でるときのような、風を感じているときのような。


(ああ、あの子の匂いだ……)


 瞼を開くと、身体の機能も目を覚ます。肌に感じる温度や質感、空気の香り、体内音と体外音、光と色が脳に伝わり認識を始めた。


「あ、起きた?」


 視界に映っていたのは、少女の顔と灰色の空だった。黒髪の合間から覗く濃い青空のような目が、ネルを捉えている。それがあまりにも魅力的で、少し言葉を出すのが遅れる。


「えっと……うん」


 体勢と後頭部にある感触からして膝枕をしてもらっているようだ。初めての経験だったが、好きになる気持ちがわかる。


 とはいえ、いつまでもそうしてはいられないため、ネルは身体を起こした。不思議と痛みや鈍りはなく、すんなりと起き上がれた。


 そして、それが最初に気付いた異変だった。交通事故に遭ったことは驚くほど明確に憶えている。トラックに轢かれた衝撃で、全身が一気に破壊された。骨が砕ける音も残っているし、肉を裂いたところも奇跡的に見てしまっている。赤い液体がこれでもかと宙に放たれ、ネルの身体は同じように重力に逆らわずに地面に叩きつけられた。


 それだけのことがあったからこそ、彼女を思い出していたのだ。自分が見ているものが走馬灯だと理解もしていた。


 それなのに、なんともない。


 身体の様子を目で確認すると、また異変を見つけた。衣服が事故前と同じ状態だ。学校帰りのままの制服姿。半袖のシャツに、学校指定のネクタイとスラックス、最近買った運動靴までも同じだ。血の一つも付いていない。


(これじゃあまるで――)


 まるで事故そのものがなかったかのようだ。


 記憶には残っているのに、証拠が残っていない。


 そもそもここはどこなのか。ネルは灰色の空の下に広がる街を見回した。石畳で舗装された地面、建物もレンガ造りや石造りばかりだ。街灯らしきものの先端は燭台となっている。電柱もないことから、電気が通っていないことがわかる。


 日本じゃない。


 それはたしかだ。


「ここはどこ……?」


「ここは《ノワルゲート》の《ウラシフ》っていう街よ」


 ネルが振り向くと、青眼の少女が立ち上がっていた。背丈は百六十ほどで、黒いローブを着ている。日本人のような黒髪だが、その等身は日本人とはまるで違う。精巧な人形のように整った顔とスタイル。あまりにも綺麗で、近づくのを拒んでしまいそうなほどだ。凛とした涼しげな声もそれに拍車をかける。


 ネルは異様に渇いた喉を潤すために唾を飲み込んだ。そのときの音で少し驚く。


「……ノワルゲートって?」


「国の名前よ。それもわからないの?」


「知らない……。そんな国聞いたことないよ」


 もしも仮にそのような国があったとして、だとしたらどうしてネルの言葉が彼女に通じるのか、また彼女の言葉がネルに通じるのかがわからない。


「《深淵術(アンチコード)》で記憶を消された……? でも、そんな感じはしなかった。じゃあショックによる一時的な記憶障害かしら」


 青眼の少女が口元に手を当てながら、ネルを凝視する。ぶつぶつと呟きながら、可能性に見当をつけているようだ。


「あなた、名前は?」


「藤宮ネル……」


「わたしはアンリ。よろしくね」


「うん、よろしく」


 ネルは立ち上がって、挨拶をした。目算は正しかったようで、アンリの身長はネルより少し低いくらいだった。綺麗さに引っ張られてしまうが、どうやら年齢はネルより低いように思えた。どことなく幼さが残っている。


 相手の名前を知ったことで安心したのか、ネルの混乱は少し落ち着いていた。一人だったらもっと動揺していただろう。しかし幸運なことにアンリが傍にいてくれたおかげで――人が傍にいたことでそこまで気が動転することもなかった。


「早速訊きたいことがあるんだけどいい?」


「なにかしら」


「僕はどうしてここに?」


「わたしが知ってるわけないじゃない」アンリは一蹴した。「わたしはただあなたを見つけただけ」


「ここ……えっと、ウラシフだっけ? アンリはここの人なの? 他に人は見当たらないようだけど……」


 この街が異様なのは文明が発展していないからだけじゃない。見渡したかぎりでは人の姿がまったくないのだ。それに建物内に光もない。廃墟のような閑散さだ。けれども廃墟のように朽ちているわけでもない。


 違うわ、とアンリは否定する。


「わたしはこの街に《廃獣化(はいじゅうか)》の調査に来たの」


「はいじゅう……か……?」


「ノワルゲートの住人が発症する病みたいなもの……かしら。どうやら《魔力》の過剰減少による《ソウル》の暴走が原因らしいわ」


「ちょ、ちょっと、待って!」


 アンリがきょとんとした表情でネルを見る。大したことは言っていないつもりだろうが、ネルは聞き慣れない単語についていけなかった。知っている言葉もあるけれど、それが知っている用語とはかぎらない。そう考え、整理するうちに脳が処理落ちした。


「魔力っていうのは魔法を使う力でいいの?」


「それでいいわ」アンリは頷く。「なるほど、そこの知識も欠けているのね?」


「うん、まあ……」


 欠けているどころの話ではない。ノワルゲートという国の存在からして、この《世界》がネルのいた世界と同じだとは考えにくい。遠い未来に文明がリセットされ科学の代わりに魔法が発展した、というのであれば同じ世界だと言えるが、それは妄想が過ぎる。


(妄想……)


 ふとその言葉で気がつく。もしかして今のこの状況は妄想――夢なのではないかと。自分でもあの事故で助かるはずがないとわかっている。だから走馬灯のように、死の間際に見ている夢なのだとしたら、衣服や身体が無事な理由にもなる。


 しかしそれでも疑問は残る。


 どうしてこんな夢を見ているのかという疑問が。


「魔力が魔法を使うための力。それは正しいけれど、完璧じゃない。もう一つの過程が省かれているのよ。そしてその過程が今回の《廃獣化》に大きく関わっているの」


「それがソウル?」


「そう。魔法――つまり深淵術を使うには、魔力を消費してソウルを得なければならないの。たとえば魔力が10ある状態で深淵術を使おうと思ったなら、5のソウルを得るために、5の魔力を失う」


 数値化されたことで、ネルの頭には簡単に図が浮かび上がっていた。ただ言葉を並べられるだけよりもわかりやすい。


「つまりその人は魔力5:ソウル5の状態になるわけね。そしてそこから深淵術を使うためにソウル1を支払う」


「えっと、じゃあ深淵術を使う人は常にソウルを得た状態でいるってこと……かな?」


 それがどんなに難しく、またはどんなに簡単なことかはわからないが、しかしその工程をその場その場でやっていくのは非効率だ。ただその状態を維持できるのかどうかが不明瞭なため確信は持てなかったが。


 もしもできるのなら《廃獣化》のことも察しがつく。


「ものわかりが良くて助かるわ。基本的にその状態は維持するもの。難しいことじゃないわ。ただコストがかかるの」


「コスト?」


「ソウルは得るためにも魔力を消費するけど、使うためにも、維持するにも魔力を使うのよ。さっきの例ならソウル1と魔力1を消費することで深淵術を発動できる。ソウル1を貯めこんでおくにもまた魔力を1消費する」


「もしも維持コストの魔力が足りなかったら《廃獣化》するってことなんだね」


 その扱い方の際どさから考えれば深淵術がいかに強大なものかは想像に易い。それだけのリスクを背負う価値があるものなのだ。


(たしかに気になる)


 危険性と扱い方は明らかであるのに、このウラシフでは《廃獣化》が起こっているという。魔力の過剰減少により維持コストが支払えなくなり、ソウルが暴走してしまっている。通常ではありえないのだろう。初めて聞いたネルでさえ不自然を感じ、違和感を抱くのだから、アンリが調査に出るのは当然だ。


 用語の整理とアンリの目的がはっきりとしたことで、ネルはだいぶ落ち着きを取り戻していた。理解できないことが減ることで、処理落ちによる不安は解消された。


 言い換えれば、この夢に染まってきたのだ。


 理解が深まったそのとき、どこかから歪な重低音が響いてきた。それはまるで獣の雄叫びのように荒々しく、鼓膜を揺らすだけに留まらないその音が湧き起こさせるのは恐怖だ。ネルの身体は一瞬で委縮した。


「なに今の……」


「少なくとも人間のものじゃないわね」


 そう言って、アンリはくるりと振り返った。着ている白衣がふわりと広がる。彼女は目的のためにその音の中心へと足を運ぼうとしていた。


 ネルを置いていこうとしている。


 見知らぬ土地で――世界で独りになるのはあまりにも危険すぎる。ここで置いていかれたのなら、ネルに待ち受けているのは絶望だけだ。夢から覚めることはできても、自らの意思で夢から脱したことは一度もない。


 だから慌てて、アンリの横に並んだ。正確に言えば少し後ろだった。街の雰囲気、漂う空気がどうしてもネルを後ろへと引っ張った。それに抗いながらなんとかついていく。


 彼女の歩みに迷いはなく、その場所――ロータリーにはすんなり辿り着いた。


 中心部には噴水があり、本来なら中にある塔から水が出るのだろうが、今はその塔が折れてしまっている。水の流れる音だけが静かに聞こえた。また箱馬車も見受けられた。しかし馬は見当たらない。噴水に乗り上げ、追いやられたように通路の端に並び、急な転倒を想像させるようなものが十にも満たない数とはいえ視界に入るその様子は異様だった。


 まるでなにかが突然現れ、人も動物も一目散にこの場所から逃げ出したような、そんなふうに思える光景だ。


 そして、おそらくそれがまさに起きたのだろう。


「なんだよ、あれ……」


 ネルの視線は、その箱馬車に釘づけになっていた。箱馬車の上に「人の形をしたもの」が立っていた。

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