第4話 ひとときの休息

 屋台をあとにしたあと、ネルはアンリと一緒にノノリルたちを探していた。広くはない村だが、子供二人を見つけるとなるとそれなりの難易度はある。


 アンリに買ってもらったリンゴを食べてみると、みずみずしさは褒めるほどなく、甘さも控えめだった。ここでの新鮮は、あの世界での数日経ったころのものとだいたい同じくらいだろうと思えた。


 少しの決意をしてから、ネルは訊ねる。


「どうしてマユって名乗ってるの?」


「アンリは少し通った名前なのよ。だから別の名前でわたしを隠しているの」


「隠せてる?」


 名前を変えたからといっても、アンリの見た目が目立つ。それともアンリの姿はこの国では平均的なのだろうか。たとえ平均的だとしても、隠したいと思うなら変装とかもした方がいい気がした。


「ええ。名前だけはきちんと知れ渡っているから、これだけでも充分」


「有名なんだ」


「外では話せない程度にはね」


 アンリという人物がまだ掴めない。深淵術の使い手で、それなりに名が知られていて、《廃獣化》の調査をしていて、なにより命の恩人である。濃霧によって隠されているのは、なぜ《廃獣化》の調査をしているのか、という部分だ。


 さっきの屋台での去り際、こんな会話があった。


「生態調査は順調かい?」


「ええ。ただ順調過ぎて少しつまらなくもあります」


「なに言ってんだい」女店主は笑う。「滞りがないのはいいことさ。大いに喜びな」


 アンリは《廃獣化》のことを教えていない。そして女店主は《廃獣化》のことを知らない。それはウラシフのことも同様だ。もしそれらを知っていたのなら、この場所に留まってはいないだろう。


 一番気がかりなのは「順調過ぎてつまらない」という発言。場を和ませるためなのかもしれないが、ネルにはどうしてもそう思えなかった。


 生態調査が《廃獣化》の調査のことならば、順調とはどういう意味を持つのか。蘇るあの横顔。本当に嬉しそうにしていた。


 今の横顔とはまるで違う。本当につまらなさそうだ。


「ここね」


 アンリが立ち止まり、ネルも一歩遅れてそうした。視線を追うと、二階建ての木造建物があった。誘うような香りを漂わせ、楽しそうな音を鳴らしている。ナイフとフォークが縦に並び、その横にジョッキが添えられた鉄製の看板が軒下にぶら下がっている。


 食堂だろうか、とネルが考えていると、アンリは滞りない足取りで建物の中に消えていった。ネルも慌ててあとを追う。


 扉を開けると、香りと音が爆発した。笑い声や話し声、食器が鳴らす音が心を躍らせ、スープの鮮やかな香り、パンや肉の香ばしい匂いが空腹を促進させた。街が少し寂しげだったのは、みんながこの場所に集まっていたため、というのもあるのだろう。


 店内を見渡し、アンリの姿を見つける。カウンター傍のテーブル席だ。この食堂で最も深い位置にある席でもある。


「先にやってるぞー」


 アンリと、追い付いたネルが見下ろしているのにも構わず、ノノリルは柔らかそうな肉を噛みちぎった。その正面に座るミリアは頬張りすぎて喋れない様子だった。


 木製の丸テーブルの上は、平らげられた食器がすでにいくつか重なっている。ほんの少しの間にどれだけ食べているのか。


 座りましょうか、とアンリに言われ、ネルは頷いた。左にミリア、右にノノリル、正面にアンリという座席順になった。


「どもども、こんにちは!」


 突如背後からした声に、ネルは少し肩を震わせた。振り返れば、質素ながらも清潔感のあるエプロン姿の女性がいた。手に伝票とペンを持っていたため、彼女がウエイトレスだとわかった。幼げな顔立ちだが、どこか大人びている。少し化粧をしているのかもしれない。ふんわりとしたボブカットの髪は、左耳前だけ三つ編みに結われていた。


「マユさんがこの時間に来るなんて珍しいですね」


「新しい人が入ったから、その歓迎会をしようと思ってね」


 まるで感情の籠ってない声でアンリがそう言うと、ウエイトレスの視線がネルに移った。興味と観察の目がべったりと張りつく。


「どうも、ネルって言います。はじめまして」


「ネルさん!」ウエイトレスの顔に笑顔が戻る。「私はトリルって言います。はじめまして。今後ともよろしくお願いしますね!」


 求められた握手に応じる。温かい手だった。


 手を離すと、ウエイトレス――トリルは伝票にペンを宛がう。


「さて、なんにします? 今日は羊肉がおすすめですよ!」


「わたしと彼にブドウ酒。あとは適当になにか持ってきて」


「わかりました!」


 満面の笑顔を全員に向けて、トリルは足早に立ち去った。ネルはその後ろ姿を目で追う。客に呼び止められては、くるりと回って向き直り返事をする。まるでミュージカルを見ているかのようだった。歌って踊っているように見える。


 ウエイトレスは彼女しかいないようだ。あの容姿と性格であればどこに出しても恥ずかしくない看板娘に――アイドルに違いない。男性客は当然として、女性客も楽しそうに話す。トリルという女性の接客能力の高さ、対人能力の高さが見てとれる。


「どうしたー、後輩くん」ノノリルが肩に腕を回した。「トリルに一目惚れでもしたのかー? だったらライバルだらけだぞ」


「べ、別に惚れてない!」


 少し大きな声で否定した。ただその声は店内の賑わいの中ではほんの細やかなものでしかなく、大海に投じられた小石のように近くにいた者しか気付けなかった。


「元気でいいねえ!」


 と、ノノリルが肩を揺らしてくる。女性的な意味を持つ身体の一部が密着しているはずなのに、まるでそれを感じない。


「黙って肉でも食べてろよ……、寸胴先輩」


 馴れ馴れしさに嫌気が差し、ぽつりとそう呟いた。


 すると、身体の揺れがぴたりと止まった。代わりに肩を掴んでいた手の力が尋常じゃないほどに込められた。骨の軋み、関節のずれていく感触がし、血液は正常な流れを妨げられる。


 横目で確認すると、ノノリルは影の差した笑顔をしていた。


「ねえ、後輩くん。肩が握り潰されるのと、その大層なことを聞いた口を失うの、どっちがいい?」


 肩が悲鳴を上げ始めたため、ネルはすぐに訂正しようとした。しかし開いた口にすぐさま小さな手が潜り込み、それは叶わなかった。肩に続いて顎が悲鳴を上げ始めた。ネルの身体で悲鳴の輪唱が起きる。


 ただ手を突っ込まれただけならまだいい。ノノリルの手はネルの口腔内を指で弄んだ。歯の裏を撫で、裏顎をくすぐり、舌をこねくり回す。体内で動き回られるのは初めてのことだったが、不快感しかなかった。


 けれども抵抗はできない。その仕草を見せれば、すぐさまノノリルは行動に移るだろう。肩を砕くか、顎を剥がすか。想像すらし難いそれを、だからこそネルは恐れていた。


 飲み込み切れなかった唾液が伝い落ちていく。


 こめかみ付近から擦れる音が響いていた。


「そのへんにしておきなさい。ミリアも見ているわよ」


「冗談だよ。じょーだん」


 そう言って、ノノリルはネルから手を離した。するりと抜けていったが、さりげなく頬の裏を爪で引っ掻かれた。溜まっていた唾液を飲み、袖で口を拭った。絶対に冗談ではなかった。止められなければ実行していただろう、とネルは思う。


「『スキンシップは過度に』が私のモットーなんだよ」


 言いながら、ノノリルはネルの唾液に塗(まみ)れた手を舐めた。常人よりも長い舌が艶めかしく動く。およそその外見でしていい舌の動きじゃない。


「愛憎が混濁しているように見えたけど?」


「気のせい気のせい」


 愛憎という言葉にネルは甚だ疑問を感じた。あの行為のどこに愛があったというのか。憎以外のなにかを感じなかった。


「大丈夫?」とミリアが聞いてきたので、ネルは「平気」と返した。まだ肩と顎に違和感があるものの、それを彼女に伝えても仕方ない。


 奥の席でよかった、と思いつつ一息つくと、トリルが料理を運んできた。最初にブドウ酒。酒と呼ばれているものの、アルコールの香りはほとんどしなかった。歴史の授業でワインがソフトドリンク感覚で飲まれていた時代があったと聞いたことがある。いやゲームの知識だっただろうか。


 その次が色鮮やかなサラダだった。木製のボールに乱雑に切られた野菜が詰め込まれているが、その乱雑が逆に均等さを作り出しているように思えた。


 肉料理はシンプルに骨付きの羊肉をローストしたものだ。匂いはいいのだが、骨の付いた肉塊という見た目が、羊のどの部分かを容易に想像させ、少し胃が委縮した。ただ空腹と香りが、それを押し殺した。食欲とは怖いものだ。


 それからも料理は並べられていく。最終的にはテーブルの上は料理で埋め尽くされた。適当に持ってくるように言っていたが、まさかこんなに並ぶとは思っていなかった。『適当に』とは『程々に』という意味だと思っていた。


 ただアンリたちがこの光景に、この量に驚いていないあたり日常的な光景の一部なのだろう。それを店側も知っているのだろう。ノノリルにとってこれが『適当』なのだと。アンリはただブドウ酒を少しずつ飲むだけだが、ノノリルは料理が運ばれた端から口に運んでいった。かなりペースは速い。けれどもナイフやフォーク、スプーンを使う様はやけに丁寧だった。


 意外だったのはミリアだ。彼女もよく食べる。一口は小さいけれど、食べる手は止まらない。小さな身体の中はブラックホールなのではないかと疑いたくもなる。


「いただきます」


 そう挨拶をしてから、羊肉に手を伸ばす。果物はネルの知っているものだった。色や味は薄かったけれど、食べられないものではなかった。色合いからして野菜はもっと近しいものだろう。では肉はどうだ。羊とは言うが、どんな羊だというのか。


 夢の世界だ。


 なにがいてもおかしくはない。


 考えに考えてみたが、空腹に負けたネルは思考を放棄して羊肉に齧り付いた。見た目も香りも抜群なのだからきっと大丈夫だと。


「うまっ!」


 肉の柔らかさ、香草の匂い、それらと口の中にうまみと肉汁が爆発的に広がり、気付けば数回噛んだだけで飲み込んでしまっていた。


 それからのネルは止まらなかった。食べる喜びを知った原初の生物のように、目の前にある料理を貪っていった。トリルもまたテーブルを空にしまいと、空いた食器を片づけながらも新しい料理を次々に運んでくる。その様子に店内も異常な盛り上がりを見せる。別に競争をしているわけでもないのに、誰かを応援する声が絶えず聞こえてきた。彼らが応援に夢中になっているために、料理はほとんどネルたちにのみ運ばれる。


 どれくらいの時間が経過したかもわからないころ、どちらかが音を上げることもなく祭りは終わりを迎えた。盛り上がるところまで盛り上がり、誰にも止められないと思われたそれを止めたのはアンリだった。


「飽きたわ」


 静かに言い放たれたその一言が、昂り果てた熱狂を急激に冷ました――それどころか凍結させた。彼女が支払いをする以上、ネルたちは止まらざるを得ない。トリル側もそうだ。客がもういいと言えば止めるしかない。


 テーブルに集まっていた他の客たちは、自分たちのテーブルに戻っていった。不思議と不満を言う者はおらず、やはりこの流れも慣れたものなのだとわかった。


 店内が落ち着きを取り戻したころ、ようやくテーブルの上の料理が片付いた。ミリアが途中で食べるのをやめたため、およそ空腹とは呼べない状態の二人で皿の端と端が重なり合うほど詰めて置かれた料理を食べることになった。テンポはやや落ちたもの、ネルはノノリルに負けまいと意地を見せた。ノノリルもそうだった。


 椅子の背もたれに首を乗せ、天井を見上げる。逆さまのランプの中で蝋燭の火がちりちりと灯っている。まるで催眠術にかけられていくように、ネルは「昔」を思い出していた。「今」と「昔」を比較していた。


 こんなにも食事を楽しんだのはいつ以来だろうと。


 明るく食卓を囲んだのは、いつが最後だろう。


 一緒にいたはずの家族の顔がまるで思い出せなかった。ペン先が潰れるほど思いっきり塗ったような黒が彼らの顔を隠していた。


 ふいに蝋燭を見ていた視線が遮られ、ネルの意識が外側に向けられた。


「大丈夫?」


「うん、平気」ネルは体勢を正す。「ごちそうさま。美味しかったよ」


「そりゃあそうだよ。うちのシェフが命をかけて作ってるからね!」


 そう言って、トリルは照れるように顔を綻ばせた。雇われていると思っていたが、トリルはここの娘のようだ。顔を見せないシェフが果たして父親なのか母親なのか、それとも兄弟なのか姉妹なのかは判然としないが、ともかく身内であるようだ。


 そして今は「オフモード」のようだ。ウエイトレスとしてこのテーブルに来たわけじゃないため、口調が柔らかい。春の日差しのような雰囲気から、春の風に揺れる花のような雰囲気に変わっていた。


「ノノリルも今日はいつも以上に食べたね」


「私史上最高記録だね」テーブルに頬を乗せて満足そうにしているノノリル。「後輩くんの前でかっこつけたかったんだよ。負けられないよね、先輩としては」


「ふふっ。あんまり無理しちゃダメだよ」


 ノノリルは軽く手を挙げた。これ以上は話すつもりはないようだ。


 次にミリアを見たトリルだが、彼女は今すやすやと眠りについていた。本当に緊張が解けた顔を初めて見る。ミリアはネルと同じだ。同じように「新しい環境」に飛び込むことになった。


 本当に強い子だ、とネルは思う。どこにそんな強さを秘めているのだろう。泣いてもいいはずなのに、もっと吐き出していいはずなのに、彼女はそうしない。


 もしもそれが、しないではなく“できない”のだとしたら力になってあげたかった。ネルはあのときのように、ミリアの頭を撫でた。


「気持ちよさそうに寝てるね」


「うん」


 よかった、と心の中で呟く。こうして気持ちよさそうに眠れるのなら、彼女の心は少しでも休めるだろう。せめて夢だけでは幸せであってほしい。


 そんな安らぎの時間を壊すように、店の扉が勢いよく開かれ、そして同時に男が叫んだ。


「トリル、来てくれ!」


 空気が張り詰めたのも束の間、トリルは「わかった」と言って走り出した。


「面白そうだ。後輩くんも行こう!」


 唐突に起き上がったノノリルに腕を掴まれ、少しの抵抗もする暇もなくネルはトリルを追うことになった。ネルも気になっていたため、口実ができて内心ではよかったとも思っていた。


「あっちだ!」


 外に出ると、ノノリルは先に行くトリルたちをすぐに見つけた。ネルがそっちに視線を向けると、十数メートル先に人だかりがあり、ちょうどトリルが到着した瞬間だった。


 ノノリルに腕を掴まれたまま、ネルはその人だかりまで走った。


 彼らの視線の先にいたのは、鎧を身に付けた二人の男だった。一人は肩膝で立ち、もう一人は仰向けに倒れている。鎧は全身を隙なく守るものではなく、要所に加工された鉄板を付け、残りは布でできた簡素なものだ。それが今は砕け、破け、あるいは溶けている。二人の顔色は悪く、特に横になっている男の顔はこれまで見たどんな表情よりもその苦痛が想像しがたい。どれだけの苦しみと痛みに襲われているというのか。


 そんな二人を、トリルは診ていた。脈拍や呼吸の乱れ、傷口の確認を手際よく行っている。


「トリルは医者なの?」


「いんや、看護師だ。あの酒場で働く前は、ウラシフの診療所にいたんだ」


 つまり、もうその診療所は機能していないのだろう。ウラシフは《廃獣化》により廃都と化している。街全体を確認したわけじゃないが、あのロータリーを見ただけでも全体を想像できる。


 そういえば、とネルは気付く。


 ミリアの両親はどうしているのか。


 あのときは自分のこと、目の前のことしか考えられなかったから思い至らなかった。しかしこうして疑問にして浮かび上がれば、どうして気にしなかったのかが不思議でならない。


 触れなければならない部分だ。もしも両親が生きている可能性があるのならば、会わせなければ。本来の場所に戻してやらなければならない。


「もしかして『蛇』に噛まれませんでしたか?」


 トリルの問いかけに、膝立ちの男は「ああ」と力なく頷く。


「小動物かなにかの頭骨を纏った、三つ牙の蛇だ」


「やっぱり。それは『骸(むくろ)コブラ』です。彼らは非常に温厚な性格をしていますが、住処を荒らされると獰猛になります。森の中で異様に頭骨が並ぶ場所には近づかないようにと誰かに教わらなかったんですか?」


「あ、ああ……」


「今後気をつけてください。あなた方を襲ったのはまだ子供のようなので毒も大したほどではありませんが、成体のものならばここに来る前に死んでいますよ」


 どちらがいいのか、ネルにはわかりかねた。成体前の毒ならば死ぬことはないが今の彼らのように毒に苦しめられることになる。成体のものならば苦しむことはないが、命を落とすことになる。どちらがいいのだろう。


 苦しんで生きるのか。


 苦しまず死ぬのか。


 治るなら当然前者だと思う。しかし横たわる彼の表情からして、治るまでに死にたくなるほどに苦しむことになる。


 ともかく、ネルは件の『骸コブラ』について憶えておくことにした。同じ目に遭いたくはない。


 ふいに「マユさんを呼んできてもらっていい?」とトリルが振り返って言う。


「マユさんならきっと血清を持っているはずだから」

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