第16話 πの正体
弥砂羽は#神の愛__アガペー__#ついて論じた。モノレールから下りてタクシーで一万円近い距離の弥砂羽のマンションに直行した私に、だ。
テルテル坊主だらけの世の中で、これだけエロスが氾濫していると云うのに、弥砂羽は私に『ポルノ作家を止めて本当に書きたいものを書いて』と言い、私の上にも神のご加護がありますようにと祈った。
小綺麗なマンションで、栗色の自然に緩くカールする髪を垂らして母親になる日を待っている弥砂羽。
私、知っていたよ、姉々……
私が中学に入ったばかりの頃、お隣のA姉さんとキスしていたのを見たことがあったから。
ショックだった……
何だか苛苛して金髪にしたら喧嘩を売られるようになって、木刀持って歩くようになったの。
A姉さんが憎かったわぁ。私から姉々を奪う人だと思って……めっちゃ嫉妬に苦しんだよ……家族を壊されたくなかったから……
だからあの人が引っ越して行った時、ほっとした。あはは……
そのころ、姉々が『あいのこのあいは愛情の愛だ』と叫んで自転車振り回したことがあったでしょ。私を連れ戻す為に他校の高校生相手に喧嘩になって……あの男子は『あいのこあいのこって虐めらんけえ。あいのこのあいは愛情の愛やさ』って、私を庇うようになって、不良仲間にも弥砂羽に手を出すなと戒厳令を敷いたのよね。可笑しいでしょ。私は友達と遊んでいても『弥砂羽のお姉さんは鬼より怖い』と言われて、深夜俳諧できなかった。あははは……
いろいろ心配させちゃったよね……今となっては笑えるでしょ……
自転車を振り回したのはあれが初めてで其の後は一度もない。私は卑怯者だから顔面をねらって高い位置に振り回した。三人は転倒して二人は怯んだけれど、私は自転車の回転に引きずられて直ぐには止められなくて、結局怪我をさせてしまった。幸い入院には至らなかったし、相手が詫びを入れて済んだ。私は震えていた。武者震いというものらしい。その夜、A姉を自分から尋ねた。A姉とはそれが最後だった。
弥砂羽は屈託のない顔で、少し膨らんだお腹を撫でていた。私の口の中のチューインガムを欲しがった意地汚い稚さは、歳月の雨に打たれて不可侵な者へと成長を遂げている。
私<π弥砂羽……
弥砂羽……弥砂羽……
生まれてくる子の為に私の名前から一字ほしいと言う。私は、弥砂羽の宿した子には負ける。子は私から弥砂羽を守るπ……神のπなのだ……
プッチーニのトスカを観に来たはずの東京で、何故か独りで彷徨う。ケーキ屋のショーケースに飾られたマロンクリームの、山吹色のにゅるにゅるがとても悲しかった。私は何も知りたくなかった。アルファベットの三文字も、痒いと言われてやったことも……
弥砂羽……弥砂羽がうちの子になる前に、私とA姉さんはすでに関係していたんだよ……
私には無関係だと思える聖句が幾つか、私を責めていると思える聖句が幾つか、私を慰めていると思える聖句がいくつか……弥砂羽から貰った聖書をランダムに巡り読みする立川駅近くの喫茶店。涙が零れた。窓辺の硝子瓶に西日が踊り、テーブルに淡い色味を投影している。私の裡で何かが揺れている。音もなく、崩れてゆくように……
アガペーって何ですか……
アガペーって何ですか……
私はきっと其の意味を知りたかったのだ……
神の言葉を聞きたかったのだ……
其処に届くシナプスを持ち合わせていなかったのに……
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