第10話 嫌い

去年の暮れに書いた短編は、最重要な箇所をベタで塗り潰し、名詞、代名詞、形容詞、動詞、の一部に×印を入れた。自ずと擬音だらけのエグい内容になった原稿には品性の欠片もない。


敢えて文字で表記せずとも言葉として、文章として成り立つ、伝わり得る、と判断しての蛮行を『言葉以上に読者の想像力を掻き立てる手法だ』と独り悦に入ったものだ。


編集からもクレームは来なかった。


其れもその筈、何も×印や黒ベタは珍しい手法ではない。つまらない作品でも名詞や動詞を其の記号、あるいはベタで塗り潰すだけで、立派に載せられるモノになると言うのだ、編集が。


あぁ……作家に無断で赤ペン入れるものね……


まあ、一部の変質者から抗議が入ったとは言われた。今時の時代にアナログが過ぎると……いやいや、手法だから…生真面目な変質者の方の勘違いですから……過激な部分を編集に塗り潰された訳ではないですから……


其れでもアナログの指摘は免れない。


そうなのだ。何もかもが古い。くたびれた時代錯誤だ。やがてミレニアムだと云うのに、昔から手を替え品を替え前も後ろもひっくり返して同じことを如何に新しく見せるかと、如何に読者を勃起させるかと、全てのP作家が奮闘してきたのだけれど、最早P界自体が古くたびれたアナクロニズムのような気さえしているのだ、こっちは。此れで世紀末妄想を乗り越えて21世紀を迎えられるのか……いや、ほかの作家はみんな逆立ちでもしているのか鼻血塗れの作品を捻りだす。私はどうすれば太刀打ちできるか、という問題に過ぎない。


こんなことをいうと編集は『そろそろ先生もおしまいですかね……編集はインポになったらモノホンですけど、作家はねぇ……』と囀ずる。


小学校の書道の時間に『春』を使った熟語を書くようにと言われて、ほとんどの生徒が『新春』だか『春風』だか書いていた中に、一人だけ『売春』と書いた子がいた。


日本語の覚束ない帰国子女で、彼女は其の熟語の字面から独りよがりの美しい誤解釈をしていたものらしい。其の幸福な誤解は直ぐに粉砕された。彼女は教室中の爆笑を買った。


私は愚かにも其の熟語の意味を知らなかった。初めて見聞きする語句だった。病的に隠されて育てられたのかもしれない。


心無い野次の渦中に有って苦笑いしていた、小学生らしい彼女の顔を思い出そうと目を瞑る。いつしか忘れてしまっていた彼女の顔は、会えば直ぐに判別できるはずなのだが、今はどうしても頭上に『売春』の二文字の冠を載せた苦笑いのへのへのもへ字。テルテル坊主よりは随分美しい。野次った奴はみんな心の中で彼女をハグしろ。美しい誤解だと。


そして二文字を白く塗り潰して『冤罪』と掲げてほしい。


私の痩せた身体を雑巾のように絞れば、何処かにある金口からにゆるにゆると殺意のマロンクリームがくねり出るだろう。其れは絶望の黒と憎悪の緑が斑に発生した狂おしい色で、冷ややかに湾曲しながら統べての自分を埋め尽くそうと、冷ややかに湾曲しながら私の全てを……冷ややかに……


……自分が嫌いだ。

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