第4話 意識のタトゥー

 昔、共働きの母が休日にモンブランを作ってくれた。細い口金から絞り出される砂糖密で煮詰めたあの山吹色のにゅるにゅるが、見た目のおぞましさを裏切って私の味蕾を虜にした。好物だった。


母は余分なマロンクリームで、クラッカーにアルファベットを一文字づつ綴って、私にも好きなように描いてごらんと言った。母は、私が保育園で習った三角や四角やチューリップを描くと思っていたのだろうか、にこやかな顔だった。


三枚のクラッカーにSとEとXを描いたのは、保育園通園路の塀の印象的な赤いラッカーの落書きを覚えていたのが得意で、誉めてもらいたかったからだ。私は自分を賢い子だと思っていた。


しかし、母は血相を変えて私の手を叩いた。思わず叩いたのだ。そして何の説明もなく『こんな言葉を覚えてはいけません。忘れなさい』と叱った。頭の上から私を見下ろして……


子供だった私が綴ったのは何の意味も持たない単なる記号のSとEとXだ。けれども其れは大人の目に曝された途端に、子供の環象に相応しくない意味を持つ、忌むべき言葉としての生命を与えられる。


普段の優しい母の変貌ぶりに驚いて、其の三文字の意味を問うことも出来ず、意に反して撹拌させてしまった場の空気を何とか収拾しようと、大人しく頷く他に成す術はなかった。泣くほどのことでもなかったが、暫く茫然とした。


神経質な母は、幼い娘の初めてのアルファベットをヘラで塗り潰した上に、更に不気味なにゅるにゅるを山のように絞り出して埋めてしまい、一人っ子だった私は、其のモンブランクラッカーを独りで食べることになった。


以来、母はモンブランをなかなか作ろうとはしなかった。私の描いた三文字は母のトラウマになったのかもしれない。幼い無知な私は、良妻賢母を目指す母をがっかりさせてしまったらしい。


そう言えば……意識が明確な時に、何かを『忘れなさい』と強制されて人間は器用に忘れることができるだろうか……寝ぼけているならいざ知らず、意識が明確な時は寧ろ、忘れなければと云う強迫観念に因る逆の暗示にかかってしまうことはなかろうか……なかなか消えてくれない意識のタトゥとなって……


其の日から端倪すべからざる位置に据えられたアルファベットの三文字は、昭和から平成に移り実体験を重ねてもなお私の裡深くにもどかしく居座り続け、私はそれを何とかやっつけようと爪を立てて引っ掻くように原稿に向かう。仕事に選んだ理由の一つには、こんなもどかしさを払拭したいとの私なりの足掻きなのかもしれない。


私は、SEXは下手糞だ。


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