第2話 鏡の中の笑い仮面
1997年。メトロポリタン歌劇場の劇団が、プッチーニのトスカをNHKホールで客演するので、弥砂羽と観に行こうと思う。
東京行きの航空券を予約するついでに、虹丸のバイト先を覗いてみて……いや、パレット久茂地近くのマンダリンポルシェに行くついでに旅行社に寄る。きっと主役は虹丸だ。メトロポリタンでも歌姫トスカでもない。主役は……弥砂羽……
でも、カヴァラドッシの絵は観たい。
公園通りに面したマンダリンポルシェは閑静な住宅街にマッチした、一見すると手芸店風な女子好みの外観が売りのゲーム喫茶だ。
扉を開くと複数の電子音が単調な交響曲を奏でる。各台は其々ボリュームを下げているにも関わらず、ゲーム客で満員の店内は、花札やポーカーやエイトラインが一斉に合奏すると、其れは一種のオラトリオのようにも聞こえる。不思議な空間だ。
そもそもゲーム屋と云うのは摩訶不思議な商売。勝った負けたの架空の商品を売る。ゲーマーは時間とお金と場合によっては精神力や体力さえも費やして、架空の商品を買うのだ。
そして、逃避の原因であるはずのストレスを解消できるか増幅させるかの瀬戸際に身を置く。
ゲーマーは祈る。
勝たせてくれ……と。
ゲーマーの目の前に笑い仮面がいる。鋭いナイフを利き腕ではない手に掲げて……
其れは泥濘の鏡に映るゲーマー自身……
虹丸はにっこり笑って凛と響く声を発するだろう。「いらっしゃいませ」そして一呼吸おいてから「久しぶりだね、忙しかった…」と訪ねるのだ。私は笑って頭を振る。
虹丸の眉根に微量の翳りを見逃さず(ゲーム止める積もりだったから)か、あるいは(他の店で浮気していたから)と小意地を張る積もりでいたのに「具合が悪くて来れなかったの」なんて言い訳をしてしまうのだ、きっと……
虹丸は素っ気ない表情の裏で(何だ……)と嗤って「最近見えないから気にしていたんだけど、大変だね、貧血も……」と口だけは優しい。
「貧血よりも実は金欠の方が切迫してるんだけれども、元気になるとついあんたの黒子を拝みに来てしまうのさ。困ったもんだよ……」
事実と真実の中途半端な融解。
虹丸は手渡した一万円札を両替しながら飲物は何時ものでいいかと確認する。大股で歩く。
身長比で言えばコンパスに似合った歩幅なのだろうが、虹丸が動くと空気が浄化されるような爽快な気分になる。其れは白いTシャツとすっかり色褪せて膝の擦りきれたジーンズから発する洗濯用洗剤と日向の匂いにも一因する。
そして私は騙される。近くに蛇がいるらしい。見えない蛇に捕らわれて、形相変えてゲームに打ち込むテルテル坊主を眺めると、何処からか不気味な高笑いが聞こえてくる。
テルテル坊主よ、お前は誰に騙されているのか……一番親しいストレスがお前を誘い連れて来た。
テルテル坊主……蛇の餌食よ……お前の祈りはそいつに喰われてしまったに違いない……
お前を殺す笑い仮面は、鏡に映ったお前自身……
無意識の泥濘の鏡に映るお前自身……
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