ポルノアルデヒド

藤森馨髏(フジモリケイロ)

第1話 精神の泥濘に囚われて

1997年…精神の泥濘に囚われている。虹丸の俤がトランキライザーとなって臥した私を昏がりへ導く。弥砂羽とは別方向の逃げ道へ……


ラジオからは大ヒットの「あいごーぶらん」が流れている。売れっ子ラナス・モリセッツは好きな歌手の一人だ。 ……が……CDを一枚も持っていない。


(其れでファンだってか)泥濘の中から虹丸が嘲る。うん、そうなんだ、全く。虹丸には何と罵られようとも赦してやる。虹丸に対する私の許容度は案外大きい。胸囲の割りにねと、オヤジ臭いギャグを言う誹謗中傷者が脳味噌の何処かに潜伏しているが、特定の相手にだけ広いのさと返すと気配を消した。 


那覇では虹丸だけが人間の顔をしている。弥砂羽のいない那覇では……


『黒子がコンプレックスだ……』と溢した。其の瞬間だ。心臓がいきなり収縮した。収縮する前に一度大きく脈打った。他人のコンプレックスに反応したのだ。少しの痛みを感じた。


其の日、家に帰り着いてからも虹丸の顔だけは人間の形を保っていて、暫くの間どうしてか瞼に浮かんだ。目眉の濃い沖縄人特有の顔。其れからはもう目の下に黒子のある可愛いテルテル坊主ではなくなって、親近感を持てて嬉しい。


私は病気だ。


其れもかなり著しい病に浸っている。他人の顔がテルテル坊主に見える。いや、見えるのではない。人間の顔は判別がつく。人間が、人間の顔をしたテルテル坊主に思えて、町中洋服を着たテルテル坊主が闊歩していると言えばいいか……那覇には親近感を抱くべき人間など一人も存在しないと思っていた。


虹丸が私のメシアなのかもしれない。メシアと云うにはあまりにも不完全な俗物だけれど、俤が勝手に語りかけてくる。


(別にお前なんかを救う積もりはないからな、俺は……世の中、カネカネカネなんだからな。物好きにも人助けするほど暇じゃないんだ。金ヅルになる気がないなら感心を惹くような真似は止めてくれ)


うん、そうだね……其の科白も許してやろう。虹丸のぼやきには憐れみさえも抱いてしまう。


そうなんだ……同じ科白でも他のテルテル坊主が吐くのなら(何をほざくか、邪悪なオタマジャクシが……)と蔑んでやる処だけどね……テルテル坊主がオタマジャクシって笑う処だから……


けれども現実の虹丸は用心深い。私に毒づいたりしない。だから俤の喋る科白はみんな私が視る虹丸の内面。の、積もり。そして其れはほぼ100パーセントの的中率で虹丸の人間性や願望を顕す。筈だ。


私は病気だ。……テルテル坊主に録な人間性を見い出すことのできない病気……まるで他人様の心が読めるかのような言い種だが……読めると思ったのは空気のことかもしれない……空気なんか興味ない。空気を読みすぎて感情移しすぎて相手と同化するようなエンパスでもない。真反対だ。他人に興味がない。其れが私に課せられた最も重い病だ……つまらない……


弥砂羽に会いたい。

会ってどうするのだ……


心を病んだ私は弥砂羽の影を追いかけて、目の前の相手の気分も思惑も完全に無視する。そして時折、此の世に自分一人で生きているような錯覚に囚われる。賑やかな国際通りををうようよと徘徊するテルテル坊主の間を縫って、青ざめた影のように歩く昼下がりには特に。



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