危険なかおり

流々(るる)

ハナウタ

 高架になったホームから階段を下りて左に曲がる。改札へと向かう人影もまばらだ。

 構内の時計は十一時を過ぎていた。


「まったく課長ったらボクにばかり仕事を回すんだからなぁ」


 そう独り言ちながらも表情はまんざらでもないように見える。

 駅前の小さなロータリーではタクシー乗り場に数人の列ができていた。バスはとっくに最終が行ってしまっている。

 疲れた表情で並ぶ人たちを横目に、仕事の充実感を漂わせながら鼻歌まじりで歩き出した。

 五十メートルほどしかない駅前商店街のアーケードを抜けると、途端に街灯も少なくなり戸建ての住宅が軒を連ねる街並みへと変わっていく。合い間に建つマンションはそれ自体が大きな照明器具のように舗道を照らしていた。


「なんだ、あの男」


 その視線の先には路地の曲がり角に立つ背の高い男の姿があった。

 コンビニの袋らしい白いものを手に下げ、きょろきょろと辺りをうかがっている。

 この近くで三週間前に通り魔と噂される殺人事件があったばかり。三か月前には隣の駅近くでも同様の事件が起きていた。

 いずれも深夜の凶行。犯人はまだ逮捕されていない。


 先ほどまでの明るい表情が緊張した面持ちへと一変した。

 右手をバッグの中に入れ、相手をうかがうようにゆっくりと歩いていく。

 すると、こちらに気づいた男が近寄ってきた。

 緊張はさらに高まり立ち止まった。体に力が入る。


「あのぉ、すいません。ちょっといいですか」


 少し間延びした声で男が話し掛けてきた。

 スポーツをやっていそうな肩幅のある体型で髪は短い。三十歳くらいだろうか。グレーのトレーナーとスエットに紺のダウンベストといったラフな格好をしている。

 警戒を解かずに男を観察しながら黙っていると、男は言葉をつづけた。


「実は迷ってしまって。僕の家、どこでしょうか」


 あまりに間の抜けた問いかけに、思わずふっと笑う。

 どうせ嘘をつくならもっとそれらしいことを言うだろう。途方に暮れているような表情の男を見て、緊張が解けた。


「引っ越してきたばかりで、コンビニまで来たら帰り道が分からなくなってしまって。こんな夜中にいきなり女性へ声を掛けて、ごめんなさい」

「いいえ。ちょっとビックリしましたけれど。住所は分かりますか?」


 男がポケットからスマホを取り出し、メモを表示させた。

 女は違和感を覚えたが黙っていた。


「ここなら二本先の通りを右に曲がれば、後は真っ直ぐですよ。途中に富士見公園という大きな公園があるからそれを目印にすれば迷わないと思います」

「そう、大きな公園がありました。曲がるのはもっと先だったのかぁ。公園も見当たらないし、辺りは暗くてよく分からないし……。ありがとうございました」

「ボク――わたしの家も同じ方向なので途中までご一緒しますよ」

「本当ですか! 助かります」


 微妙な距離を取ったまま、並んで歩きだす。男の肩を越えたあたりに女の長い髪が揺れていた。


「引っ越されたばかりなんですか?」

「ええ。三日前に越してきました」

「お仕事の関係で?」

「はい。公務員をしています」

「そうですか」


 二人が歩く先に公園が見えてきた。


「あれが富士見公園です」

「そうです、そうです。この公園を通ってきました。もうここからなら家まで帰れます」


 その言葉を合図に二人は立ち止った。


「本当にありがとうございました」


 男が丁寧に下げた頭を戻してから、おずおずと切り出した。


「あのぉ……あらためて御礼をしたいのですが」

(ほら、来た。やっぱりナンパ目的だったんでしょ。住所を検索すれば地図を見ながら帰れたはずだもの)


 心の内を隠したまま、女は笑顔を返した。


「いいですよ、そんな。たまたま帰る方向でしたし」

「いや、親切に話を聞いてくれたのは事実ですから。あ、あの、僕は高橋といいます。もしよかったら連絡先を交換してもらっても……」

「……わかりました。山瀬です。LINE、やってます?」

「はい。僕のIDは――」


 お互いのIDを交換すると男は深々とお辞儀をして、公園の遠路へと歩いて行った。

 その後姿を少し見てから、女はまんざらでもない表情を浮かべた。

 そして公園わきの歩道を鼻歌まじりで歩き出した。

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