第6章 帰国まで
それ以来、わたしは語学学校へ行かなくなりました。コリーナと少しでも長い時間を過ごしたいと思ったからです。
わたしたちは一緒に映画を観たり、カフェテラスに座って道行く人々を眺めたり、コリーナの部屋で音楽を聴いたりして過ごしました。そしてふたりでベッドに入り、そのあとコリーナはシャワーを浴びて夕食を済ませ、仕事に出かけて行きます。
そう、生活のためには働かなければならない。それはわたしも、これから自立してそうなっていくだろうけど、わたしは密かに、このままコリーナと暮らして、コリーナに送り出されて仕事に行く自分、というのを漠然とですが想像するようになりました。それは本当に、わたしにとって幸せの絶頂を意味することでした……。
ところがある日、コリーナと会って一緒に過ごし、彼女が仕事に出かける時、彼女はこんなことをわたしにいったのです。
「ケイスケ、私が本当に愛しているのはあなただけよ。たとえこれからあなたが何を知っても、それだけは信じてほしいの」
「どういう意味?」
「今度、機会を見て話すわ。とにかく私はあなただけを愛しているということ、それだけは忘れないでほしいの」
コリーナが深刻な表情でいうので、わたしは
「分かった。僕も同じだよ」
と答えるしかありませんでした。
コリーナはその時、ただ、
「ありがとう」
といっただけでした。
それから数日後のことでした。
わたしとコリーナが、夕刻カフェテラスに座って話をしていると、そこをあのカルロスが通りかかりました。
カルロスと握手を交わしたあと、カルロスは、
「どうした、最近見かけないな。元気か?」
とわたしに尋ねます。
「元気さ。すごく」
そういったあと、わたしはコリーナを恋人だと紹介しました。ところがその途端、カルロスの表情が曇りました。わたしはどうしたのかな、と思ったのですが、
「オーケー、元気ならオーケーだ。明日、昼飯ふたりで食べないか? 話したいことがある」
カルロスはそういいました。わたしは気楽に、
「分かった。どこに行けばいいんだ」
「学校の食堂にしよう。明日二時、ふたりきりでな」
「オーケー」
カルロスはわたしたちふたりに「じゃあ」といい、去って行きました。
翌日、学食に行くとカルロスは少し難しい表情でわたしを迎えました。
「きのうのあの女、恋人ってどういう意味なんだい?」
カルロスはそう切り出しました。
「恋人は恋人だよ。ほかに何か意味があるのかい?」
「本当の話なのか?」
カルロスはわたしに尋ねます。
「本当に恋人としてあそこにいたのか?」
「どういう意味なんだ?」
「おまえ、本当に知らないのか?」
「何を?」
「何てことだ。おまえ本当に知らないんだな」
「だから何をさ」
カルロスは急に口ごもりました。そして意を決したように小声で、
「夜、コンデ・デル・アサルトという通りに行ってみろ。そしたらすべてが分かる」
そういいます。
わたしには、カルロスのいうことがさっぱり飲み込めませんでした。
「何なら一緒に行ってやろうか? いいか、おまえはあの女に騙されているんだ。オレの忠告をよく聞け。気が向いたら一緒に行ってやる。とにかくあの女はよせ」
そうしてわたしたちはそれ以降黙ったまま食事をとり、別れました。その時、わたしが何を思ったかというと、もうカルロスなんかと付き合わない、ということでした。カルロスはあまりに綺麗な娘とわたしが一緒にいたので、嫉妬して、何か訳の分からぬ文句をいっている――わたしにはそう感じられたのです。
そのあと、わたしはコリーナと小津安二郎監督の映画を観て過ごし、コリーナが仕事に行ったあと、ひとりでバールでコーヒーを飲み、自分の泊まっている民宿へ帰りました。
それからどれくらい時間が経ったでしょう。
民宿に戻って部屋でスペイン語の文法書を見ていると、民宿の入口の呼び鈴が鳴るのが聞こえました。
応対に出て、入口から戻ってきた女主人が、
「ケイスケ、カルロスという人よ」
といいました。
「こんな時刻に何の用だろう」
そう思いながら応対に出たわたしに、カルロスは、
「ケイスケ、悪いことはいわない。オレと一緒に来い」
といいました。私は訝しく思いながらもカルロスにつき従うことにしました。
わたしたちは地下鉄の駅へ行き、ふたりとも黙ったまま列車に乗り、ランブラス通りの近くで降りました。カルロスは、
「こっちだ」
といってわたしを導いて行きます。
しばらく歩いて着いたのは、コンデ・デル・アサルトという通りの、小さな、怪しげなバールでした。
カルロスは窓際の席にわたしを座らせ、そして窓外を指差し、
「見ていろ」
とだけいいました。
その窓はマジックミラーになっていて、外から見た時は真っ黒で暗い店内は見えなかったのですが、店の中からは、外の風景を鮮明に見渡すことができました。
わたしはますます訝しく思いました。いったい、カルロスは何の意味があってわたしをこんな所へ連れてきたのだろう。いったいカルロスは、何を考えているというのだ?
わたしたちは十分か、十五分ほど、暗い店内に座ってワインを飲んでいました。カルロスはその間、厳しい表情で窓の外の風景をチラチラと見ていましたが、突然指差して小声でいいました。
「見ろ」
わたしの目に映ったのは、紛れもなくコリーナでした。しかもコリーナは、見知らぬ男と腕を組んで、目の前のホテルとおぼしき建物から出てきたのです。
コリーナはその見知らぬ男と接吻していました。そしてひと言、ふた言会話を交わし、手を振ってその男と別れました。
わたしはまだ事態が飲み込めませんでした。いや、今自分が見た光景を、信じたくなかったというほうが正確かもしれません。
通りは絶え間なく人が行き交っています。
コリーナからはわたしが全く見えないようでした。
しばらくすると、コリーナは通りかかった三十代くらいの男に声をかけ、ふた言、三言話をしていたのですが、男はそのまま行ってしまいました。
次にコリーナは若い男に声をかけましたが、男は素通りしました。そんなことを三、四回繰り返し、二十代くらいの男が通りかかるとコリーナはまた声をかけ、ふたりは何やらにこにこと話をしていたのですが、やがてそのまま一緒にホテルの中へ消えていったのです。
コリーナが何をしているのかはもう明白でした。カルロスのほうを見ると、彼は静かに俯いて、黙っています。
わたしはただ呆然としていました。あまりのショックに涙も出ず、口をきくことも、身動きすることもできませんでした。
その後のことは、もはやわたしは全く覚えていません。覚えているのは、翌日、自分がパリにいたところからです。
そしてそこでぼんやりと一週間ほどを過ごし、当時はバルセロナから成田への直行便がなかったため、パリから飛行機で日本に戻って来たのです。
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