第5章 地中海へ

翌日、学校では、わたしはぼーっとコリーナのことばかり考えていました。

 不幸な境遇を背負った美しい娘に、自分は何をしてやれるのだろう……ぼんやり、そんなことを思っていたのです。

 昼食時、レストランへ行くと、カルロスが、

「やあ、どうだい」

 と話しかけてきました。

「元気なさそうだな」

 とカルロスはいいます。

「そんなことないよ」

 わたしは元気そうな、何の悩みもなさそうなカルロスが羨ましい気がしました。

「じゃあ、海でも行くか?」

「海?」

「そうさ、今時避暑地は裸の女がいっぱいさ」

 その時、わたしは思いました。

(そうだ、コリーナと海へ行こう……)

    

 その翌々日、コリーナの案内で、わたしたちはシッチェスという避暑地へ向かいました。わたしの「海へ行こう」という提案に、コリーナも同意してくれたのです。

 エスタシオン・デ・セントロという駅から列車に乗り、小一時間南下したところに、白い街がありました。

 駅を出て、白い街並みの間の路地をのんびり下っていくと、そこに青い海が広がっていました。

 白い砂浜には水着の男女が戯れ、トップレスの女性も数多くいます。

 この光景は、十九歳のわたしには、とても眩しいものでした。

 わたしたちはしばらく浜辺のカフェテラスに座り、海辺の風景を眺めていました。青い空と紺碧の海原、白い街並み――いつか雑誌で見た地中海の風景です。それが今、自分の目の前にある。隣では、美しい、栗色の瞳と髪を持った娘が、私を見て微笑んでいる。わたしは興奮しました。コリーナに母親がいない不幸を除けば、何ひとつ欠けているものはないのです。コリーナもすっかりいつもの笑顔でわたしに語りかけてくるので、わたしも安心しました。

 暫くしてからわたしたちも浜辺に降りて水着に着替え、それからゆっくり波打ち際まで行って、海に入りました。コリーナもわたしも笑顔が絶えません。

 しかしわたしは、ひとつ気になる発見をしてしまいました。というのはコリーナの肘から手首にかけて、直径一センチくらいのケロイドのような斑点がびっしりとあり、コリーナはそれを気にしているふうなのです。

 コリーナが夏なのになぜ長袖のブラウスを着ているか、わたしにはその理由が初めて分かりました。それはコリーナの足の膝から下にも多数ありました。わたしの心に何か影のようなものが差し始めました。

 その斑点を気にしていたコリーナを、水着姿にさせた自分を少し後悔し、胸が痛みました。

 わたしたちはひとしきり泳ぎ、戯れ、そして砂浜に上がって甲羅干しをします。

 俯せになって背に陽光を浴びている時、コリーナがつぶやくようにいいました。

「私の腕、醜いでしょ」

「いいや、そんなことはない、そんなことはないけど、ごめんね、本当に。君はそれを人目に触れさせたくなかったんだね、ごめん」

「私ね、随分大きくなってから、たぶん八歳くらいかな、ママに教えてもらったの。それまで自分の腕にはなんでこんな痕があるんだろうって疑問だったんだけどね、それはね、おまえの父親が、おまえがまだ物心つく前に、セッカンだといってやったことなんだって。ごめんね、ごめんねって、ママは泣いてたわ。私はママはちっとも悪くないのに、なぜ泣くんだろう、悪いのはパパなのにって思ったの」

 わたしはそれこそはらわたをえぐられるような思いでした。そんなことをする父親が本当にこの世にいるのか? いったいどんな悪魔のような父親なのだろう。わたしの胸は悲しみでいっぱいになり、その白い腕を見ながら涙があふれ出てきました。

 コリーナは続けました。

「パパはね、私の本当のパパじゃないのよ。私の本当のパパは、私が生まれて間もなく病気で他界したの。私の本当のパパは、優しくて、妻子思いで、穏やかな人だったって、ママがいってたわ。私にこんなことをしたのは、本当のパパが亡くなったあと、ママが経済的に苦しいのをいいことにママをたぶらかした、悪い男だったのよ。本当のパパじゃないわ。だから私も十三歳でその男とは訣別したの。本当のパパだったら、そんなことはしなかったわ」

 何ということだ、とわたしは思いました。世の中には、スペインには、こんな不幸な娘がいるのか。こんなに感じよく生まれついて、そんなとてつもない重荷を背負うなんて……。

 わたしはしばらく声もありませんでした。コリーナの悲しい境遇に、自分までもが押しつぶされそうでした。

何をいったらいいか分からずにいるわたしに向かって、コリーナは続けました。それは明るい陽光の下なのに、まるで冬枯れの小道で語るように、小さな静かな声でした。

「ママは、料理がとてもじょうずだった。朝学校に行く時はね、目が覚めると、もうママがフランスパンを買ってきてくれていて、よくスペインオムレツとカフェオレを作ってくれたの。本当においしかった……」

「ママは優しかったんだね」

 わたしがかろうじて合いの手を入れると、

「ええ、本当に優しかった。冬は、私にセーターや手袋を編んでくれたの。ボタンがとれたら、ボタンをつけてくれて、服の破れたところに継ぎあてをしてくれて……ママがいなくなってから、私はよくそういうことを思い出して泣くの。風邪をひくとね、ブランデーと生姜の入った紅茶を作って飲ませてくれた。本当に、ママは優しかった……」

 コリーナの囁くような話が途切れると、わたしたちは俯せになったまま見つめ合いました。地中海の太陽は少しずつ、わたしたちふたりを癒してくれました。コリーナの深い苦痛も、それを知ったわたしの悲しみも、降りそそぐ陽光や絶え間なく響き渡る潮騒、美しい海や街が少しずつ、少しずつ、とかしてくれるような気がしました。

「コリーナ、僕は、君を、愛している」

 わたしはぎこちなく告白しました。すると意外にも、コリーナはこういったのです。

「私もよ、ケイスケ」

 わたしたちは砂にまみれながら抱き合い、キスし、初めてお互いの気持ちを確かめ合いました。

 その夜、わたしたちはホテルに部屋をとりました。わたしはコリーナを、単なる美しい娘でなく、深い苦悩と悲しみを抱えた娘だと知ったうえで、心から愛しました。

 そして翌朝、バルセロナに帰る列車の中で、コリーナはバッグから、あの、分厚い本を取り出し、こういったのです。

「あなたがいれば、もうこれは必要ない」

 よく見ると、それは新約聖書なのでした。コリーナがいつもカフェテラスで読んでいたもの、それが聖書であったのを、わたしは初めて知りました。

「寂しい時はね、これを読んで、自分を慰めるの。苦しい時もそう。悲しい時も。でも、もう必要ない……」

 そういってコリーナは微笑みました。わたしはうん、うん、と頷きました。頷きながら、涙がにじむのを覚えました。

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