第4章 サン・キリコ

わたしは学校では、その頃何人もの友人ができ始めていました。

 特に親しかったのが、カルロスという日本語科に通う日本語の達者なスペイン人学生です。カルロスは眼鏡をかけ、髭をたくわえた大柄な男で、彼とはよく学校の食堂で、昼食をとりながら色んな話をしました。

「きのう、アキラ クロサワのデルス・ウザーラを観たよ。もう五回目だ」

 翌日、昼食をとりながら、カルロスがわたしにいいました。

「そう、どうだった?」

「素晴らしい。あんな監督はスペインにはいないね。何とも美しい映画だ」

 カルロスはベタ褒めです。

「クロサワはそんなにすごいのか?」

 わたしがいうと、

「ああ、七人のサムライを観た時の感動は本当に格別だった。今新作を撮ってるんだって? 随分久し振りだから、楽しみだなあ」

 カルロスとは、こうしてよく映画の話で盛り上がりました。

 その時もひとしきり映画の話をしてから、話題は女の子のことになりました。

「おまえは、どんな女の子が好みなんだい?」

「やっぱり、やっぱり女の子は綺麗で優しくないとな」

 わたしは、もちろんコリーナのことを思い出していました。

 わたしは少し笑っていました。そして笑いながら、本当に心も楽しくて仕方ありませんでした。

――きょう、自分はコリーナに案内してもらって、コリーナの育った町へ行くのだ――そう思うと、早くコリーナに会いたい一心で、カルロスとはそこそこに挨拶をして別れ、はやる気持ちを抑えながら、コリーナの待つカフェテラスへ向かいました。

 コリーナはカフェテラスでわたしを待ってくれていました。まだ来たばかりのようで、テーブルの上に置かれた分厚い本は、閉じられたままでした。

 コリーナはわたしが行くと、満面の笑みを浮かべながら、頬にキスをするスペイン流の挨拶をわたしと交わしました。

   

 何という駅から、どちらの方角へ向かったかはもう全く覚えていません。

 わたしはその日、コリーナに案内されるままに、サン・キリコという町へ向かいました。その日も暑い日でしたが、コリーナは相変わらず長袖のブラウスにジーパンという出で立ちでした。

 コリーナと過ごす日々は、わたしにとって夢の世界の出来事のようでした。こんなに綺麗なスペインの女の子と、こうして楽しく話をしながら列車に揺られている。これが夢でなくていったい何だろうとわたしは思うのでした。

     

 わたしたちは、駅員もいない小さな駅に降りました。サン・キリコです。

 駅舎を出て、町の中心へ向かう小道を歩きます。しばらく歩いていると、路傍の木々や古びた家々が、立ち昇る炎熱の中で朦朧とした印象を与えていました。

 わたしたちは汗を拭き拭き、五分か、十分ほど歩きました。すると、白い、ひときわ大きな建物が見えてきました。

 それは町の中心のバールで、わたしたちはそこに入り、コーラを飲みながらひと休みしました。

 コリーナは寡黙でした。何だか少し沈んだようにも見えました。先ほどまで明るかったのに、どうかしたのかな、とわたしは少し不安になります。

 と、コーラを飲み干すと、コリーナは突然立ち上がり、行きましょ、といってわたしの手を握りました。

 バールを出て、家並みに沿ってほんの三分ほど歩いた所でコリーナは立ち止まりました。

「ここよ」

 そういって、コリーナはわたしのほうに身体を寄せ、じっと一軒の薄汚れた家を見ています。

 その家は二階建てで、一階の壁の中央に入口と思われるうす茶色の扉がありました。二階の中央には、縁が緑色に塗られた窓があり、植木鉢に植えられた黄色やオレンジの花が並んでいました。よく手入れはされているようでしたが、とても古い建物でした。

「もう、今は知らない人が住んでいるのね」

 コリーナは少し眉を寄せて、わたしに身体をよせたまま、しばらく佇んでいましたが、

「裏にいきましょう」

 そういって家のすぐ脇の路地を抜けました。

 突然目の前に広々とした夏の野原が広がり、遠くには小高い山々がそびえていました。

 それはわたしにとっては、初めて見る、平和でのどかな郊外の風景でした。が、コリーナは寒そうに身体をこわばらせ、深刻な表情でいいました。

「私は、ひとりぼっちなのよ」

 わたしにはその意味が分かりませんでした。コリーナは、日差しに輝く野原を、眉をさらに寄せて眺めながらいいました。

「十三歳の時にね、父の暴力とギャンブル癖に耐えられなくて、ママは家を出ていったの。私をおいて……それ以来行方が分からないの……」

 わたしは急に神妙な気持ちになりました。

 コリーナは目に涙をいっぱいに溜め、そっとわたしにもたれかかり、そしていいました。

「わたしも半年もしないうちに、ママを探すために、あの男をおいて家を出たの。ママはきっとバルセロナにいる――そう思ったの」

 わたしはコリーナの突然の告白に、なんといえばいいのか分かりませんでした。

「私はウエイトレスをしながら、ママと会える日を待ったの。長い日々だったわ。ママに会いたい。私はママに会いたいの」

 そういって、コリーナは涙をぽろぽろこぼすのです。

 わたしはどうしたらいいのか分からず、ただじっと、コリーナを抱きしめていました。コリーナはわたしの肩に顔をうずめて泣いたのです。

 わたしはじっとコリーナを抱きしめているしか方法がありませんでした。

 どれくらいの時が経ったか、コリーナは顔をわたしの肩から離し、

「行きましょ」

 そういいました。

 わたしたちは、とぼとぼ、もと来た道を駅へ向かって引き返しました。

 帰りの列車の中では、ふたり並んで座りながら、わたしたちは寡黙でした。

 わたしはしだいにコリーナの言葉を噛み締める余裕が出てきましたが、コリーナがかわいそうなどというものではありませんでした。

 コリーナがそんな大変な悲しみを背負っていたなんて。しかも、十三歳で家を出て、ウエイトレスをしながら生きてきたコリーナの苦しみを推察しても、それはわたしの想像をはるかに超えていました。

「ねえ……」

 わたしはコリーナに向かって語りかけました。

「君はきっとお母さんに会えるよ。僕は夏期講座が終わるまでしかスペインにいられないけど、その間君のお母さんを一緒に探してあげる」

「ありがとう。あなた、やさしいのね」

 列車はバルセロナに近づきます。コリーナはわたしにもたれて、いつしか静かに寝息をたてていました。……

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