第3章 バルセロナ
わたしはランブラス通りから歩いて十数分の所にある、アリバウ通りの小さな民宿に間借りしていました。
その民宿は、女主人がひとりで切り盛りしている、小奇麗な、清潔な宿でした。
ところで少し学校の話をしましょう。
学校は、港のすぐ近くにありました。
バルセロナ公立語学学校といい、スペイン語のほかに英語、フランス語、ドイツ語、アジアの言葉は日本語や中国語などのコースがあって、スペイン語を習う外国人だけでなく、たくさんのスペイン人が外国語を習いに通って来ている、本格的な語学学校でした。
わたしは高校生の頃からスペインに興味があり、憧れていて、独学でスペイン語を学習していたので、その甲斐あって、スペイン語科でも上級の方のクラスに入ることができたのでした。
クラスには色々な国の学生が来ていました。
中でも多かったのは、ベルギー人、ドイツ人、オランダ人、イラン人などで、台湾や香港の学生もいました。
わたしはこの学校に通うのが、毎日とても楽しみでした。なんといっても、様々な国の人とスペイン語を通じて交流するのが楽しく、自分の人生に突然大空に向かってパッと窓を開いたように光が差し込み、初めて空の広さを実感したような思いでした。
それだけでわたしは充分に楽しく、満ち足りていたのに、コリーナという美しい娘が街案内をしてくれるなんて、と思うと、わたしはスペインに来て、本当に空に向かって羽ばたくような心地でした。
学校を出ると、わたしはひとりでランブラス通りを歩きました。ランブラス通りの終わりにカタルーニャ広場という所があるのですが、わたしが目指すカフェテラスは、その広場の近くでした。
カフェテラスに着くと、コリーナは相変わらず長袖のブラウスにジーパンという出で立ちでそこに座って、いつもどおり分厚い本を読んでいましたが、わたしを認めるなり、
「オーラ、ケタル(ご機嫌いかが?)」
と挨拶しました。
「いいよ。君は?」
「私もいいわよ」
そういって、わたしたちは少しの間にこにこと見つめ合いましたが、わたしは何だか恥ずかしいやら緊張するやらで、そのあと自分が何をいったのか覚えていないのですが、コリーナは、
「じゃあ、行きましょうか」
と、勘定を済ませ、歩き出しました。
わたしたちはふたり並んでランブラス通りを横切り、古いゴシック地区へ入って行きました。
そこは中世の街並みが残る美しい地区で、わたしは一瞬、何だか自分がお伽の国に迷い込んだような錯覚を覚えました。
こんな素敵な娘と、こんなに情緒ある街の中を自分は今歩いている……わたしは緊張しながらも、本当に不思議な感覚にとらわれたものです。
しばらく歩くと、その地区の一角に、ピカソ美術館はありました。
コリーナはわたしのチケットまで買ってくれました。
わたしたちは厳かな建物の中に入り、一面に展示されているピカソの作品をゆっくり見てまわりました。
「あなたは何歳?」
コリーナが突然私に尋ねます。
「十九歳」
「私は十八。このピカソのデッサンは十三歳の時のよ。どう? 完璧でしょ」
そのデッサンはとても十三歳の少年が描いたものとは思えない、卓越したものでした。それだけで、ピカソの力量に圧倒されてしまいます。
また、コリーナは別の絵の前で、
「この絵は青の時代の代表作のひとつなの。私は青の時代は好き。この頃、ピカソは本当に寂しかったんだわ」
「う、うん、そうだね、寂しい絵だね」
わたしは相槌を打ちます。
「私はね、寂しくなると、よくここへ来て、青の時代の絵を観るの。そうするとね、何だか涙がぽろぽろこぼれて、気持ちが慰められるの。私、おかしい?」
わたしはコリーナの言葉に何か今までに感じたことのない違和感をおぼえながらも、
「ううん、全然」
と答えました。
そして、ピカソのデッサンも絵も、圧倒的な迫力で迫ってきたのですが、それよりもわたしには、コリーナの独特な、柔らかなスペイン語の発音が不思議でした。
ご存知かもしれませんが、普通に話していても、スペイン語の発音というのはそんなに柔らかな印象を与えるものではないと思います。しかしコリーナが話すと、まるで静かな湖のほとりで恋人たちが囁き合っているように、とても穏やかな印象を与えるのです。
それはわたしの緊張をほぐすと同時に、わたしはうっとりするような一種の寂寥感を覚えるのです。
「絵が好きなのね?」
コリーナがわたしに尋ねました。
「好き。君は?」
「私も大好きよ。ミロとか、ダリとか、バルセロナが育んだ画家は多いけど、あなたミロ美術館やダリ美術館はもう行ったの?」
「いや、まだ」
「まだあ? じゃ、ガウディの聖家族教会は?」
「いや、まだ見てない」
「そう……」
突然彼女は寂しそうな表情になりました。
「あなた、じゃあ勉強ばかりなのね?」
「うん……まあ……」
「じゃあ、私が案内してあげる。あなたにバルセロナのいいところ、たくさん教えてあげる……」
それからわたしたちはピカソの絵をゆっくり鑑賞し、時にコリーナの知性的な解説を聞きながら、夕刻近く、美術館を出たのです。
わたしたちはまた中世の街並みの中を歩きながら、ランブラス通りへ向かう途中、しゃれたバールがあったのでそこへ入り、ひと休みしました。
バールというのは街中のいたるところある、レストランとカフェを兼ねたような店で、スペイン人には馴染みの深い、気楽に寄れる場なのです。
わたしたちは古い建物や石畳が見渡せる窓際のテーブルにつき、スペインオムレツとビールを注文しました。
「あなた、日本では何をしているの?」
コリーナがわたしに尋ねました。
「僕は、大学生。大学のスペイン語科の学生」
「ああ、だからスペインへ来たわけね」
「うん」
「じゃあ、将来はスペイン語を生かした仕事につきたいの?」
「うーん、それはまだ分からない」
「じゃあ、何やるの?」
「実は……実は僕はマンガ家になりたいんだ」
「マンガ家って、あの雑誌なんかのマンガを描く人?」
「そう」
「ふうん、変わった職業に就きたいのね」
「いや、スペインではマンガって、そんなにポピュラーじゃないけど、日本ではマンガって、すごく人気があるんだ」
わたしは紙ナフキンに、有名なマンガのキャラクターを描いてみせました。
「すごい、じょうず、びっくり!」
コリーナがほめてくれたので、わたしは少し照れました。
「あなた、きっとそのマンガ家になれるわよ。きっとなれる」
コリーナはわたしをじっと見ています。わたしは
「ありがとう」
といって、何を思ったかというと、ああ、コリーナは憂いを含んだ、何とキレイな顔立ちをしているのだろう……と、うっとりとなってしまったのです。
「でも、私も絵は得意よ」
コリーナはそういうと、紙ナフキンに少しぎこちない手つきで何かを描き始めました。
出来上がったのは女の顔でした。
「あなたほどじゃないけど、私の顔。どう?」
「びっくりだなあ。うまいね」
「ありがとう」
「君もマンガ家になるの?」
「まさか」
コリーナは笑いました。
「私はね、今はウエイトレスをしているけど、でもお金を貯めて、将来は雑貨店をやりたいの」
「ふうん、夢があるんだね」
「お互い、夢があるわね」
さらにそれからひとしきり、わたしたちはお互いのことを紹介するように話し、ビールで少し酔って店を出ました。
ランブラス通りへ向かいながら、コリーナはいいました。
「あした、ガウディの聖家族教会を案内してあげる」
「本当? いいの、そんなに毎日」
「もちろん。じゃあ明日ね。いつものカフェテラスで、いつもの時間に」
「うん」
そういってコリーナはランブラス通りの雑踏の中へ消えていきました。
それからコリーナはわたしを聖家族教会だけでなく、ミロ美術館やダリ美術館、グエル公園など、毎日のように色々な場所へ連れて行ってくれました。そうしてその日の見物を終えると、夕刻にランブラス通りへ戻り、カフェテラスに座って冷たいビールやワインを飲むのが日課のようになりました。
そしてある日、コリーナはこんなことをわたしにいったのです。
日暮れに近い、赤茶けた港をふたりで歩いていた時のことでした。
「私はね、実はバルセロナの育ちじゃないの。サン・キリコって知ってる?」
「サン・キリコ? いや、知らない」
「郊外の小さな町なんだけど、十三歳までそこにいたの。優しいママと一緒に。その後バルセロナに出てきたの。サン・キリコ――いいところよ。家の庭からはね、野原や小高い山が一面に見渡せるの」
その時、スペインの田舎の小さな町の風景が、わたしの脳裏にぼんやり浮かびました。
「へえ……そんな郊外の町も見てみたいな」
わたしがいいました。
「じゃあ、行ってみる? 私も、もう何年も行ってない」
「行ってみたいな」
「じゃあ、明日ね、行きましょう」
コリーナはそういうと、
「じゃあまた明日」
といってわたしの頬にキスしてくれました。
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