第7章 真実
3
「これでわたしのバルセロナでの話は終わりです」
と男はいった。私は、
「何といえばいいのか……」
そういいながら男をじっと見た。
男はじっと絵を見つめたまま、
「もう、随分昔の話です。でも、この絵を見ていると、きのうのことのように、あの日々が蘇ってきました。いや、つまらぬ話をしてしまいました。」
「いや、とても興味深かったですよ」
私はいった。
「でも、あなたは、いや、こんなことお聞きしていいのか分からないのですが、コリーナに騙されたとお思いですか?」
「いや、騙されたとは思わない。彼女はわたしに何度も愛しているといってくれました。それを信じなかったら、いったいあの恋はなんだったのでしょう。彼女も、自分の仕事をわたしにどう話したらいいか分からなかったのだと思います。それに今思うと、あんな不幸を背負った娘が、当時のスペインで売春婦に身を落としたからといって少しも不思議な話ではない。ただ、わたしはその時、自分が目の当たりにした現実に押しつぶされて、冷静な判断ができなかったんです。まだ、私も若すぎたのです……」
「その後彼女とはお会いになってないんですか?」
「もちろん会っていません。それ以来二度とスペインへも行っていない。でも、こうしてわたしは彼女を忘れられないでいる。いや、そのことが、この絵を見てはっきりと分かりました」 私と男は、それらしばらくの間、ランブラス通りの絵を眺めていた。
男が画廊を去ったあとも、私は久し振りにいい話を聞いたという気がしていた。男は自分には手の届かない価格だといって、絵との別れを惜しみながら店を去っていった。私はただ、またいらしてくださいとしかいえなかった。
戸締りが遅くなってしまった。シャッターを降ろすために外に出ると、晩秋の風は冷たかった。
戸締りを終えると、私はコーヒーを一杯飲み、なんとなく店の隅のパソコンに向かった。
――ホアン・ラモン
私はその絵の作者を、特に意味もなく検索した。ヒットした数少ないホームページの中に、次のようなものがあった。 ――ホアン・ラモン。画家。一九八五年スペイン・バルセロナに生まれる。売春婦の子として生を受け、父親は日本人だというだけで、経歴等については何もわかっていない。……
まさか、と私は思った。
確か男は一九八四年の話だと言っていた。
一九八五年といえば、男がスペインに行った翌年だ。まさか……何ということだろう。
この画家は、あの男とコリーナの間にできた、あの男の実の息子ではではないのか? 実の息子だという偶然の一致が、この絵があれほど男を魅了した本当の理由ではないのか?
こんなことがあるだろうか。あの男は何も知らないのだ。
しかし……私は思った。今となってはあの男を探すすべはない。
私には、どうすることもできないのだ。
雨が降り出した。
(了)
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