第19話 牛一

 太田牛一は弓衆として活躍した。『信長公記』は脚色していないと牛一は語っている。


 牛一は大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・愛知県名古屋市北区)のおそらく土豪の家に生まれる。


 成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる。天文23年(1554年)7月12日の義統殺害の後、那古野城の織田信長の保護を求めた遺児の斯波義銀に付いて織田家に行った可能性がある。天文23年(1554年)、信長の家臣・柴田勝家に仕え足軽衆となる。同年7月18日、安食の戦いに参加する。義統弔い合戦の意味もあったと思われる。弓の腕を認められ信長の直臣となり、弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍し信長に褒められ知行を増やされる。


 その後は近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として、京の寺社との間の行政を担当する。同時代の『賀茂別雷神社文書』には、同社から牛一に筆がしばしば贈られた記録が見える。他に長束正家やその弟直吉といった吏僚仲間にも贈られていることから、牛一も賀茂社から筆を贈るにふさわしい人物として認識されており、これを用いて『信長公記』の元になる記録を付けていたとも想像される。

 本能寺の変後は丹羽長秀に2,000石で仕え、柴田勝家との戦いのため坂本城に長秀に従い参陣する。後に天正13年(1585年)の長秀没後は丹羽長重に加賀国松任で仕えるが、公務は息子に譲り同地で一時隠居する。


 しばらくして豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚となり再度寺社行政と検地なども担当し、この年から山城国加茂六郷を検地する。天正18年(1588年)には淀城を拠点にし、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任する。天正20年(1590年)、肥前国名護屋へ秀吉に従軍し、道中の人足や馬を配分する奉行に就く。名護屋では名護屋城の建築工事の差配をする。文禄元年(1592年)の文禄の役では城の留守番衆として詰める。

 文禄3年(1594年)、大阪に戻る。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀頼の初の上洛に供奉する。この時に後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では秀吉の側室・三の丸殿の警護を務めた。同年3月17日、醍醐寺三宝院で門跡・義演から信長から秀頼までの記録を書いたと紹介され一部暗誦もした。


 同年9月18日の秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えた。慶長6年(1601年)までに『関ヶ原合戦双紙』を徳川家康に献上し、11月7日中井宗茂にも進上する。慶長11年(1606年)、南禅寺金地院の河内真観寺領の代官になる。慶長12年(1607年)頃、『関ヶ原合戦双紙』奥書で自分の著作をまとめて「五代之軍記」と名付ける。慶長16年(1611年)3月28日、秀頼の家康との京都二条城での会見への上洛に供奉する。


 牛一は長寿かつ壮健で慶長15年(1610年)、84歳時の書も残っている。しかし、感冒で重体となり、体力が低下したが回復する。隠居しないまま大阪城東南の重臣の屋敷地区の大坂玉造で慶長18年(1613年)に病死する。大阪府池田市の佛日寺に子孫が立てた墓がある。

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