第17話 勝家の野望 

 柴田勝家は大永2年(1522年)に、尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。


 若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。


 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。


 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前と礼を述べた。以後は信長を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用したこともあって、見限った。弘治3年(1557年)に信行が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。


 信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。ただし、永禄8年(1565年)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、この頃には信長の奉行の1人であった。


 永禄11年(1568年)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。


 元亀元年(1570年)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶った。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛、森可成、中川重政と共に撃退した。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍する。


 同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む。


 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれた狙いやすい箇所で一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家は旗指物まで奪われた。 すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する。9月の比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。


 元亀4年(1573年)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する。このため4月、信長自ら出陣し、義昭への脅しのために上京に放火させた際は勝家も参加している。なお、この時に信長は下京に対しても矢銭を要求した。この際に下京側が作成した矢銭の献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人へ献上する銀250枚に続いて勝家個人とその配下に合計銀190枚を送ることが記載されている。

 また、同月に信長と義昭が一時的に和睦した際に交わされた起請文には織田家の重臣として勝家は林秀貞・佐久間信盛・滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し、勝家と林ら3名は当時の織田家の年寄(重臣)の地位にあったことをうかがわせる。

 7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条城にそれぞれ立て籠もったが、勝家は藤英を説得し二条城を開城させた。なお、7月1日には信長は4月に下京に命じていた矢銭の献上を免除しているが、勝家は4日付でこの内容を保証する副状を下京側に発給している。その後、勝家は自身も加わった7万という人数で義昭が籠る槙島城を総攻撃し、降伏させた。義昭は追放され事実上室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦する。


 天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。


 同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574年)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き3月9日から勝家が入る。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した。


 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。


 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となった。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅戦で平定した。9月、信長は越前国掟全9条(原書には「掟条々」)とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず信長に見限られ尾張に戻される。


 天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている。


 天正5年(1577年)7月、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱してしまい足並みが乱れる。勝家は七尾城の救援に向かうが間に合わずに七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却した。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受ける(手取川の戦い)。勝家側が千人余り打ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれているが、他の史料に記載は無く小戦とも見られ不明である。そして天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を逐った。


 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。一向一揆を制圧して、天正8年(1580年)11月、ついに加賀を平定する。さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。


 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加した。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている。


 天正10年(1582年)3月から上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していた。6月2日未明、本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い)。事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻った。

 

 勝家はこれまで起きた様々な出来事を思い出していた。

「お館様、仇は必ず討ちまする」

 

 工藤もD大学の史学部出身だ。柴田勝家についてはある程度詳しかった。

 勝家は本能寺の変の後、大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討つ計画を伝えている。しかし上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽り動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた。


 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉が信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなった。ただし、近年になって勝家が三法師の後継に反対して信孝を擁立したとする話は『川角太閤記』による創作であって、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催そのものが三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されている。


 また、信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たが、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張、伊賀、南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となった。


 また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚している。従来は信孝の仲介とされて来たが、勝家の書状で「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで、清洲会議の沙汰への勝家の不満の抑えもあり秀吉が動いたと指摘されている。


 清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まる。勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗する。だが秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔した。次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させる。天正11年(1583年)正月に秀吉は滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻めるが一益は3月まで対峙する。


 天正11年(1583年)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利に庇護されている足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利を介して出し背後を突かせようとするが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。同様の働きかけは3月頃に高野山にもしており、各地にしたようだが実を結ばなかった。4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害した。享年62。 辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」


 まさか、リアルに勝家と会うことになろうとは思いもしなかった。勝家は犬山城のすぐ近くにいた。


 犬山城は尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。


 前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。


 江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。2004年(平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月1日付けで設立された財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されている。2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(43番)に選定された。


 犬山城の天守は、外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。窓は突上窓と火灯窓、両開き窓なと、地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。 天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。


 勝家は城の中に入った。

 1階:納戸の間、東西9間・南北8間。床面積は282.752平方メートル。

 2階:武具の間、東西9間・南北8間。床面積は246.006平方メートル。

 3階:破風の間、東西3間・南北4間。床面積は81.936平方メートル。

 4階:高欄の間、東西3間・南北4間。床面積は49.835平方メートル。

 観光客たちは鎧姿の勝家たちに驚いて逃げてしまった。

「恒興、恒興はどこじゃ!?」

 勝家は池田恒興と協力して明智光秀を倒すことを考えていたが。異世界の人々たちに勝家はおののいてしまった。茶色や金の髪をした者、小さい箱(スマホ)をいじってるおかしな連中、光秀は魔法でも使えるのだろうか?

 ガキがスマホのカメラでパシャパシャ勝家を撮っていた。

 眩しい!目くらましか!?どこの忍びだ!?勝家は刀でガキを斬り殺した。夥しい血を迸らせた。

「信長様のあとを継ぐのはこの儂じゃあ!」

「叔父貴!」

「鬼玄蕃どうしたのじゃ!?」

 鬼玄蕃は佐久間盛政の通称だ。

 盛政は佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。


 天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。 「身長六尺」(約182センチメートル)の、かなりの巨漢だ。


 永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角承禎)で初陣。元亀元年(1570年)の越前手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲河原の戦い(対六角承禎)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参加、戦功を挙げた。


 天正3年(1575年)、叔父・柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた。以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った。


 天正4年(1576年)には加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功。


 天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が南下してきた際には信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した(『信長公記』天正5年10月の条)。


 天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた。


 天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って上杉景勝らが加賀に侵入し、白山城(舟岡城)を攻め落とした。この時、救援に向かった盛政が到着したときには既に落城していたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、これを破った。また、苦戦したものの加賀一向一揆を壊滅させている(鳥越城の戦い)。この際の戦ぶりにより「鬼玄蕃」と恐れられるようになった。


 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には柴田勝家に従って上杉方の越中松倉城を攻撃中であり、信長の没後は柴田勝家に従った。勝家が軍を率いて越前に撤退し、明智光秀討伐のため上洛しようとした際には情勢を説いて諫止したとされているが(『村井頼重覚書』)、この説は疑わしいとされている。

 天正10年(1582年)6月下旬に能登国の温井景隆らが景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城した際、前田利家の要請に応じて救援し、これを討った(荒山合戦)


 柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。当初、両者は持久戦の構えを取っていたが、従兄弟で勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。


 これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を大岩山で討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令しており、桑山は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答、賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。


 しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗(『柴田退治記』)。この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきた(美濃大返し)、よって盛政は敵中に孤立してしまった。その後、前田利家らの部隊が撤退したため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。


 結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした。


 落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられた。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑された)。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという。


 秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘った。しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、秀吉の好意を感謝しながらも、「生を得て秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう。いっそ死罪を申し付けて下さい」と願った。秀吉は盛政の説得を諦め、その心情を賞賛してせめて武士の名誉である切腹を命じたが、盛政は敗軍の将として処刑される事を望んだ。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べた(『川角太閤記』)。秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈るが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず、「死に衣装は戦場での大指物のように、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し、秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語って希望通りの新小袖2組を与えた。


 盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されたが、その際に「年は三十、世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと、貴賤上下馬車道によこたわり、男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とある(『佐久間軍記』)。その後、宇治・槙島に連行されて同地で斬首された。享年30(享年27乃至29とも言う)。秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが、盛政は拒否して従容と死に臨んだという。


 辞世は

 「世の中を 廻(めぐ)りも果てぬ 小車は 火宅(かたく)の門を 出づるなりけり」


 SATの土方俊介隊長は犬山城で籠城事件が発生したことを無線で知った。

 土方は13年前に発生した凄惨な事件を思い出した。

 

 2007年5月17日午後3時47分ごろ、愛知県愛知郡長久手町の民家から「父親が拳銃を持って暴れている」という通報が警察に入った。その後、午後3時49分にこの民家に住む息子から「父親はもう落ち着いた。警察が来ると興奮するので家には来ないでほしい。持っている拳銃はおもちゃだ」という2度目の通報が入った。愛知警察署長久手交番勤務の永倉精一巡査部長が現場に駆けつけたところ、元暴力団組員、芹沢誠が永倉に向けて回転式拳銃(実銃)を発砲し、永倉は首を撃たれ現場民家の出入り口付近に倒れた。永倉は2度目の通報内容から防弾チョッキを着ておらず、防刃ベストを着用していた。永倉が撃たれた直後に愛知警察署の刑事課員10人が3台の捜査車両で現場に駆けつけたが、10人中6人は防弾チョッキを身につけていたものの、拳銃は10人全員が携帯していなかった。


 芹沢は別れた元妻、エリカとの復縁について家族と話をしていたが、話し合いが上手くいかないことに腹を立て、銃を持ち出し暴れていたという。芹沢は永倉への銃撃とほぼ同時に息子、公之の左腹部と娘、伸子の右足も拳銃で撃ち負傷させた。民家を脱出した息子と娘は命に別状はなかったものの、息子は重傷であった。


 その後、芹沢はエリカを人質にとり自宅に立てこもった。警察は現場付近の交通をすべて遮断し、芹沢に対して説得を続けたが、芹沢は「救急車を近づけたら撃つ」「弾が100発ある」「爆弾も持っている。近づいたら爆発させる」などと脅迫したため、民家の出入り口付近に倒れている永倉を容易に救出することはできなかった。民家の敷地内には人の動きに反応して点灯するセンサーライトが設置されており、永倉の腕が動くたびに点灯して周囲を明るく照らしていた。また、庭に1匹と室内に2匹の犬がおり、民家の裏から捜査員が近づいた際も吠えていた。


 午後4時45分ごろ、捜査一課に所属する捜査員、原田太郎が芹沢を説得している間に、機動捜査隊が現場に到着した。機動捜査隊の捜査員らは窓を開けて姿を現していた芹沢の死角に配置し、拳銃を構えて射撃する態勢をとっていたが、突然、前線本部から「下がれ」と命令されたため、芹沢の制圧は中止された。


 午後5時30分ごろから午後6時ごろにかけて、愛知県警察刑事部の特殊捜査班 (SIT) の隊員が現場に到着。到着直後に防護車両を玄関に突入させて永倉を救出する作戦を計画したが、実行直前に前線本部からの指示により中止された。この時点で、倒れていた永倉は「俺はもうだめだ」との言葉を残して、無線の呼びかけに応じなくなっていた。愛知県警察は犯人が「人質を撃つ」などと威嚇し続けたことから作戦を転換したという。


 その後、井上淳たち捜査員らは近くの敷地を借りて、盾で永倉を防護しながら救出する作戦の演習を繰り返し行った。また、救出作戦開始前に愛知県警察警備部の特殊部隊 (SAT) も現場に到着した。


 午後8時20分、永倉の救出作戦が最終決定する。SITと機動捜査隊の隊員計16人で混成された救出部隊が民家の敷地内に入り巡査部長を担架に乗せて運び出すのを、SATの隊員計14人が後方支援という形で援護する計画である。


 救出部隊は、大盾を持ったSITの隊員7人が先頭となって1列に並び、その後ろに拳銃を持ったSITの隊員3人、そのさらに後ろに担架を持った機動捜査隊の隊員6人が続くという陣形をとった。また後方支援を担当するSATは、約70メートル離れた建物の屋上に狙撃銃を持った隊員5人を配置、さらに現場前の路上に拳銃や機関拳銃 (H&K MP5) を持った隊員9人を配置し、9人のうち3人は民家の前まで前進してきた特型警備車の陰に身を隠しつつ、救出部隊を近距離から援護する計画だった。


 午後8時54分、作戦が開始され、芹沢と娘が電話している間に救出部隊は前進を始めた。


 午後9時20分すぎ、SIT、SAT、機動捜査隊員計25人が盾や銃を構えつつ気付かれないように民家に近づいた。この際、防弾機能のある特殊車両については芹沢に気付かれてはならないとの判断から、計画よりも数メートル手前に停車させた。車両が手前に停車した結果、SAT隊員3人は特殊車両の前に出て援護することとなった。救出部隊はそのまま巡査部長の倒れている民家の出入り口へと向かい、SAT隊員3人は駐車していた捜査車両に身を隠しつつ援護を行う。


 作戦通り救出部隊が倒れている永倉を救出し、SATのいる後方に搬送していた際、犬の鳴き声により警察官の接近に気付いた芹沢が民家の窓から救出部隊に向かって拳銃を発砲。後方支援のため捜査車両の間で機関拳銃を構えて警戒していたSAT隊員、山南純が左鎖骨部に被弾した。この山南は防弾チョッキを着用していたが、銃弾は左鎖骨で跳弾して方向を変え、防弾チョッキの防弾効果がない胸と背中との繋ぎ部分を貫通、首筋の左鎖骨下部から入り上行大動脈を貫通した。救急車で搬送されたが、外傷による心不全(心タンポナーデ)のため5月18日午前0時ごろに病院で死亡した。弾丸は体内から見つかった。救出された永倉は命に別状はなかったものの、外傷性クモ膜下出血などの重傷であり、半身不随の後遺障害が残った。


 報道によれば、SATは永倉救出の際、民家敷地に犬がいることを知らされておらず、前線本部からは「発砲してきて、犯人の姿がみえたら発砲しろ」と命令されていた。山南が撃たれた際、男はブラインド越しに銃撃しており、姿が確認できなかったため、これに応戦する形での射撃は行われなかった。


 山南の死亡後、大阪府警察のMAATが現場に応援派遣され、愛知県警察SITと合同で突入する演習を実施しており、この様子を撮影した写真が事件後にテレビで報道された。


 しばらく膠着状態が続いたが、5月18日午前10時35分ごろ、芹沢が名古屋市のFMラジオ局ZIP-FMに直接電話をして、放送中の番組のDJ、藤堂順との会話を要求してきた。


 午後2時すぎ、愛知県警察捜査員の武田良などの立会いのもと、芹沢と藤堂との電話による会話が開始され、芹沢が自身に関する話などを始めた。


 午後2時50分ごろ、芹沢が電話をしている隙に人質になっていた元妻がトイレの高窓から脱出、警察に保護された。このころになると応援の大阪府警察MAATもマスメディアの前に姿を現していた。


 元妻が脱出・保護されると芹沢は次第に態度を軟化させ、特殊捜査班の交渉役捜査員、谷隆一が説得を続けると午後7時20分に自宅から出ることを約束した。


 しかし、芹沢は投降する時間を延長し午後7時30分を過ぎても出てこなかった。現地対策本部ではSITに突入訓練の再チェックを指示しており、午後10時ころに強行突入する計画を進めていたという。


 午後8時30分すぎ、芹沢は警察の「あなたを安全に保護したい」との説得に応じて投降し、周囲を取り囲んだ捜査員によって殺人の疑いで緊急逮捕された。拳銃を自宅に置いてきた男は、左手に家族の写真・タオル・音楽CD入りのビニール袋を、そして右手には水道水が入ったペットボトルを持って出てきた。


 事件後の調べで芹沢はまず永倉に対して1発、さらに止めに入った息子と娘に対して各1発ずつの2発を発砲して負傷させたことが分かった。


 また、その後倒れている永倉と介抱をする娘に対して1発を発砲したがこれは命中しなかった。そして、永倉救出の際に救出部隊に対して4発を発砲、そのうちの1発が後方支援の山南に当たり、死に至った。


 芹沢の使用した38口径の回転式拳銃はスペインなどで製造されたルビー・エクストラ (Ruby Extra) とみられている。押収時は実弾6発が装填されており、ほかにも実弾8発と薬莢10個が発見されている。以上のことから、芹沢は少なくとも24発以上の実弾を所持していたとみられている。芹沢は爆弾を持っていると威嚇していたが爆発物は発見されなかった。


 殉職した山南純は警部に二階級特進し警察庁長官から警察勲功章が、国から旭日双光章が授与された。

「山さん、あなたの死は無駄にしないからな?」

 土方はひとりごちた。

 

 佐久間盛政は「巨大な鳥がこちらに近づいて参ります!」と告げた。

 SATはヘリを使って犬山城へ向かった。

 勝家は「化け物か!?」とオロオロしてる。

 

 陸地から城を攻める、新人隊員の島田創は自分が大河ドラマの中にいるような錯覚を覚えた。

 戸惑っている彼らは山中長俊が率いる軍勢に襲撃される。長俊は近江国甲賀郡の出で、甲賀二十一家の山中氏の庶流(南北朝時代に分かれている)。


 はじめ六角氏に仕えて、永禄11年(1568年)9月に織田信長によって六角義賢が居城を追われた際は、これを甲賀郡に保護して信長と抗戦している。天正元年(1573年)9月には石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛配下の将・林寺熊之介を討ち、義賢から感状を受けた。しかし、天正2年(1574年)4月に石部城が開城すると織田氏の家臣となり、柴田勝家に属し3000石を与えられ家老となる。北陸方面での攻略においては勝家の発給文書に副状を添えたり、河田長親の誘降工作を担当しており、勝家に重用されている事が窺える。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いにおいて柴田氏が滅亡した後は丹羽長秀に仕えたが、長秀の死後に家中が乱れたため、堀秀政に寄食した。


 天正13年(1585年)に豊臣秀吉に召し出され右筆となり、天正18年(1590年)の小田原征伐や奥州仕置に従軍し、外交折衝などで活躍した。文禄元年(1592年)文禄の役では肥前国名護屋城に在陣。文禄2年(1593年)以降、豊臣家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官などを歴任し、同年9月に100石を加増された。同年、山城守に叙任され、豊臣姓を下賜された。文禄4年(1595年)には、1万石となり大名に列した。所領は摂津国西三郡、河内国中部、近江国、伊勢国に分散していた。その後、畿内の太閤蔵入地3万石の代官となる。


 また、秀吉の命により『太平記』の続書として長編歴史書『中古日本治乱記』を執筆。貞治元年(1362年)から慶長2年(1597年)まで執筆したところで秀吉が死去したが、のちに太田資方の勧めで増補し、関ヶ原の戦いの終結までを執筆して完成させた。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、西軍に属し大坂城留守居・守備隊として大坂城周辺を守備した。このため、戦後に改易となり、徳川氏より微禄を与えられたが京に隠棲し、慶長12年(1607年)同地で死去した。墓は西教寺(現・大津市)。法名は紹春。


 なお、長俊の孫(信俊の子)の山中幸俊は、豊臣秀頼に仕え大坂の陣に参加した。豊臣氏滅亡後は浅野長晟に仕え、子孫は広島藩士として存続した。また、信俊の次男の山中宗俊は、徳川家康に仕え、慶長14年(1609年)に1000石を賜り旗本となり、大坂の役では永井直勝の組に属し従軍した。子孫は旗本として存続している。


 その後、柴田勝家が家来と共に近づいて来た。勝家は島田と初めて会った瞬間に「俺によく似てる」と気に入り、見慣れない服装・武器に惹かれ、島田たちを仲間にしたいと考える。

 勝家と敵対する池田恒興の軍勢に大量の矢で射撃され、四日市昭隊員と稲石大志らが死亡。

 島田と土方俊介隊長がサブマシンガンのMP5A5を乱射して敵の陣地へ乗り込むが、勝家たちが「ご助勢かたじけない」と家来を引き連れて追いついて敵兵と切り結び、ついには敵将、池田恒興の首級を挙げる。勝家は盟友の恒興の反乱に武者震いしていた。

 白刃で斬り合う彼らの戦いを目の当たりにしたことで、SAT隊員たちはコスプレパーティーやドッキリではないことを認識。

 後藤さくら隊員は賤ヶ岳の戦いで、勝家が戦死することを思い出し、このまま柴田軍に残るのは危険だと察知し、オートマチック拳銃・グロック19で勝家軍を襲撃するが、島田はナイフを彼に投げ付けて刺殺する。

「すまんな……さくら」

 島田は勝家から「死にたくないなら俺について来い」と、遠回しに天下を取ろうと誘われる。島田は戸惑いながらも『信長の野望』みたいだと興奮していた。

 田辺明慶隊員は勝家の部下の女ザムライ、お初と恋に落ち、山口大和隊員はいつ死んでもいいように、三重にいる祖母に逢いに出かけた。安達隆也隊員は山路正国と意気投合。安達がスマホアプリでドラクエウォークをやってると食いついてきた。彼にスマホを貸したらボスバトルで圧勝した。

 正国は天文15年(1546年)、神戸具盛の家臣・山路正幽の子として生まれる。


 永禄10年(1567年)織田信長が伊勢国北部に侵攻、山路一族の守る高岡城が攻撃される。兄・弾正が神戸具盛と共に織田軍に降伏したが、その後弾正は自害に追い込まれる。


 織田信長の重臣である柴田勝家に仕え、信長死後の清洲会議で近江国長浜城主となった勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕えた。


 天正10年(1582年)12月、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃を受けて、勝豊と共に降伏した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、病気のために出陣できない勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦したが、4月13日に佐久間盛政の調略を受けて柴田方に寝返った。その後、盛政の部隊の一員として共に羽柴軍に奇襲をかけて一時は成功したものの、4月21日に秀吉の反撃を受けて佐久間軍は壊滅し、正国は秀吉の家臣・加藤清正に討ち取られた。享年38。


 テーマパーク・明治村に逃げ込んだ池田軍と柴田&SAT連合軍は対峙することになった。

 池田軍の木村重茲は西郷従道邸の前に配置していた。この館はフランス人建築家レスカスによるものとされる、西郷従道の邸宅の接客用の洋館。明治10年代に建設。 木造二階建て銅板葺。1964年(昭和39年)に西郷山から移築。 内部で展示されている調度品の多くは鹿鳴館や赤坂離宮で使用されたもの。二階のベランダは雨水を流すため若干の傾斜をつけるなどの細やかな工夫が随所に見られる。明治村移築前は国鉄スワローズの選手宿舎として使われ畳を敷いていたとされ、移築にあたっては名鉄が保存していた国鉄キハ6400形蒸気動車の所有権を国鉄に返却し等価交換してもらう形をとった。

「旧西郷従道住宅」として、1965年(昭和40年)5月29日に重要文化財指定された。

 

 重茲は、木村定重の子として生まれる。天正11年(1583年)、父の死去により家督を継ぐ。同年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉(豊臣秀吉)方として参戦し、近江堂木山砦の守将を務めた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、その功績により天正13年(1585年)、秀吉より越前国府中(現福井県越前市)に12万石を与えられた。


 天正15年(1587年)、九州征伐にも参戦する。天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の先鋒を務め、武蔵岩槻城攻略で武功を挙げた。続く奥州仕置においても出羽国の検地を担当し、葛西大崎一揆征伐においては豊臣秀次に従って武功を挙げた。この頃から秀次付の家老となり、文禄元年(1592年)の文禄の役では3,500の兵を率いて朝鮮に渡海する。


 これらの武功を秀吉より賞されて、山城国淀18万石に加増移封された。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、秀吉より秀次の与党として連座の罪に問われ、同年7月15日(8月20日)、摂津国茨木の大門寺において自害を命じられた。大門寺に血染めの経帷子が保存され、常陸大明神と記された墓碑がある。長男の高成(重武、重光、志摩守)も法花堂で切腹させられ梟首されたほか、娘も磔にかけられたという(「兼見卿記」)。戒名は常照院殿重高大居士。墓所は大阪府茨木市の大門寺。


 子の木村重成(異説もある)は、幼年のために罪に問われることなく、豊臣秀頼の家臣として仕え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死した。

 

 勝家は最近、不眠症に悩んでいた。キムラ・シゲコレが夢の中に現れた。シゲコレは座敷坊主に殺された。座敷坊主は刀などの武器を使うことはなかった。坊主の肩をポンポン叩いたシゲコレは胸を押さえて苦しみ出した。

 座敷坊主は天竜川中流の山奥にある門谷村(現・愛知県新城市門谷)などに現れたと言われる。


 村の中のある家の主人がイノシシを落とし穴で捕らえた後、その穴に金を持った人が落ちて死んだ、または盲目の金持ちをその穴に落として殺害したという話や、その家に泊まった坊主を殺害した、暗い中に連れ出して殺したなどの話があり、その死んだものの霊が現れるのだといい、その家に泊まった人の床の向きを逆にしたり、枕返しをすると言われる。その姿は5,6歳ほどの子供のようとも、坊主姿の按摩のようともいう。

 大津峠には、その殺された者を供養するためといわれる立て石があるが、その家には今なお祟りによって気のふれる者があるという。


 ほかの村でも坊主頭の按摩のようともいう。また三河国北設楽郡本郷村(現・愛知県北設楽郡東栄町)では座敷小僧の名で伝わっており、ある酒屋を営む旧家に10歳ほどの子供のような姿で現れたといい、雇用人が奥座敷の雨戸を閉めに行ったときによく姿を見たという。南設楽郡長篠村大字横川(現・新城市)では、神田という裕福な家に座敷小僧が現れていたが、茶釜にツモノケ(糸を紡ぐツモに掛けられた綿)を当てるという禁裏を犯したために座敷小僧が家を去り、家はそれ以来衰退してしまったという。


 岩手県では旧家に座敷小僧が現れるといい、小児の姿をした家の神とされる。下閉伊郡岩泉町のある家では、奥座敷の真中の柱を踏むと枕元に現れたといい、4,5歳ほどの赤黒い裸の坊主で、身長は2尺ほど、赤い綺麗な顔をしていたという。


 岩手県紫波郡のある旧家でも赤い顔の座敷小僧がおり、夜に炉に現れて火を起こしたりしたという。またこの地方では、座敷童子の正体をムジナとする説もある。宮城県本吉郡大島村(現・気仙沼市)でも座敷坊主が家に現れて枕返しをした事例がある。


 民俗学者・佐々木喜善の著書においては座敷坊主は座敷童子の一種として分類されており、六部(旅の僧)を殺して金銭を奪った者が祟りに遭うなどの「六部殺し」の話が座敷童子の性格に付加され、座敷坊主の姿となったとする説もある。

 

 重滋は妻ソックリの女性を見つけて我を失った。一方、SATの島田は池田軍残党を殲滅するため観光客もろとも殺すことに決めた。島田は89式5.56mm小銃をぶっ放した。

 重滋は女性の盾になり死んだ。また、池田軍の蜂屋頼隆が蜂の巣になった。🐝蜂屋頼隆は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。近江肥田城および岸和田城主、後に敦賀城主。羽柴氏を授けられた後は羽柴敦賀侍従とも称した。


 蜂屋氏は土岐氏の一族であり、美濃国加茂郡蜂屋村出身の土豪であるとされるが、頼隆自身の出自は不明。


 頼隆は織田信長の古くからの家臣であるが、信長に仕える以前の経歴もよく分からない。『信長公記』の後述の美濃・斎藤義龍の刺客の記述において、丹羽兵蔵が取次役として金森と蜂屋を指名していることから、金森長近と同じく美濃出身で、かつて斎藤氏に仕えた経験があった可能性はある。


 天文21年(1552年)、赤塚の戦いにおける信長側の足軽衆の頭として内藤勝介や長谷川橋介らとともに蜂屋般若介なる蜂屋姓の人物の名が見られるが、頼隆との関係性は不明。


 永禄年間には選抜された黒母衣衆に名を連ねる。つまりこの頃、信長馬廻だった。


 永禄2年(1559年)に信長が初めて上洛した際に80名の随行者の1人として同行。この時、斎藤義龍の命を受け信長を暗殺しようと追いかけてくる美濃衆の集団がいたが、清洲の丹羽兵蔵という者の機転で彼らの目的が判明し、兵蔵は金森長近と頼隆にこれを通報。 信長の命を受けた長近と兵蔵は刺客達の宿に行って既に事が露見していることを告げて、目論見を阻止した。


 永禄11年(1568年)の信長の上洛においては部将の1人として一隊を指揮。柴田勝家・森可成・坂井政尚とともに先陣を命じられ、岩成友通の籠もる勝竜寺城を攻めて、協力して敵の首50余りを討ち取った。


 上洛後もこの4人組で京機の政務に携わった。同年10月12日には某所に禁制を掲げ、11月5日には伏見荘瑞祐首座知行分の名主百姓に年貢・諸成物を周悦首座に納めるように命じ、永禄12年(1569年)1月24日には公卿・飛鳥井雅敦より本興寺に陣取りしないように頼まれる。さらに4人組に、佐久間信盛や和田惟政を加えての政務も見られる。永禄11年10月1日、富田林院(興正寺)に下された制札を確認し、永禄12年2月1日には金剛寺が三好三人衆に味方したことを責めて、罰として兵糧米1,000石を賦課し、同月21日には堺接収の上使を務める等々。この頃、既に頼隆は信長の代表的な部将の1人となっていた。

 永禄12年8月、大河内城の戦いに従軍した。


 元亀元年(1570年)6月、信長の江北出陣に従軍。21日に浅井長政の小谷城を攻めた後、虎御前山に登って一夜の陣を構えた信長は、柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・頼隆、および近江国内から参陣した諸将に村々・谷云々の隅々まで焼き払わせた。


 元亀3年(1572年)4月、三好義継が松永久秀父子と謀って畠山昭高と対立すると、久秀は畠山部将・安見新七郎を攻めて交野かたのに砦を築いたので、信長の命令で、柴田勝家・森可成・坂井政尚・頼隆・斎藤利治・稲葉一鉄・氏家直昌・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀常則、ほか室町幕府15代将軍・足利義昭配下の諸将も加えて、三好・松永方の交野城を攻囲(交野城後巻き)したが、敵は風雨に紛れて脱出した。


 同年7月、再び江北出陣に従軍し、信長嫡男・信忠初陣の小谷城攻めに参加して、小谷の町を破った。


 元亀4年(1573年)2月、義昭が信長と対立して蜂起を促したので、柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・頼隆の4将は、近江石山城・今堅田城の攻撃を命じられる。甲賀・伊賀衆の籠もる近江石山城の大将山岡景友は降伏し、26日、砦は破却された。29日、強襲を受けた今堅田は光秀と長秀・頼隆に挟撃されて落城した。


 同年3月29日の信長の京出陣に従い、義昭を脅迫するために、4月2日、洛外の寺社関連の建物を除外して家々に放火した。義昭は一旦これを無視するが、翌日、上京の町を焼き払うと堪らず和議を申し出た。同年7月、その義昭が再び挙兵して、二条御所には日野輝資・高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英らの諸将を置き、自らは槙島城に籠城すると、信長に従って出陣して義昭を追放した。信長は7月28日に天正への改元を行った。


 天正元年(1573年)8月、越前朝倉攻め(一乗谷城の戦い)に参加。18日夜、織田家諸将は朝倉勢の退却を見逃し、信長は馬廻りだけを率いて朝倉勢を追撃したが、頼隆も遅れを取って叱責を受けた諸将(滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・稲葉一鉄)の1人だった。なお、このときに佐久間信盛は恐縮もせずに自慢話をしたと言い、これが後年の折檻状の罪状の1つにされている。 同年9月、北伊勢攻めに従軍して、信盛・秀吉・長秀とともに西別所城を落城させたが、その後も抵抗を続けた白山の中島将監を攻めて、降伏・退去させた。


 天正2年(1574年)3月、東大寺の蘭奢待切り取りにおいて、塙直政・菅屋長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・織田信澄が特使として派遣され、奉行を務めた。


 同年7月13日、信長・信忠が諸将を動員して伊勢長島に出陣するとこれに参加。佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・貞通父子と賀鳥口を担当した。その後、勝家・一鉄・貞通と大鳥居城の降伏を認めずに攻め立て、8月2日、激しい風雨の中を脱出しようとした男女1,000人ばかりを斬った。9月29日、兵糧攻めに耐えきれなくなった一向一揆勢は降伏すると言って長島城を退去したが、信長はこれを許さずに囲いに追い込んで焼き殺し、鎮圧した。天正3年(1575年)8月、前年1月より続いていた越前一向一揆の掃討戦に参加した。


 天正4年(1576年)4月14日に石山本願寺が再び挙兵したので、畿内の軍勢が動員される。本願寺勢は天王寺砦を包囲したので、5月5日、信長は救援のために軽装のまま出陣。信長は若江で軍勢を揃えて一戦に臨んだが、頼隆は滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直昌・安藤守就と共に第二陣に入った。

 天正5年(1577年)、雑賀攻めにおいて、2月10日、尾張・美濃の軍勢を率いて出陣する織田家当主の織田信忠に近江愛智郡肥田城を宿舎として提供した。この頃、頼隆も織田家宿将の1人として琵琶湖沿岸の城を与えられていたことがわかる。

 軍勢は信長の待つ京都に集結し、13日に出陣するが、悪天候でしばしば順延した。同年3月1日、信長は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・長岡藤孝・筒井順慶に、鈴木重秀の雑賀城を攻撃させた。同年8月に松永久秀が反逆すると、9月、再び出陣した信忠に肥田城を宿舎として提供した。


 天正6年(1578年)4月4日、信忠に従って大坂へ出陣。5、6日、諸将と共に石山本願寺攻めに加わり、麦苗をなぎ払って帰陣した。同年6月、再び信忠に従って播磨国に従軍し、同月27日、滝川一益・稲葉一鉄・頼隆・筒井順慶・武藤舜秀・明智光秀・安藤守就・氏家直昌・荒木村重で神吉城を攻撃した。激戦の末、同城は7月16日に落城した。


 同年11月に荒木村重の謀反が明らかになると、9日、信長は摂津へ出陣。滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・安藤守就・氏家直昌・稲葉一鉄に荒木方の茨木城に対する付け城・太田郷砦の普請が命じられた。普請が完成すると、14日、築城を行った七将と武藤舜秀・羽柴秀吉・長岡藤孝に有岡城の戦いの先陣が命じられた。さらに頼隆・長秀・蒲生賢秀と若狭衆は見野村の要害に陣を構えた。 また、12月1日、大和田城の安部二右衛門は織田方に寝返ろうとしたが、父と祖父が反対して天守に立て篭もったので、2日、二右衛門は偽って頼隆・阿閉貞征の陣に銃撃し、父と祖父が安心して天守から降りたところを捕らえて京に人質として送り、3日夜、織田方に降って信長から褒美をもらったということがあった。

  12月11日、信長は村重が籠城する伊丹城(有岡城)の周囲に付け城を築くように命じ、長秀・頼隆・蒲生氏郷・高山右近・織田信孝はそのひとつの塚口郷の砦に在番した。 

 この包囲は年を越して長期に及んだので、信長は各地で鷹狩りを興じている。 天正7年(1579年)4月、越前衆の帰郷が認められるなど伊丹方面で配置換えがあり、塚口郷の砦は長秀・頼隆・氏郷の三将となった。

 6月20日、信長は伊丹城包囲の一益・頼隆・舜秀・長秀・福富秀勝の5名に褒美として鷂はいたか3羽小男鷹このり2羽を与えた。


 9月2日夜、村重が数名の供だけをつれて脱出すると、一益の調略をきっかけに10月15日より伊丹城の支城への猛攻が始まる。裸城となった伊丹城は降伏を申し出るが、信長は拒絶した。19日、荒木方の部将が尼崎城の村重を説得するために伊丹城を退去し、妻子を人質として残していった。伊丹城は織田信澄が接収した。しかし尼崎城・花隈城は投降せず、12月には妻子の警護役だった荒木方の池田和泉は人質を案じ、絶望して鉄砲で自害した。12月12日、信長も可哀相だとは思ったが、村重の身内の者である妻子は京都に護送させ、一方で摂津国の有力者の妻子を選び出して長秀・頼隆・一益に命じて磔にするように指示した。13日、こうして集められた人質130名が尼崎で磔刑になり、以後、中級以下の武士の妻子として女388人・男124人も処刑された。村重の身内の者は、16日、(頼隆は関与してないが)越前衆の諸将を奉行として京都の六条河原で処刑された。


 なお、この頃、天正7年3月13日に高槻城で病死した大津長治の正室を、頼隆は妻として迎えた。子のいない頼隆は長秀の四男・直政を養子に迎えている。


 天正8年(1580年)8月に佐久間信盛・信栄親子が高野山に追放されると、宿老の信盛が持っていた権限の一部を委譲され、和泉国の支配権を与られた。ただし頼隆は、丹羽長秀・織田信澄と本願寺門徒が退いた大坂に入り、以後も大坂で活動。11月26日、大坂の邸宅に津田宗及の見舞いを受けた。


 天正9年(1581年)、2月28日の京都御馬揃えで、丹羽長秀に次ぐ二番手として頼隆は登場し、河内衆・和泉衆・根来衆の一部・佐野衆を指揮した。4月、和泉で堀秀政を奉行とする検地が行われたが、槇尾寺の寺僧達は検地で寺領の一部が没収されるのを恐れ、村々を占拠し、目録も差し出さなかった。報告を受けた信長は不届きであるとし、「寺僧全員を斬首し、堂塔を焼き払え」と命じたが、21日、秀政は軍勢で威圧して寺僧800余を追い出し、寺僧は散り散りに逃げ去った。5月10日、織田信澄・頼隆・秀政・松井友閑・丹羽長秀は、無人となった槇尾寺の伽藍を検分して使えそうな部材を取り除いた後、堂塔・寺庵・僧房、経巻に至るまで残らず焼却した。


 この天正9年頃に頼隆は岸和田城に移ったと思われるが、天正10年(1582年)1月頃には和泉半国を領したという織田信張も岸和田城を居城にしていたようで、両者の関係性は不明である。信張は1月に雑賀に出陣した。2月13日、頼隆は野々村正成を雑賀表の検使として岸和田城に受け入れており、7月頃まで居城とした。


 甲州征伐では、同年2月9日、和泉国は紀伊を警戒するように命じられ、信忠が高遠城を落とすと、3月に信長が畿内の軍勢を動員して出陣したのでこれに従うが、武田勝頼・信豊親子は自害したため戦闘には参加せずに終わり、上諏訪に陣をしいただけだった。


 同年5月、信長が四国攻めの総大将に三男・神戸信孝を指名した際には、丹羽長秀・頼隆・織田信澄の3名は信孝の補佐として与力とされた。 ところが、渡海準備中の6月2日に本能寺の変が起こり、信長が横死して遠征も中止となった。この時、頼隆は岸和田城におり、5日、信孝と長秀が行った明智光秀の女婿であった織田信澄襲撃には関与しなかった。

 

 谷村伸也、神木たか子、伊藤圭の3人は市民を守るはずのSATの暴挙に頭を悩ませていた。


 かつて土方に殴られたり蹴られたりパワハラを受けたとして恨んでいる田辺明慶は弟分の山口大和と島田創を仲間に引き入れた。


 品川灯台に配置していた江川春奈隊員が3人を不審に思い、警戒をして拳銃を持った所を刺殺して哨戒艇を奪い、重火器を持ち出して隊を無断で離れる。

 品川灯台はフランス人技師レオンス・ヴェルニーらの設計。明治3年点灯。避雷針先端までの高さは約9mである。現存する洋式灯台では日本最古である。1964年(昭和39年)移築。


 佐藤鉄矢隊員も脅されたとは言え、島田らの欲望の赴くまま、観光客を襲い略奪と殺人、強姦を繰り返す。土方は追跡し、隊に戻るよう説得するが、島田はこれを拒んで戦えと挑発。不本意だったが、土方は聖ヨハネ教会の屋根の上からH&K PSG1で島田を狙撃し射殺する。

 H&K PSG1は、ドイツのH&K社が対テロ特殊部隊向けに同社のG3(G3SG/1)をベースに開発した、セミオートマチックの狙撃銃である。


 土方は歴史を変えようとする柴田勝家の暴挙を食い止めるべく奔走する。

 弾薬が空になりそうなので土方たちは野営地に戻ることにした。

 柴田勝家は明治村のすぐ近くにある入鹿池に蜂須賀正勝を追い込んだ。


 蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。生母は不明であるが、その生母は彼が6歳の時、享禄4年11月7日(1531年12月15日)に亡くなったという。


『武功夜話』では、川並衆という木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた集団の1つであったとされているが、信憑性には疑問が呈されている。稲田大炊助(貞祐)、青山新七(昌起)らと土豪勢力をなしていたようであるが、詳しいことはわかっていない。しかし少なくとも父・正利の代より美濃斎藤氏に仕えていたようであり、それが理由で織田信秀方に付いた一族とは敵味方に分かれていた。


 天文22年(1553年)2月25日の父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。


 道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年(1564年)に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。


 一説では、秀吉は織田氏に仕える以前に正勝に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって(敵側だった)正勝は信長の家臣となったという話もある。

 

 なお、信長の側室・生駒吉乃の父である生駒家宗とは同郷であり、『織田家雑録』では、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるとしている。他方で別書によれば、正利の室・安井御前は秀吉の義弟に当たる浅野長政とは母方の従兄弟になるので、その縁で秀吉の与力となった可能性もあるとされる。


 講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされているが、「墨俣一夜城」[注釈 15]のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年(1626年)以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできた。


 羽柴秀吉との出会いについても、浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が特に有名で、浮世絵などにも描かれるなど広く信じられてきたが、渡辺世祐が侯爵蜂須賀家の依頼により『蜂須賀小六正勝』を執筆した際に、室町期のどの紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたこと、この逸話が虚伝であることを指摘し、その後、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間(1688年-1704年)であり、天正年間(1573年-1593年)には渡し船で渡河していたことが立証された。


 永禄9年(1566年)、美濃国において秀吉の手で果たされた墨俣城の築城に前野長康らと協力した土豪衆(稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、梶田景儀など)の1人として、正勝は弟・又十郎と共にこれに加わった。秀吉が城の守将とされた後も与力として付けられて、斎藤方を調略する案内役として活動した。正勝はこれらの功で、信長により50余村と500貫を褒美として与えられた。


 永禄11年(1568年)、近江六角攻めでも秀吉与力として箕作城の攻撃に参加。同年、信長に従って上洛した。

 永禄12年(1569年)、秀吉の代官として京に留まって警備にあたり、5月、二条城が火災に見舞われた際には速やかに鎮火したので、足利義昭は正勝に桐の紋の入った羽織を褒美として与え、家紋としての使用を許した。以後、正勝は桐紋を衣類を用いるようになったが、後年、秀吉も桐の紋(太閤桐)を用いることが許されるので、これを憚って(正勝の死後の)蜂須賀家では柏紋(抱き柏紋)に改めている。また、信長も正勝の手柄を伝え聞き、尾張春日井郡三淵郷に5,000石を褒賞として与えた。


 元亀元年(1570年)、越前天筒山城・金ヶ崎城攻め、金ヶ崎の退き口で活躍。姉川の戦い、近江横山城の攻略で秀吉と従軍して功をあげた。横山城が秀吉に任せられると正勝は城代となった。


 元亀2年(1571年)5月、堀秀村がいた箕浦城が浅井・一向一揆勢に攻められると、秀吉は正勝らを派遣してこれを救援させて撃退したが、その際に一番槍の手柄を上げている。また長島一向一揆との戦いにも従軍したが、この戦いでは弟・正元を失った。


 天正元年(1573年)、浅井氏の滅亡後に秀吉が近江長浜城主(当初は小谷城で後に移転)となると、正勝には秀吉の直臣として長浜領内にも食邑が与えられた。『松平記』によると、翌年、信長は家中の殊勲・功臣を選抜したが、秀吉の配下では伊藤輿三左衛門尉と正勝の二人だけが選ばれた。


 天正4年(1576年)の天王寺合戦に参加。秀吉勢の先鋒を務めて、一番槍の手柄を挙げ、中村重友と共に一揆勢の首も多数上げて、秀吉より感状と100石の加増を与えられ、さらに信長からも褒美として定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けた。


 天正5年(1577年)から始まった中国攻めには、秀吉の譜代衆となった息子・家政と共に従軍した。天正7年(1579年)の播磨三木城攻め(三木の干殺し)では、別所長治、小早川隆景の挟撃をうけた平田城で谷衛好が敗死すると、これの反撃となった大村合戦では小早川勢を撃退して200の首級を挙げて兵糧強奪も果たし、糧米輸送を阻止した。天正8年(1580年)4月24日、広瀬城(長水城)を正勝と家政で攻略して城主・宇野重清を討ち取った(または捕らえた)。この功により、家政には月毛の名馬を、正勝には長水城が与えられて、初めて城主となった。その後、播磨を平定すると、秀吉は黒田官兵衛(孝高)の助言に従って姫路城を本拠として改修し、正勝にも播磨龍野城5万3,000石を与えた。


 同年、秀吉は、正勝の娘(後の宝珠院)と黒田孝高の長男・松千代(松寿)丸(後の黒田長政)との婚約を成立させ、左右の重臣の結束を固めた。


 天正9年(1581年)、因幡鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)にも従軍し、城を包囲する寄せ手に入った。吉川経家は当初しばしば兵を出して挑発してきていたので、秀吉の命令で加藤清正と正勝で搦め手より強襲したが、これは待ち伏せに遭って撃退された。5ヶ月続いた籠城期間中、正勝は吉岡城、大崎城、鹿野城の降誘を進言してこれを降した。

 吉川元春が伯耆国に侵攻して、南条元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城を攻めて、経家の雪辱を果たそうと馬山に背水の陣を布いた際には、秀吉は正勝と荒木重堅を派遣して羽衣石城への糧道を確保させたが、正勝は死兵と戦う不利を説き、結局、秀吉は軍を退いて決戦を回避し、両城には応戦せずに堅守に徹するように指示した。


 同年11月、秀吉は信長の許可を得て淡路遠征を行った。摂津国尼崎の池田之助が岩屋城を包囲したので、由良城(由良古城)の安宅清康は、秀吉の陣の正勝と伊木忠次(当時は池田恒興家臣)とに投降を申し出て、秀吉および信長に取り次がれて許可されたので、淡路勢は降伏して諸城が開城した。正勝は名代として岩屋城を引き取ったが、この城は池田領となり、羽柴領となった洲本城は仙石秀久に与えられた。


 天正10年(1582年)3月、正勝と黒田孝高は、小早川隆景の水軍の将であった乃美宗勝・元信を調略したが、失敗した。4月より備中高松城の戦い(高松の水殺し)が始まるが、この時も2人が清水宗治の陣中へ使者として訪れて降誘させようとしたが、拒否された。


 しかし長期包囲・水攻めに窮した毛利勢は最終的に清水宗治、月清、難波宗忠、末近信賀の切腹と開城で和睦を図ることになって、6月3日、それ以外の城兵の助命を秀吉に取りなしてもらうための書状が正勝と杉原家次のもとに届いた。秀吉がこれを許して、翌日に4名が切腹した。ところが、この2日前に本能寺の変ですでに信長は非業の死を遂げており、通説では3日夜に秀吉はこの事実を知って情報が漏れぬように正勝に伝令の使者を監禁するように命じ、続いて各方面から来る伝令は陣中に入れずに途中で迎えて追い返させ、機密の保持を厳命したという。

 秀吉は正勝と孝高に安国寺恵瓊と協議させて、毛利氏と誓紙を取り交わして和睦を成立させると、5日には陣を引き払って、中国大返しが始まった。

 

 愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定され、2015年(平成27年)には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録された。


 香川県の仲多度郡まんのう町にある満濃池と全国一二を争う規模であり、農業用の人工ため池としては稀有な大きさである。犬山市やその南に位置する愛知県小牧市、西に位置する丹羽郡の町へ灌漑用水がのびている。


 池の周囲を北は今井山、南西は本宮山・尾張富士・白山の尾張三山が囲み、池畔には博物館明治村がある。また、ボート、ワカサギ釣りも楽しめる観光地でもある。池の周囲には、尾張パークウェイ、県道16号、県道49号などが通る。


 寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の男たちが付家老であった犬山成瀬家を経由して尾張藩に入鹿池の開発届を出し、認可された。当地には丹羽郡入鹿村があったが、住民を移住させ、寛永9年(1632年)から着工し、翌寛永10年(1633年)に完成させた。


 勝家は正勝を袈裟斬りにして葬った。

 土方率いるSATは尾張富士で柴田軍と正面から激突する。

「この不届き者めが!」

 勝家は獅子の如く吠えた。

 土方は、89式5.56mm小銃や特殊閃光弾など、圧倒的な攻撃力で当初は戦を優位に進めるが、谷村伸也と伊藤圭が乗った装甲車の情報を得ていた柴田軍は、それに対処するための戦術を駆使して奮闘する。

「田辺、山口……情報の提供感謝するぞ」

 勝家はSATの2人の隊員に頭を下げた。

 SATが使用している銃器対策警備車は、三菱ふそう・スーパーグレートの除雪車用シャーシ(スーパーグレートFR)を使用した大型防弾装甲車だ。


 二軸六輪(後輪はダブルタイヤ、前輪はワイドタイヤとなっている)の車両で、箱型の垂直面で構成された車体の両側面には銃眼が3個ずつ設置されており、観音開きの後部ドアにも銃眼が2個設置されている。フロント部の出っ張りには、家屋の解体などに使われるグラップルが収納されており、突入に際して使用する可能性が指摘されている。車両上部にも防弾盾を兼ねた開閉式の扉を装備する。


 人海戦術で動きを封じられ、銃器対策警備車は落とし穴にはまって自走不能となるなど、兵器や弾薬の喪失とともに、土方たちは戦闘能力を失っていく。不利に傾きつつある戦況の中、一気に決着を付けるべく、土方は左肩を被弾していた佐久間盛政のみを狙うことを決意。🐎馬を奪い、乗馬しながら弓と矢を得て、雑魚たちの攻撃を躱し、盛政がいる本陣へ単騎斬り込む。盛政と一騎討ちとなり、形勢不利となりながらも拳銃で射殺。盛政の首級を挙げ、斬りかかって来た高山友照も討ち取った。

 

 史実では高山友照は、はじめ、摂津国島下郡高山村(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)の土豪であり三好氏の勢力下にあったが、摂津国滝山城主であった松永久秀が大和国に侵攻し、永禄3年(1560年)に宇陀郡の沢城を落すと、友照はその城主となった。


 永禄6年(1563年)、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが堺を訪問することを知った僧たちは領主の松永久秀に宣教師の追放を依頼した。久秀は宣教師と仏教についての知識のあるもので議論させた上で、なにか不審な点があれば追放しようと考え、清原枝賢に議論の相手をさせ、仏教に造詣の深い友照と結城忠正を討論の審査役とした。キリシタン側はヴィレラに代わってロレンソ了斎が議論を行ったが、議論の中で審査役の両名はキリスト教の教えに感化され、のちに友照はヴィレラを沢城に招いて嫡子の彦五郎(後の高山右近)をはじめとする家族とともに洗礼を受けた。


 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、摂津国芥川山城から三好長逸を追い出し、足利義昭の側近であった和田惟政に与えられると、高山親子はその組下につけられた。その後、和田惟政は高槻城に移り、芥川山城には友照が城代として入った。しかし、和田惟政は池田氏との争いで討死し(白井河原の戦い)、高槻城は若年だった惟政の子・惟長が引き継いだ。惟長に暗殺されそうになった高山親子は元亀4年(1573年)4月に逆に惟長を追放し、高槻城主となった。こうして摂津国北辺の高槻周辺は高山親子の所領となった。友照が宣教師らの布教を保護したこともあり、高槻ではキリシタンが増加した。


 天正6年(1578年)、荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、組下であった高山親子も高槻城に拠って信長に反抗した。これ以前に信長に反旗を翻すか否かの会議上において、友照が娘(右近の妹)と右近の息子を「謀反はするべきではない」という主張を通すために人質として荒木方に差し出したこと、信長が降伏しなければキリシタンを迫害すると通達したことなどにより、信長に降伏すべきとする右近派と、徹底抗戦するべきとする友照派が対立。キリシタンとしての心情と、人質を取られているという板挟みの中、結果として右近が単身城を出て降伏した。荒木村重が逃亡すると、抗戦した友照は捕縛され、処刑されるところであったが、右近らの助命嘆願もあり越前国へ追放された。越前では柴田勝家から客将として扱われ、建前上は幽閉の身であったが、相応の金子を与えられ自由に過ごしていたという。


 信長死後は右近に従って各地を転々としていたようであるが、文禄4年(1595年)に京で熱心なキリシタンとしてその生涯を閉じた。


 この戦いで土方たちは辛くも勝利を収めたものの、銃器対策警備車を失い、隊員も多くが戦死するなど犠牲も大きかった。

 生き残った隊員たちは、タイムマシンで比較的、平和だった平成時代へ帰りたいと強く願うようになる。

 しかし、土方はこの国の主になるという野望を抱いており、勝家を操ることを考えていた。


 丹羽長秀と羽柴秀吉は京都にあるアジトにいた。スーツを着て、令和の人間にうまく溶け込んだ。

「正体不明の土方を認めるわけにはいかない。そのような者と手を組む柴田殿ももはや味方ではない」と秀吉は柴田勝家を討つことを目論む。

 前田利家から土方が大宮浅間神社(尾張富士の山頂にある神社。子供の守護の神とされ、小児の虫封じ、家内安全、開運厄除、商売繁昌、交通安全、安産子授、学業向上のご利益があるという。古くから武士の信仰があり、織田信長や徳川家康、犬山城城主の小笠原氏、成瀬氏の保護があったという。)へたどり着いたことを知った秀吉と長秀は「もはや土方恐れるに足りず」と、土方らの抹殺を前田利家に命令する。

 

 柴田勝家は苦衷の中にも決意を秘めた表情で、土方たちが駐留している大宮浅間神社へ向かう。心強い味方の到着に土方は笑顔を見せるが、斃れた兵から奪ったMP5マシンガンを手にした勝家の雰囲気を察すると、天下取りを宣言して抜刀する。

「儂を操ろうなど言語道断!」

 対峙する2人だったが、刀を構えてにじり寄った土方は、勝家に射殺されてしまう。生き残った隊員たちも、勝家の兵らが放つ矢の雨の中で次々と斃れていった。


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