君の音

石蕗 景

君の音


 ジリリリリ。耳元で、というよりもっと直接的で、頭の中に鳴り響く警鐘。実は、はっと意識が呼び戻されたような気がした。

「実?」

 友人である誠が、急に立ち止まった実を振り返り首を傾げる。見慣れた通学路、部活終わりの汗のにおい、筋肉がもう動かすなと言わんばかりにだるく、重い。全部、いつもと変わらない。

「あぁ、たぶん、なんでもない」

「なんだよ、たぶんって」

 変なこと言うやつだな、とでも言いたげな苦笑い。

「空耳だよ。ジリリって鳴った気がしただけ」

 伝えるのを躊躇うようなことでもない。実は今しがた自分が感じたことを伝えた。鉛でもぶら下げたように重い足を動かして誠のもとへ駆け寄る。誠は聞きながら、実が横に並んだことを確認して歩き始める。

「あるよな、そんなこと。ほら、踏切の音とか」

「携帯の音とかな」

 そんな音、鳴っているはずもないのに、耳について離れない。よくあることだと思ったし、深く気に留めることもなかった。



 実がそれを不審に思ったのは、一週間が過ぎた頃。昼休み、購買で買ったメロンパンを貪る誠に言った。

「最近、俺、変なんだよ」

「だろうな。お前ここ一週間、なんもないのにひとりで驚いてる。ぼーっとしすぎ」

「違うんだって、そうじゃねーよ」

 メロンパンが、誠の噛み跡からぽそぽそとこぼれ落ちる。実はそれを横目に、パックの牛乳を音を立てながら吸った。勢いよく吸ったせいで、思っていたよりも口に入ってしまった牛乳。飲み込むと、喉が飴玉を丸呑みしたように痛い。

「ずっとジリリ、ジリリ、鳴ってるような気がするんだって」

「空耳だろ?」

 彼は笑ってから、四分の一くらいになったメロンパンを押し込むように食べた。今度は口の端からカスがぽろぽろと落ちる。机の上に落ちたそれを手の甲で床に払い落とし、実は言う。

「やばいくらい鳴ってるんだって。なんかの警報レベルで。なんか危機が迫ってるみたいな」

 出した声が、意識していたよりもずっと深刻に響いてしまった。それに対し、内容といえば言葉にしてみると、随分と馬鹿馬鹿しい。しかし、笑えないくらいに実は悩んでいた。自分だけでは堪え切れなくなり、とうとう友人である誠に打ち明けたのだ。だというのに、相談を受けた誠は口いっぱいのメロンパンをコーヒー牛乳で流し込んでいる。それから、芝居掛かった仕草で目元を覆う。大袈裟に首を振った。

「あー、実、それはないよ。来年からの受験が嫌だからって、中二病を患ったのか」

 手を下ろし、人生を説くように生真面目な表情をつくり、言う。

「昔からの縁で、ノッてやらなくもない。だけど、人前は勘弁だ。俺は恥じらいを捨てられねー」

 で、どういう設定? と、子供の遊びに付き合うような穏やかな表情で首を傾げた。それを見た実の目は一気に冷えていく。こいつに相談した俺が馬鹿だった。その目が声にしなくても言葉を語る。口を開くことが一気に面倒くさくなり、サンドイッチの封を切った。

「あー、悪かったって。そんな怒んなよ」

「うるせー」

「信じてないわけじゃないって。中二病ってだけで、昨日あんなボール顔面で受け止められるわけないし」

 実は思い出す。バスケ部の練習が終わり、人がすっかり帰った後。個人練習と称した遊びを、実と誠はしていた。動画サイトで投稿されている華麗なシュートを、見よう見まねでやってみる。アニメで見たような動きが、どこまで可能なのか試す。部活にそれほど力を入れていない高校だからこそできる遊び。バスケ部に至っては、部員のうち何人がルールをちゃんとわかっているかもわからない。だけど、その時間は間違いなく楽しかった。

 楽しい時間を切り裂くように聞こえた警鐘。ジリリリ。意識をそっちに持っていかれた実は、誠からパスされたボールをすっかり忘れていた。額と鼻筋に直撃した硬いバスケットボールは、激しく跳ね返りながら、実を床に沈めた。思い出して、ばつが悪いと言わんばかりに顔を顰める。片や楽しかったと笑い声をあげる。

「お前がそんなに気になるなら調べてみようぜ」

 笑ったことにより目尻に浮かんだ涙を拭い、言った。

「調べるって何を」

「ジリリって鳴ってるんだろ? その音が実際なんの音か、空耳ってなんで起こるのか」

 あんなに馬鹿にしていたにもかかわらず、実が思っていたよりも的を射た提案だった。いいのか。そう問うように彼を見遣ると、さっきとは違う、落ち着きを伴った爽やかな笑顔を浮かべて言う。

「受験前のとんでも自由研究といこうや」


 放課後、彼らはファストフード店にやって来ていた。フライドポテトを四つと、ナゲットを四つ頼み、ドリンクカップの跡が残るテーブルに置く。

「で。何の音なんだよ」

 ポテトを二、三本まとめて口に放り込みながら誠は言う。

「だから、なんか危機が迫ってるみたいな」

「非常ベルみたいな?」

 ナゲットソースの蓋を開け、ポテトをそこに浸しながら実は頷いた。非常ベルのよう。確かにそんな感じの音だった。

「でも、非常ベルより軽い感じ」

「あれじゃね? ほら、昔の電話」

 誠が言った昔の電話、黒電話を思い出す。それに近い音かもしれない。実際に聞いたことはないけれど、ドラマやアニメで見る黒電話の音のイメージには近い。

「それっぽい」

「お、結構早く当たりがきたな」

「たぶんだけどな」

 言いながら、今度はナゲットをソースに押し込んだ。カップのギリギリに浮き上がるソースを横目に、スマートフォンを操作する。検索サイトに「空耳の原因」と入力すると、結果がずらりと並ぶ。

「ストレス、脳の病気、幻聴、耳鳴り……別にどれもしっくりこないけどな」

「わかんねーよ? ストレスって意識してないところで溜まってたりするらしいし」

 実は言われてから考えてみる。両親は特別仲が良いわけでも、悪いわけでもない。それでも、互いが互いに必要としていることは伝わるし、なんだかんだ幸せそうだ。歳が七歳も離れているお陰で、激しい喧嘩をするようなこともない兄弟がひとり。友人関係も悪くない。誠という気が置けない付き合いの彼は高校も同じで、なんだかんだと言いながらも居心地がいい。息がつまるようなクラスでもないし、誰かが誰かを嘲るような風潮はない。友人も何人かいるし、彼女はいないけど、女友達は数人いる。今時、珍しいんじゃないかと思えるほど、平凡な日常を過ごしている。

「やっぱりないわ」

「んー、なんだろうな。まあ、今日のところはここまでにして、のんびり考えようぜ」

 誠は軽く両手を広げ、肩を軽く持ち上げて降ろす。さっぱりわからない、と言いたげな仕草と表情。

 ふたりの間に山ほどあったポテトとナゲットはすっかり空っぽになっていた。実はほとんど手をつけることができなかったが、それをわざわざ怒るほど腹は減っていなかった。


 あれからさらに一週間が経過していた。朝、学校に着いた実は、鞄を机に放り投げるように置き、大きなため息をついた。

「朝からデケーため息」

「いや、そろそろマジでやばい。最近音がでかくなってんだよ」

 放課後、体育館で遊ぶことなく彼らは調べ続けた。耳鳴りが起きる原因、幻聴がどんな状況で聴こえ、原因はなんなのか。脳の病気についてもいくつか。しかし、そのどれもが実にとってはしっくりこない。

 徐々に警鐘らしき音は大きく響くようになっている。寝ている間もその音に驚き、睡眠が思うようにとれなくなっていた。

「最近体も重いんだよ。運動してるわけでもないのに節々が痛い」

「逆に、じゃねーの。運動してないから骨とか筋肉がなんか固まってるとか」

 右手を肩に添え、首をぐるりと回す。決して楽になった気はしないが、そうでもしないと体がどうにかなりそうだった。

 ジリリリリ。頭に直接響く警鐘。もう以前のように過剰に驚くことはなくなっていた。

「お前、隈がひどいけど。ちゃんと寝れてんのか?」

「微妙。結構寝てるはずだけど、目覚ましよりいつも早く起きちまってよ」

 目の下を人さし指と中指で撫でる。下まぶたも上まぶたも最近は重い。下まぶたを頬の方に引き伸ばすと、また、ジリリリリと鳴り響く。その音を聞いた実は、たった今飛び起きたようなクリアな脳内にひとつの答えが浮かぶ。

「目覚まし時計だ」

「は?」

 ほとんど唇が動かない、話したというより漏れたというほどの小さな声。誠は聞き返すべく彼の顔を見る。その顔には、焦りのような喪失のような、それでいてどこか煌めいた表情が浮かんでいた。

「この音、目覚まし時計だよ」

「実、最近はスマホでアラーム設定してるんだろ?」

「そうだけど、中学までは目覚まし時計で起きてたんだよ。その音にそっくりなんだ」

 ジリリリリリリリ。音の正体を知ってしまうと、どんどん鳴り止まなくなる。頭を掻き毟るように鷲掴み俯いた。

「これまでか」

「え?」

 目覚まし時計のベルが鳴り止む。誠の声が、頭の中に直接響く。顔を上げて、彼の表情が歪んでいることに気づいた。初めて見る表情。泣き出しそうなのに、優しい微笑み。叫び出しそうなほど唇を噛み締めているのに、諦めたような、懐かしいものを見るような不安定な目尻。

「悪かったな。引き止めて」

「なんの話だよ」

 ジリリリリリリリ。煩わしい音。鳴り止んだと思ったらまた鳴り始める。徐々に音は大きく、長くなる。彼に相談した時、実は言っていた。「やばいくらい鳴ってるんだって。なんかの警報レベルで。なんか危機が迫ってるみたいな」。自分の体が、自分の物じゃないような苦しさを感じる。

「本当は、すぐに言おうと思ったんだけどな」

「だからなんの話だよ!」

 ジリリリリ。ジリリリリ。誠の声も、幻聴も、全てが嫌になった。お願いだから静かにしてくれ。怒鳴ったはずの声は、幻聴に掻き消されたような気がした。なんの焦りかわからない。だけど、実は本能的に感じ取っていた。もう、限界なんだ。

「久しぶりに、随分楽しかったよ。冥土の土産……っていうのかな、これ」

 ちかちかと視界に黒が混じり始める。変なこと言ってんなよ。お前の方が中二病してんじゃねーか。色々口にしたはずだった。どれも、音にはならなかった。

「ちょっと違う気もするけど、まぁいいや。なぁ、実」

 実の目にはもう、ほとんど景色が見えていなかった。視界の半分以上が黒く染まっている。映すものが少ない目が、それでも違和感を映す。

 クラスに、誰もいない。ここ数日、ずっと誠以外の姿を見ていない。今まで気づかなかったのが不思議だった。

「精々長生きしてくれよ」

 彼の震える声が、実の鼓膜を揺らした。雪が溶けるようにじんわりと、頭の中に広がって、消えた。


 真っ暗な世界。この暗闇から抜け出すにはどうしたらいいのか、一瞬悩んだ。ジリリリリリリ。さっきより、ずっとうるさい音は、鳴り止むこともない。そして、自分の瞼が閉ざされていることを他人事のように思い出す。

 体が痛く、重い。瞼を動かすにはどうしたらいいのか、力を入れてみて、抜いてみる。

「実!」

「しっかりしろ、実!」

 目覚まし時計の音に混じって、聴き慣れた声が叫ぶ。毎日聴いていたはずの声が、実には懐かしい気がした。

 全身の力を抜いて、ようやく瞼が持ち上がる。暗闇に包まれていたのが嘘のように、白く、眩しい世界が滲む。ぽたり、ぽたりと頬が濡れる。寝起きのように霞んだ目に、見覚えのある人影。

「か、さん……とう、さん」

「実、目が覚めたのねっ」

 喉がひりひりと痛む。はっきり口を開いたはずなのに、思っていたより動かなかったらしい。自分のものとは思えない声が、空気を震わせる。蚊の鳴くような声だったのに、それをちゃんと聴き取っていたらしい。不器用に震えるそれぞれの手が、俺の頬や腕に触れる。いまだにぼんやりとしか見えないが、それでも彼らが涙を流していことがわかった。

「すぐに医者を呼んでくる」

 父がぐずぐずの水に溢れた声で言った。首を動かすのもつらく、視線だけで去っていく父を見送る。少しずつあたりがはっきりと見えてきて、ここが病院だと気づく。

「まこと、は?」

 ついさっきまで一緒にいた友人について、なぜか母に訊いた。ジリリリと鳴っていたはずの目覚まし時計は、蝉が七日の命を終える前のような、途切れ途切れの音をしていた。もう、うるさいとも思えない、消えそうな音。母は、息を詰めた。苦しそうに、だけど何かを悟ったような柔らかい微笑み。それは、目が覚める前に見た誠のあの表情にそっくりだった。表情を変えないまま、その手がキャビネットの上にある目覚まし時計を撫でる。ベルの部分が錆び、間の小槌がまだかすかに揺れている。

「誠に、会ってたのね」

 まるで、その時計の向こうに何か映像が流れているようだった。

 昔、七歳も歳が離れた兄が、お小遣いを貯めてプレゼントしてくれた目覚まし時計。ぼんやり見つめていると、母がその手で俺の頭を撫でる。

「半年も眠っていたのよ」

「にい、さん」

 水がコップに満ちていくように、溢れてくる記憶。冷たい雫が、目尻流れ、頬を伝い、やがて首筋から落ちていった。

 中学生の頃、壊れてしまった目覚まし時計。鳴るはずのないそれが、さっきまでこの部屋で鳴り響いていた。

 ジリリリリ。止まらない涙を、母の手が優しく拭う。

 ジリリリリ。役目を終えたあの音は、この日を最期に鳴ることはなかった。

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