第7話


 講義を終えた後、俺は再び匝瑳教授に呼び出されてしまった。翠白には先に門の前で待ってもらうことにした。今度指摘されたのは、課題の内容のことではなく、彼女の事についてだった。翠白慈という女が関わっていた男が、氷峰駈瑠と繋がっていた事実が教授の耳にも伝わっていた。彼女の過去の経歴から男と会おうとしていた事を追求され、俺自身も何かの事件に巻き込まれるのではないかと懸念していたそうだ。俺は彼女の事にまでとやかく言われる筋合いはないと思っていた。余計な事を言わないでもらいたいと、匝瑳教授を睨み返した。


「貴方が仰っていた事でしょう。どんな人間にもどんな境遇に生まれた人間にも……――」

「その話はあの男にもした。だが何もわかっちゃいない……」

 陵は最後の一言を言われる手前、匝瑳教授がその教えを氷峰駈瑠にもした事を告げた。

「彼女を悪く言うのはやめて頂きたいですね…。彼女は氷峰駈瑠とは繋がっていませんよ……」

「そうならいいが……」


 ――築き上げたものを破壊する事が理想だなんて事を……。人権の尊重は最初から存在するものだ。その思いを口にすることはなかった。今目の前にいる陵には言わなくとも気づいている事だろう。


 匝瑳教授は、氷峰駈瑠が築き上げるものに反感を抱いていた。陵莞爾もその一人である事に悔いを感じていた。教授は彼に言い残してある事はないのか問い詰めると、彼は一言言い忘れた事があったと話した。陵は昨晩、自宅の一室で行っていた実験が成功したことを匝瑳教授に話した。

 そして、レポートにしない代わりに、氷峰駈瑠にこの事実を話しても構わないかと言った。


「大学の功績にしない代わりに、です」

「…………」

 教授は深い溜息を吐いた。彼らしいとつくづく思った。

「既に貴方は一度、氷峰駈瑠に会っていたそうじゃないですか。あの記事を俺に見せる前に」

「……私が彼に会うのは、彼が私に会いたがってるからだ。必要が無ければあいつにはもう会わん」

 氷峰駈瑠の事を〝あいつ〟と呼んだ事に、陵はふと疑念を抱いたが、その場では追求しなかった。寧ろ教授の方が、氷峰駈瑠と繋がっていた可能性があると思ったが、今はまだそんな事を考えてる場合じゃないと感じた。陵は翠白について深追いするのはよしておこうと思いつつ、氷峰駈瑠と組織を立ち上げる事に、彼女を巻き込んではまずいと考えた。


 そして――。

「俺は唯、理想を追いかけるのみです。彼女の事は心配しないでください」

「……話はもう終わりだ。帰って良い……」


 そして彼女を不幸にしない事が、今の俺にできることだと考えた。

 匝瑳教授の元を離れ、講義室から外へ出ると彼女は門の前に立っていた。

 彼女は俺に気付いて、振り返って手を振っていた。その背後に少し背丈のある派手なシャツを着た男が立ち止まっていた。何やら、警備員に足止めを食らっていた。俺は翠白に駆け寄って、男の姿を間近で見る。男はサングラスをかけていて、明らかに不審者扱いされていた。


「いや、だから知り合いと会う約束をしてるんですって」

「その身なりで誰に会おうっていうんですか。本当に何者なんですか! ちょっと今関係者の方を呼び、ま、す、か、ら!」

「関係者も何も俺もその人の関係者で、す、か、ら!」

 意地でも通ろうとするが、警備員も対抗して男を羽交い締めにし、身動きが取れないようにしていた。


 翠白は再び振り返って、後ろで何かもめている光景を目の当たりにする。

「貴方は……」

 彼女は警備員と言い合いをしている男の姿を見てある事に気づいた。髪型を見てすぐ、あの時に出会った黒いコートの男だったと。思わず声を漏らして男に近づき声を掛けた。男は話し掛けられた事に気付き、視線を彼女に移す。

「ん? ……君は。ここの学生さんだったのか」

 あの時と同じ、大らかで優しい声だった。

「貴方がもしかして……、氷峰か――」

 彼女が男の名前を伺おうとした時、俺は咄嗟に手を前に差し出し彼女を制した。

「匝瑳教授に会いに来たんでしょうか? 彼なら第二講義室に居ます」

「そうか……ありがとう」


 俺すら彼と対面するのは、この場が初めてであった。彼の態度には、少々凄みが漂っていた。陰で人を殺めているのだから、只者ではないことは確かだ。俺もまた彼の名を口にはしなかった。


「君、この人の知り合い?」

「俺は初めて会ったんですけど?」

 警備員が呑気にそんなことを聞いてくるものだから、俺は『彼は匝瑳教授の知人だ』と一言話した。


 呆れた様子で、翠白の手を引いてその場を去った。彼女は辿々しく繋がれた手に必死に追いついていこうとした。


「ねぇ、どうしてさっき止めたの? あの男が絶対――!」


 絶対、男を殺した。あの男に何故殺したのか聞き出そうとしたに違いない。

 翠白は少々機嫌が悪そうな彼に言い寄った。彼は足を止め、繋いでいた手を放した。


「あの人が氷峰駈瑠だってことは俺も気づいていたよ。あの場でそんな事聞いてごらん。警備員の人だってパニックを起こすに決まってる。俺の知る限りじゃ、あの人が単なる人殺しじゃないって事は、わかっている…。わかった上で俺はあの男に協力しているんだ……」


「目的は……昨日の事?」

「……とにかく帰ってから、話すから……」


 陵は再び彼女を自宅に招いた。足早に二人は帰宅の途に就く。


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