第8話
玄関で靴を脱いで上がろうとする。その時、彼女は携帯電話を開いた。不審な着信があったと、今度は目の前にいる陵に正直に話した。靴を脱いで先に廊下を歩いていた彼は振り返り、荷物を部屋に置いて翠白の元まで引き返す。
「……スマホ貸して」
陵は手を伸ばし、翠白の握っている携帯電話を取り上げようと彼女に迫った。
「え、ちょ、ちょっと待って……。何すんの!?」
翠白は電話帳を開いていた部分を慌てて消そうとしたが、手遅れだった。陵は、自分の持っている書類の資料と照らし合わせ、彼女の携帯電話の着信履歴の番号を確認すると、電話帳から特定の人物のデータを消した。
「やっぱり……」
陵は彼女の携帯電話の操作をしながら、そう呟いた。翠白は黙って彼の隣で、彼が自分の携帯電話を弄る姿を眺めていた。彼が自分の過去に会った男の記録を、真剣になって一つ一つ消していく様を見て彼女は思わずこう言った。
「詳しいことは聞かないのね……」
「噂話ならもうとっくに耳にしてるけど? 君が傷つくと思って、敢えて聞かないでいるのさ」
「……そう」
翠白は、壁に凭れて頭を抱えた。何かを言おうとしたが諦めかけた様子だった。陵は彼女の携帯電話を本人に返そうと振り返る。そして彼女の様子を窺い見る。序でに彼は辺りを見回して思った。こんな自分の実験器具のあるような部屋じゃ、彼女の心は閉ざされたままに決まっていると思った。明らかに先ほどの行動で、彼女を追い詰めてしまった。
「いや、これには訳があって……――」
彼の言葉に耳を傾ける前に、翠白は咄嗟に彼の手から携帯電話を取り上げた。
「あたしの為にしてくれた事だって、わかってる。けど……」
不安気に握りしめた携帯電話を、しゃがみ込んで鞄に入れる。入れながら、改めて彼の話したかった事を頭の中で整理する。何故陵は門の前で、氷峰駈瑠本人に直接出会ったのに、あの場で彼の名を口にしなかったのだろうか。『パニックを起こすに決まっている』と問い詰められても、理由はまだ聞いていない。あの男がどんな人であったか、聞いてもすぐには返事をしてくれないだろうと思った。
悩ましげな表情を浮かべて、彼を見上げた。すると、彼は翠白と目が合った。目が合ってしまったので、頭を掻いてこう言った。
「場所変えて、話そうか……」
その一言に、翠白はさっきまでの態度とは違う、彼のもう一つの一面があることに気づく。彼の表情は急に和らいでいた。彼女に黙って書類のリストの名を携帯電話から削除し始めたことについて、淡々と謝った。何で急に態度を変えて謝り出したのか、訳がわからなかった。データを消されたことなど、もう潔く許すしかないと思った。
陵は鞄を小さい物に変えると、翠白と共に家を出た。
夜が深くなってから、彼女と外出することは今回が初めてのことではないけれども、相手が変わってまた話すことが違えば、場所もいつもと違う所が良いだろうと考えた。一駅、二駅分、降り立った先に広がるのは、夜の繁華街だった。
「行き慣れてる感じが、するんだけど?」
そう言って彼女は陵の腕に手を回す。
「そりゃ、君以外にもこんな光景を……。あ、あの店にするか……」
二人はネオンサインの看板があるバーの奥へ入った。
そんな二人の姿を遠目に見ている者がいた。男も跡を追うようにビルの階段を上って行った。二人はカウンター席に座った。陵は彼女の機嫌を直そうと、何から話そうかと考える。
「そういや、どうして俺と付き合い始めたんだっけ?」
「え? それは……」
彼が改まって話しかけてくるものだから、ここは気を使わずに返事をするべきだと思った。順序立てて話したかった。彼に出会うきっかけなんてものはあったのだろうか。耳が隠れる程の横髪を掻き分けながら、彼女はこう言った。
「莞爾君のことが前から気になってたから。隣に座れなかったら諦めてたけど?」
「ふーん……。諦めるって何を?」
色鮮やかなカクテルが手元に来た。早速、翠白は勢い良くそれに手を伸ばして飲んだ。そんな様子を見た陵は呆然し、今この場所で彼女の過去を晒すなんてことは、しない方が良いだろうと考えた。 それなのに、辛そうな顔を見せない彼女は、艶やかな瞳で陵を見つめていた。彼の本当の姿が知りたい様子だった。
「あたしのこと何でも知ってるくせに。あたしは莞爾君の悪い話、たくさん知ってる」
「悪い話かぁ……。今聞かされてもなぁ……」
そう嘆くと、手前のカクテルを一口飲む。続けて彼は、やはり翠白の過去を清算させたかったようで、本音を漏らしてしまった。
「……慈は、どんな相手とでも許してしまうのかな……?」
「そうね……。あたしはそういう最低な女だったから……」
知られたくない過去の一つや二つ、既に彼は知っているのかもしれないと思いながら溜め息を吐く。
「今でもそう思ってるのかい?」
「……さぁ。そういう莞爾君の方こそ――!」
手にかけたグラスを倒してしまった。と思ったら、陵は翠白の体を引き寄せ、口づけを交わした。彼の唐突な行為に、目を潤めながら彼女は赤らんだ両頬に手を添えて、そっぽを向いた。
「俺の方こそ……何? 俺はもうお前以外の女とは付き合わないって決めた」
「……」
――嘘だ……絶対嘘に決まってる!
気を許したのは間違いなく自分の方だった。隙を見せたのも間違いなく自分の方だった。翠白は未だに彼の方とは反対方向を向いていた。こういうのを不意打ちというのかもしれないと。ただ、まだ話は終わりじゃなかった。
「組織を立ち上げた後も、君を追う者をあの男は排除していく……」
「……氷峰駈瑠はあたしを助けてくれたってことなの?」
「遠回しに言えばそういうことになるけど……」
陵はそう言いながら周囲の何かの視線に気づき、席から立ち上がる。隣にいた翠白が「どうしたの?」と一声掛ける間もなく、彼は彼女の手を引いて、カウンターの上にお金を置くとバーを出て行った。
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