さいこ(う)

季弘樹梢

開幕、終幕

「明日は大洪水だろうか」

 小さなはめ殺し窓は一枚のキャンバスのようで、いろいろな絵画を僕に見せてくれる。今日はブルッヘ、昨日はオーシャンドック、なので明日は大洪水になるだろう。この話をすると僕は狂人のように扱われる。けれど事実なのだから仕方がない。どういうわけか知らないが、このキャンバスは毎日僕の望んだ絵画を見せてくれるのだった。

 理解できないことを理解しようとすることほど無駄なことはない。もともとこの窓の向こうには壁しか映っていなかった。それがこうして一枚の絵画──それもなかなかに「モダン的」で、日替わりだし、なおかつ特等席で見ることができるのだから、僕としては文句はなかった。雨か雪さえ降らなければ大体朝の五時頃には入れ替わっている。過去作も注文すれば見せてくれる。お気に入りはピエタを特殊な遠近法と独特なアングルから描いたものだ。作者──そういうものが存在するのであれば──はかなり器用な人物と見える。

 僕の住んでいるアパートは二階建てで、それぞれ二部屋ずつの計四部屋しかない。が、二階の一室は旅人のためのレンタルスペースとなっているため、実質三部屋とも言えた。僕は一階を借りている。付き合いがないためどの部屋に誰が住んでいるのかは知らないが、ここしばらくは、レンタルスペースを除いた全室が埋まっているようだった。このご時世、旅人などそうそういるものではなかった。

 この奇妙な現象が起こるようになったのは三ヶ月前のことである。目覚めると無機質な壁ばかりを映す窓がパリを思わせる美麗な都を映しており、僕は警戒もなく近づくと批評を始めた。美術鑑賞は数少ない僕の趣味で、独り言が癖だった。その翌日、零れた言葉が拾われたのか、目が覚めるとキュビスムを思わせる抽象的な花畑に差し替えられていた。僕は驚いたが、それ以上にツボを抑えた画風に惹かれ受け入れてしまった。そうしてこの小さな展覧会は始まったのであった。

 ダ・ヴィンチではない、ミケランジェロのような理性的な無秩序こそ真の芸術である。そういう考えを持っている僕にとって、この窓が映す絵画はどれも興味深かった。理詰めではなしえない無秩序を見事に、そして忠実に実現している。シュルレアリスムに傾倒しすぎることなく、あからさまなほどに理性的な無秩序を丁寧に作り上げている。近代的でありつつ古典的。美術史の中で培われた技術や思想をバランスよく吸収し、ほどよく崩し、形にしている。器用である。僕は何度もそう思った。

 さて、翌日は雨で、はめ殺しの窓は無機質な壁だけを映していた。僕は落ち込んだ。楽しみにしているだけに唐突に訪れる休館日は辛い。一日の気分はこの絵画の出来栄えに左右されるといっても過言ではない。そもそもの絵画が存在しなければ、その日の気分は空気中に霧散する白い吐息ほどの質量も持たない。

 大学は休みだったが、家にいる意味もなかったため美術館へと向かった。

「おや」その足が途中で止まったのは他でもない、「ヘンリーじゃないか」

「……ああ、奇遇じゃないか。この道を通るということはまた美術館か、それとも大学の図書館か」

「まあ、そんなところだ」

「その割に浮かない顔だが」

「雨が降っているんだし、そういうこともあろうさ」

「例の窓のキャンパスか」

 ヘンリーはあからさまに口角を釣り上げてみせた。

「そういうわけじゃあないんだが……」

「君がオカルトに傾倒するのは意外だったが、まあ、心霊現象なら専門家にでも相談することだな。賢いやつほど論理から飛躍したい欲求を持つというのもよく聞く」

「君が信じなくとも、ありゃ事実だ。オカルトでも心霊でもない」

「なんでもいいさ。真に大事なのは、君の経験しているそれが常識的ではないという事実だけだ。変人はみな自分は正常だと思っているもんだしね。証明さえできなければ」

 その言葉に僕はカッとなった。

「できるさ。証明しようじゃないか」

「ほう、どうするんだ?」

「実際にうちに来て窓を見てみればいい」

「今からか?」

「今日はまずい」

「準備でもしようってのか? おいおい、自作自演で人をおちょくろうなんて考えてるんじゃないだろうな」

「違う、雨が降ると絵画は出ないんだ」

「随分と都合がいいこった」

 ヘンリーは鼻で笑った。

「まあいいさ。それなら今日から行って、君のことを見張っておくとしよう。明日、晴れれば出てくるんだな?」

「そのはずだ」

「わかった。予報じゃ晴れのはずだろ」

 そういうことで、夜、ヘンリーと落ち合ってから僕はアパートへと帰った。部屋に入るなり、ヘンリーはコートを脱ぎつつ件の窓をまじまじと観察した。

「壁しか見えないな」

「だろ」

「外から見ても?」

「体も入らないような狭い隙間があるだけだぞ」

 ヘンリーは外へ出ると、開けていった扉が閉まりきるよりも早くそそくさと戻ってきた。

「外は冷えるな」

「何もなかったろ」

「ああ。ありゃ、猫でもなきゃ入り込めんな。で、いつ魔法の絵画を見せてもらえるんだ」

「今日は寝て、だいたい五時過ぎくらいに起きるんだ。そうすれば変わっている」

「夜通し起きていたらどうなる?」

「最初の頃、一度だけ試したことがあるが、変わらなかったんだ。あれ以来やったことはないが……」

「じゃあ大人しく寝たほうがいいのか。しょうがない」

 そういうと、ヘンリーは持ってきた鞄をラグの上に放り投げ、枕の代わりにして横になった。僕もいつものように壁際のソファの上で寝ることにした。この壁の内側には上階の排水管が通っているらしく、ときおり振動と音がして安眠を妨害するのだが、この日は何事もなかった。足音もなかったためおそらく上の住人は留守にでもしていたのだろう。

 翌朝、僕は暗いうちからヘンリーに叩き起こされた。

「おい、これは君がやったんじゃないだろうな」

「なんのことだ……」

「これだ、この窓の絵画だ」

 僕は寝ぼけ眼を擦りながら、はめ殺し窓を見た。──枠に沿うように中心へと向かう日本画のような大波に、ど真ん中に浮かぶ豪快なパースの方舟。僕が注文した例の「大洪水」である。器用である。僕は笑顔になりつつ、やはりそう思った。

「いい絵じゃないか」

「いつ描いたんだ?」

「僕がこんなの、描けるわけないだろ。技術だけじゃない、君だって隣で寝ていたわけだし」

「最初から準備していたんだ、隠していたんだ!」

「隠し場所なんかあるわけない。この狭さを見てみろよ? それからあの隙間の狭さもな。気が済むまで家探しするといい、それで今晩も泊まっていくんだ。なんなら僕の昼間の行動も見張ってもらって構わない」

「……わかった、そりゃ妙案だな」

 ヘンリーは釈然としない顔で僕の意見を飲んだ。当然、翌朝も僕は叩き起こされた。

「おい。こいつはどうなっているんだ。俺は狂ってしまったのか」

「だとすると僕はとっくの昔に狂っていることになる」

「ああ……悪かったよ、疑ったりして。こりゃ、奇っ怪だ」

「傑作でもある」

「ああ……」

 僕とヘンリーはしばらく、新しく出てきた「一七八九」と題されているであろうカリカチュア的絵画を前に実りのある議論を交わしあい、それから大学へと向かった。

 その日の帰還はヘンリーとともになった。僕は彼と並んで部屋へと入った。

「この謎を取り除かないことにはな」

「僕は、そんなこと望んじゃいないが」

「そうはいうが、この作者──芸術家はとんでもない化け物だぞ。俺はまだ二作しか見てないが、それでも君が器用だと評したすべての意味を理解しているつもりだ。昨晩、俺がこの部屋の中空に向かってフランス革命と言ってから、これが出現するまでにどれだけの時間があった? たかだか数時間だ。注文から数時間程度の時間しかなかったはずだぜ。それでここまでの芸術が出てくるとはな」

「人間業じゃないな」

「ああ、だが、現実的に考えろ、これは霊の仕業なんかじゃない。どこかにとんでもない化け物がいて──それも現実の化け物だ──そいつがこの部屋を見張っていて、どうにかしてこの窓枠にはめ込んでいるんだ」

「その意見はもっともだが──」

「そうだな、理由も分からなければ手段も分からない、だろ? だが、よく見てみろよ。この絵画と窓の間に、微かだが隙間がある。──誰かが、どうにかしてこの隙間にはめ込んでいるんだよ。どっかにいるぜ、この化け物」

「……見つけてどうするんだ」

「どうとでもできるさ。世間に知らしめるためにマーケティングの真似事をしてもいいし、先行投資ってことで小さな個展を開いてもやっていい。プレハブを借りてな。兎にも角にも、こいつの絵は、金が集まる。俺らでプロデュースするんだよ」

「おいヘンリー、正気か」

「俺が何か変なことを言っているか? こいつは名声を高め、なんの憂いもなく絵を描けることだろうさ。そして俺らも金をせしめることができる。ウィンウィンだろ?」

「この絵画を、誰かの目に晒すのか」

「不満か?」

 僕の中に黒く渦巻く何かがあったのは確かだった。しかしそれが利己的な独占欲であることくらい分かっていたし、それに、正体が誰かは分からないが、こんな技術の持ち主をここで足止めしておくのは美術界においても惜しい。

 そりゃそうだ、頭では分かっていたことじゃないか。これは心霊現象でもなんでもない、誰か人の手による仕業なのだ。

 僕は歯噛みした。

「なあ、冷静になれよ。君だって金があればもっと色んな国を回れるぜ。ゴシックの大聖堂だろうがアルタミラの洞窟だろうが、いつでも見放題だ」

「いや、後者の洞窟群はまだ開放されてないよ」

「そうなのか? まあいい、どのみち先立つものは必要だろ? お前の趣味は金がかかる」

「分かったよ、捜そう」

「そう言うと思った、君は頭がいいからな」

「だが、どうするんだ。おそらくこの話も筒抜けだぞ」

「それなら簡単だろ」

 ヘンリーは大きく息を吸うと、中空に向かって言い放った。

「なあ、あんたの技術を俺らで買いたい。あんたが人前に出たくないってんならそれでもいい、人の目に晒されるのはあんたの絵画だけだと約束しよう。だがあんたにも顕示欲ってのがあるはずだぜ。人に認められたいっていう欲求がな。俺らのようなしょぼい学生に認められてなんになる? もっと多くの人の目に止まって、あんたはつまらない自己満足のサイクルから抜け出すんだ。このまま終わるつもりじゃあないんだろ?」

 ヘンリーの声に応えるものは何もなかった。ただ、恐ろしいくらいの静寂が漂っていた。ヘンリーは少し尻込みしたように、声の勢いを少し殺して続けた。

「もしあんたにその気があるのなら、明日、あんたの描きたいもの描いていつもの場所にハメておいてくれ。交渉が成立したら、話を進めよう」

「これで、上手くいくのか」

「さあな。だがこれ以外に方法があるかよ」

 その翌日から、はめ殺し窓は壁だけを映すようになった。ヘンリーは僕の家に泊まり込み粘っていたが、しばらくすると帰っていった。

 ──後に、二階のレンタルスペースに人がいたことを知らされた。大家も把握していない旅人だった。私物を持ち込み、アトリエと化していたらしいが、一年以上の賃料に相当する金だけが残され、肝心の人物はどこにもいなかったという。ふと窓と壁の隙間を覗いてみると、好きだったピエタの絵画だけが残されていた。

 僕はぽっかり空いた心を引っさげて、つまらないものが飾られている美術館へと向かう。頭上では、ロンドン郊外の冬の薄い空が青々と広がっていた。

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さいこ(う) 季弘樹梢 @jusho_sue

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