第5話

 放課後の音楽室は何時もと同じ空気感でそこにあった。ポツンと背中を向けて座っている彼ーコトバケの存在だけが私にとっては異質だ。

「あ、来たね」

 私より先に教室に来ていた彼は、気配に気づいてにこやかに振り向く。私は胡乱な眼差しでそれを迎えた。

「警戒されてるねー、僕」

「ふつう、するでしょ」

「そうだね、正しい反応だ」

 うんうん、と満足そうに彼は頷く。

「それで、私は何をすればいいんですか?コトバケ……えと、さん?」

「コトバケでいいよ。さんとかくんはいらない」

「はぁ……」

 問題は敬称だけではない。呼称、名前すら知らないのだ。それでも、彼が、どこのクラスの何者なのかを知ったところで、現状は解決されない。むしろ、何者なのかを分かってしまったほうが、怯えてしまうであろうことは分かっていた。だから、私は、コトバケというあやふやな存在定義で、話をすることを決めていた。

「話を、ということでしたが、具体的に何を?」

「難しいこと考えてるね。そんなに深く考えないでよ。別に何時も通り過ごしてくれていいよ。絵を描くのでも、ノートに書くのでもお好きに。その間に僕は勝手に話をするから」

「勝手に……って、そんなことを言われても……」

 勝手になどできるわけはない。いつもしていた行動は、あれは私一人だからできたこと。他人がいるなかで行うことは何一つ見当たらない。絵を描くことですら、私は一人の行動として定義していた。

 私の困惑が伝わったコトバケはそんなに気にしないでほしいんだけどなとぼやきながら肩をすくめた。

「よくしゃべる空気くらいに思ってくれたらいいんだよ、僕のことは。ほら、キャンバスを広げなよ。それがいつもの行動だろう?」

 確かにそうだが、そういうことではない。けれどもこの気まずさにすでに耐えきれない私は、せめて絵でも描いた方が心が休まることは事実だと思った。

 とはいえ、キャンバスを広げる気にはならず、のろのろと鞄の中からスケッチブックを取り出す。

(今日はこれにしよう……)

 スケッチブックに書いてあるのは、ただのデッサンだ。そこにあるのはなるべく写実的に描くという明確な意志。風景画も写実性はあるが、どうしてもその風景をどう捉えているのかという感情が反映される。特に、私が描く空の絵は、厳密には風景画を逸脱しており、自分の目で見た風景を切り取るというよりも、その時々で変わる私の想う空の絵になりがちだった。

 そんなものをコトバケの前で描く気にはとうていなれない。デッサンなら、少なくとも私にとっては、自分の感情を排斥できる。

(せっかくだし、グランドピアノでも描こう)

 最後に弾かれたのが何時なのかも分からない、置いてけぼりのピアノと夕暮れの柔らかい光。鉛筆では濃淡で表現するほかないが、この風景を多分私は嫌いではない。

「……」

 おもむろにそのあたりにある椅子を引っ張りだし、少し遠目にピアノを見る位置取りを取る。静かで侘しげな教室の中にあるピアノ、その風景を切り取ることに専念する。

 鉛筆が白い紙をはしる音と、音楽室の時計の音だけが聴覚を満たす。こんな寂れた場所でも、時計は変わらず動いていた。

 手元に徐々に現れる、黒と白だけで構成されたデッサンは、何時だって少し寂しげな様相で。

 この視界は、この空間は、きっと今を写しとる真実だ。そこに余分は、余計は、ない。


 気がつけば、世界は自分とピアノで閉ざされた。同じ空間にいたはずの、彼のことなんて気にならないほどに。

 消しゴムも使わずに一息で描かれた絵は、気持ちにまかせて、ただ拙いが、その拙さを私は大切にしていた。


 ーそれが誰にとっても意味がないものでも。


 ああ、考えればこの音楽室は意味のないものの集合だ。

 役目をなくして誰にも使われないものばかり。後はただ、捨てられるのを待つばかりで、いずれその全てが過去になる。

 それまでのモラトリアム。誰にも認められない空間に、誰にも知られない時間だけが堆積した。

 それが、私と同じだと、捨てられないものばかりを抱えて私は、この場所に日々、逃げ込んでいただけなのだ。

(ああ……、嫌だな)

 さぁ、絵を描こう。なんにもならない絵を。そうしてそこで向き合う自分を、なんでもないものだと嘯いて。

 明日の自分のために、今日の自分を閉じ込めた。

 此所の全てが私の箱庭だ。


 ー†ー


 どれほど集中をしていたのだろう。

 白紙を汚す線はカタチとなって、切り取られた空間を写していた。

(……、)

 出来上がったデッサンを見て、満足よりも何よりも、捨てたくなるのは、一過性の衝動だ。ふと、投げ捨てたくなってはみるものの、何時だって中途半端な私にそこまでの熱情はない。漠然とした焦燥は、どこから生まれるものなのかすら、私には分からなかった。


「……、綺麗だね」


 ふ、と耳に入る声に意識が浮上する。

 そういえば一人ではなかったと降り仰ぐと、コトバケが柔らかな表情でそこにいた。

 後ろから覗くように私の絵を見る彼は、そういえば描いている最中は一言も話さなかった。意識的かは分からないが、気配を殺しているように静かに、私が目的を忘れるほど介入をしてこなかった。

「そう、ですか」

 自分の絵を誉められるということは、実はそう珍しいことでもない。腐っても美術部、授業中や、雑談中のノートの落書き等、クラスメートから上手と言われることには慣れていた。

 けれども、コトバケの言葉は、技量についてのものではなく、純粋な絵の感想で、どう反応するのが正解なのか分からなかった。デッサンに綺麗も何もないだろう。

「やっぱり、君の絵はいいね」

 やっぱりというのは、時々校内に飾られている私の絵を指していっているのだろうか。瑞樹にしろ、コトバケにしろよく見ていることである。

「何時も、思ってたんだ。例えば今日の絵の風景だって、僕にはただの寂れた音楽室にしか見えないけれど、君にはこんな風に見えている。こんなに綺麗に見えている、それってすごいことだよね」

「すごいも何も、ただのデッサンですよ。見たまま描いただけ」

「うん、その見たままっていうのが、いいね。同じものを見ているのに、多分違うんだ」

 それはとても恐ろしいことだ。決してよいことではない。貴方と私が違うというのなら、私はそれをなかったことにしなければいけない。

「……ふふっ、そんなに困った顔をしないで。僕は純粋に褒めているんだ。そして君の、そういうとこが知りたくて僕は話がしたかったんだ」

 例えば、と、彼は続ける。

「そもそもね、何でこんな場所で絵を描いているのかな?普通、美術部は美術室で絵を描くものじゃないの?」

「それは、うちの部が弱小で、個人スタイルだからです。そもそも絵はどこでも描けますし。それに、」

 ひとりになりたかった。教室の息苦しさから解放されたかった。さりとて独りにはなりたくなかった。これはその折衷案だ。

「それに?」

 ああしたい、こうしたい、という気持ちを話すのは難しい。それも赤の他人に。けれども、黙り混んだ私の言葉の続きを、コトバケは丁寧に拾い上げた。一対一では、逃げることも難しい。

「……、ひとりのほうが集中できるかなって思って。それに描きたいものを見つけないといけなかったし」

「ああ、だから空の絵か」

 しまった、失言だった。

「別に……、なんでもよかったんですけど。ここ静かでいいですし」

 慌てたように付け足した言葉は誤魔化しだ。

「そう?でも好きなんじゃないの?」

「何が」

「空が」

「……」

 相手はどうにも誤魔化されてはくれないようだが。

「なんで、そう思うんですか?」

 代わりに問いを投げ掛けると、彼は肩をすくめる。

「何故って、そうじゃないとできないでしょ。そうじゃないとあんな風には描けないよ」

「……好きというか、まぁ題材としてはよいかな、と」

「それって少なくとも気に入ったからだよね。あのね、好きなものの話をする時は、ただ好きだよってそれだけでいいんだよ?」

「それだけって……」

 そんなことは分かってる。でも、言い訳をしなければ、理由がなければ、いけないものだということも分かっている。

「なるほどね、じゃあ、まずはそこからだ」

 なのに、呑気なコトバケはしたり顔で頷いて、にこりと微笑むのだ。

「うん、じゃあ、今日はその話をしよう。君の好きなものの話だ」


 一問一答。解答せよ。

 配点未定、正答不明。

 ただしー無回答は認めないものとする。


 問1 私の好きなものは何か。


 ー解答、はじめ。

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