第3話

 言化けと名乗る頭のおかしい人間を前に、私ができることは、脱兎のごとく逃げる、の一択である。

(よし、行こう)

 手近にある荷物を引っ付かんで、くるりと彼に背を向ける。ばたばたと派手な音をたてて走り、いつもより遠く感じる音楽室の扉を開けようとした私の背に、押さえられないような笑いを含んだ声が投げられる。

「いいのかなぁー」

 なんだかわざとらしい棒読みだ。気にせず逃げればよいのに、反射的に足が止まる。

「さっきのノート、誰にも知られたくないんじゃないの?」

「……」

 傷つけるつもりはない、だなんて人の良さそうな発言を取り消して欲しい。頭がおかしいだけじゃなく最低だ。

 こんな脅しに屈するわけにはいかないなんて、負けん気は私にはない。開き直るだけの強さもない。ただじっと、無言で睨むように背後をみやるだけである。

「いや、そんなに睨まないでよ。悪気はないんだから」

 悪気がなければなんなのか。そこに悪意しかないと思う私が間違いなのか。

 こちらが黙りこむと弱ったみたいな表情をするのもやめて欲しい。あなたはなんなのか、判断ができなくなる。

「……、何が、目的なんですか」

「すごい、まるで僕、悪役みたい」

 みたいじゃなくて、悪役である。

「あー、いや、ごめん。そんなに睨まないで欲しいな」

 ホールドアップ、無害を主張するみたいに両手を頭の横に広げて掲げる。

 お化けを名乗る割に人間くさすぎる動作だ。自分でした設定なら、もう少しそれらしく振る舞えないのか。

「うーん、まぁ目的としたら、うん、明日からもここに来て欲しいんだ」

「は?」

 自分でもびっくりするくらい低い声がでた。

「明日からもここにきて、僕とお話をしよう。別に無理なことを頼むつもりはないよ。君はこれまでどおり創作活動を続けて」

 美術部なんでしょ、と続ける彼に、今日はじめて会った彼にそこまで知られていたことに驚く。

「何が、目的なんですか?」

 先程した問いをもう一度。今度は困惑が滲み出ていた。

「ん?目的か。それは至極簡単だ。僕はコトバケとしての役割を果たしたいだけだ」

「は?」

「うん、君、なんだかさっきから心の声漏れすぎじゃない?」

 いい傾向だけどね、などと言いながら、彼は息を吐いた。

「君があまりににも言葉にしないもんだから、こんなノートにしか言葉を連ねられないから、僕は来たんだよ」

「意味がわかりません。だから貴方はなんなんですか」

「だからーコトバケさ。それ以上の答えはないよ。君が殺した言葉の亡霊」

 生きてもいない概念に何が亡霊なのか。こめかみが痛む感覚に眉根を寄せる。あくまでその設定を維持するらしい。

「わかりました。貴方がその、コトバケだとして、私と話す意味はなんなんですか」

「それは至極簡単だね。ただ僕は君の言葉を取り戻したいだけだ」

 取り戻す、まるで私が言葉を失くしたみたいな表現だ。そんなはずはない。そんなわけはない。だって、


 ーこの世にコトバなんか溢れかえっているじゃないか。


 波のように押し寄せるそれに、ああ、私は一歩も動けなくて。泡のようなそれを何も残さないように紡ぐだけで。

「そんなふうで、楽しいかい?」

「……、」

 分かった風な口をきく彼に苛立ちがわく。楽しいとか楽しくないとか、これはそんな気持ちで片付くものじゃない。

 そんな私の反発心をよそに、彼の瞳は驚く程凪いでいて。話のわりにそこに馬鹿にする意味合いがかけらもないことが分かってしまって。


「ねぇ、だから僕に聞かせて欲しい。君の言葉で話してごらん。それが僕の、コトバケの役割さ」


 こんな胡散臭い彼のいったい何に納得したのか。それ

 でも私はその時の、その言葉に、確かに惹かれたのだ。

 それはただの、誰かに話を聞いて欲しいだなんて、甘えた気持ちからだったのかもしれない。放課後のいつもの閉じられたこの空間に、漠然と堆積した孤独感のせいかもしれない。

 確かな事実はそれにひとつ、頷いてしまったということだけで。

 私の了承に彼、改めコトバケは安心したように微笑んだ。やっぱりその表情は人間くさくて、その設定に無理がないかと呆れてしまう。

「それじゃあ放課後、毎日此処で僕は待っているよ。あ、別に用事があるときまで、強制じゃないし、あくまで君の活動のついでということでね」

「はぁ……まぁ、はい、わかりました」

「まぁ、単に来なくなったら、あのノートのこと言いふらしちゃうけどね」

「…………」

 前言撤回だ。

 やっぱりこいつは信用ならない。はやくも襲う後悔と不安に、私は嘆息したのだった。




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