3 体育祭・中盤戦
杏樹は人の来なさそうな水道を選んで顔を洗った。涼しい顔して立ち去ったが1500メートルの疾走後なのだから、涼しいわけがない。
ポケットから取り出したハンカチで雑に顔を拭く。横髪がまだ濡れていたが、適当な日陰にぺたりと座り込んだ。
「サボリかー?」
「……っ」
当分動く気ありません、という空気が滲み出ていたのかそんな風に声をかけられた。
近づいてくる気配に注意を払ってはいなかったのでちょっと驚いた。
(えっと……数学の先生だ。名前なんだっけ)
声をかけてきたのは男性教師だ。けれど名前が思い出せない。
「
「泉水先生……。人聞きの悪いこと言わないでください。普通に出場特典で休んでるだけなんで」
「そだな。あ、俺苗字じゃなく下の名前で呼ばれることのが多いんだわ。学園理事の偉いさんが同じ苗字でな」
「そうですか」
別に頻繁に話す機会もなければ呼び方なんて何でもいいだろう。
「地獄の1.5ぶっちぎりだったな。やるじゃねーか」
「どうも。そりゃそれなりに走れなきゃ自分からエントリーしたりしませんよ」
「自信家だな。あとは、」
「……?」
「“風の加護”もあるし?」
「そーですね」
にやりと笑みを浮かべる教師に、否定はしない。
(この教師、)
警戒をしないわけではないが。
数学教師・泉水統吾は軽く眉を跳ね上げて、小気味よさそうに笑った。背も高く顔の造作も整っているのに、悪人面である。
杏樹が観察しているのに気づいたのか、泉水は更に笑みを深めた。
「サボリもほどほどになー」
「……はーい」
教師らしからぬ軽薄さで注意とも言えない言葉を残して去っていく泉水に、杏樹も随分適当な返しをした。
柔らかく吹いた風が濡れた横髪を撫でるように通り抜けていき、次の瞬間にはすっかり乾いている。杏樹は風の行き先を追いかけるように視線を上げ、ゆっくりと瞬いた。
○
星聚学院の成り立ちとして押さえておかなければならないのは、エスタ教会が経営する学院だと言うことである。
エスタ教は発祥地不明の宗派で、世界的に見ても信仰している者はそう多くない。
ただ当然と言うべきか、この学院には信仰者が集まってくる。単純に名門校ということでそれ以外の成績優秀者も多いのだが。
エスタ教徒が幼い時に聞かされる、おとぎ話のように噛み砕いた教典の導入部によると。
星を統べる神エステルが自らに随従する四名の神獣に、力を宿した四つの石をそれぞれ呑み込ませた。石は星の欠片であり、力とは地・水・火・風の四つの元素である。石と神獣は長い時間をかけて融合し、やがて神獣は神の従者でありながら星から分離した星の一部となる。こうして神と神獣は、長い長い刻を星と共にある。
と言われている。
では先ほど数学教師の言った“風の加護”とは。
神の従者である神獣は地・水・火・風の四元素、その力の源として星を支えているわけだが……生物の中には神獣と融合した元素と極端に相性のいい者がいる。
大抵はひとつ、稀に複数。そういう者を相性のいい元素の神獣から加護を受けている者、と称する。
とはいえ、エスタ教によると生物は誰しも必ずいずれかの神獣の加護を得ていると言われている。その者の躰に根付く元素の濃度はそれぞれだから日常的に感じることができるか否か……極端に相性がいいかどうかの基準はそんなもの。
相性がいいと言ってもせいぜいがその元素が近くにあると安心する、だとかその程度だ。たとえば、水の神獣の加護を受けている者が水に触れていると心地いい……とか。
そんな抽象的な話なので神獣の加護を受けていても気づかない場合もよくある。
杏樹の場合は諸事情があり風の神獣の加護を受けていることを自覚しているが、そちらのほうが珍しいことである。当然第三者に見破られたのも初めてのことだった。
「ん……?第三者?」
どちらにしろ、あの教師は要警戒だ。
○
午前のプログラムが終了し、今から昼休憩に入る。
一旦解散となるのでばらばらと移動を開始する生徒達。その中で。
「ったくあの自己中女、勝手にオーダー決めて」
「私借り物競争なんて初めてなんだけど、大丈夫かしら……」
「あたしなんてぶら下がり競争出たよ~。思ったよりできたからよかったけどさぁ!」
杏樹のことを面白く思っていないクラスメイトである。歩きながら出てくるのはやはり悪口。
「大きな声で話すことではなくてよ」
嗜めるように品のある声に言われて、先の三人は軽く肩を竦めた。
眼鏡をかけた少女がそんな三人を見て口元を緩める。その仕種が少女の理知的な美しさを更に際立たせた。
「にしても、何気にうちのクラス成績いいよな」
城落としで活躍していた目がキツネのように吊り上がり気味の少女が、各クラスの点数を表示したパネルを振り返って言う。
「なんだかんだ決められたこと嫌々なりにも頑張ってるもん。エラすぎじゃな~
い?」
「……と言っても彼女の地獄の1.5断トツが効いてるのも確かよねぇ」
長い髪を豪奢に巻いた、ぶら下がり競争で好成績を修めた少女が自画自讃するのに続き、口元にほくろのある借り物競争に出場予定の少女が息を吐きながら言った。
女子1500メートル走は個人で出場する女子の種目の中では一番ポイントが高い。当然順位がいいほど多くもらえるので、ぶっちぎりだった杏樹はひとりで相当のポイントをもぎ取った。
「頭よくて運動神経よくて……長距離走れる体力もあるとかどうなってんのよ」
キツネ目がげっそりとした表情で言った、その直後。
「う、っわぁ~!」
話していた少女達の少し後ろから、突然間の抜けた悲鳴が上がった。
「ちょっと、なに……?」
「タスキが飛ばされたぁ!待って~」
「何やってんの、もう」
風にさらわれたタスキを追ってぴゅーっと駆け出す小さな背中を見て、前を歩いていた四人は呆れた顔をした。
「タスキ~っ」
遠くなっていく明るい色の髪の彼女は、星聚学院に小学校からいる典型的な内部進学組である。中学も一緒だった面子は昔からちょっとトロい子だと知っている。
だから今の行動も「あぁ、またか……」ぐらいにしか思わなかった。
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