プロブレム

 もう三日は寝てないよ、これじゃオウルというよりフリゲートバードだね、と彼女は流暢な英語で言った。

 その割に元気な様子でロフトから降りてくると、そのままキッチンに向かってコーヒーメイカーのスイッチを入れてから戻ってきた。天窓の向こうではちょうど太陽が雲に隠れたところだった。部屋の中が薄暗くなる。

「なんの連絡も寄越せずすまないね。先週はグランマのところに行かなくちゃならなかったし、昨日の時点では、まだニューヨークで母親の手伝いをしていたんだ。帰ってくることは前々から決まってたんだけど、どうにも、連絡する暇がなくてね。怒っていないといいんだけど!」

 ところどころ英語になりながら、彼女は聞いてもいないことをペラペラとまくし立てた。彼女のプライベートに対する奔放さは昔から知っているので、私としては退屈な言い訳だった。

「今はなにやってたの?」

「今? 仕事──と言いたいけど、マムからのホームワークみたいなもんさ。私のマムがニューヨークでデザイナーをやっているのを知っていると思うけれど──そうそう、昨日まではそこの事務所にいたんだよ、初めてのことじゃないとはいえ、実際に仕事場を見てみると昂ぶるってもんさ! さておき、来年を目処にマムの許へ行こうと思っているんだ。日本での活動も限界が見えてきてね」

「初めて聞いた」

「初めて言ったからね」

 そこで、キッチンの方から音が鳴った。コーヒーができたらしい。彼女は立ち上がると、カップを二つ持って戻ってきた。部屋中央のコーヒーテーブルに置かれる。私がソファに座ると、彼女はすぐ隣に座った。

「初めて聞いた」

 私はあえてもう一回言った。

「初めて言ったからね」

 彼女は何も考えずにもう一回言った。カップに手を伸ばして、冷まさずに口を付けた。

「濃ゆいな。頭痛がしそうだ。カフェインと寝不足どっちのせいかわからないけど」

「寝ないと駄目だよ」

「仮眠はとってるつもりだよ。休めてる実感はないけどね。ところで、後で上に来てほしいんだが。いつもみたいに、色々と意見を聞きたくてね」

「いいよ」

「ありがと」

 彼女はコーヒーに濡れた唇で私の頬に口づけした。

「私がどれだけ君に助けられているか、きっと君には分からないだろうね。本当に会えてよかったよ。君との日本での日々は本当に充実していた! 君と恋人になれたこと、ここで君と過ごせた時間こそが、私にとって人生最大の幸福だった」

 まるで別れのような台詞だった。

 私はようやく、カップに手を伸ばして息を吹いた。一瞬湯気がかき消え、水面が揺れる。口を付ける。舌が焼け、苦味が広がる。熱い液体が喉を下る。

「──だから当然、君が一緒に来ることもマムには話してある。向こうについたら、正式に君のことを紹介するつもりさ。準備のことは心配ないよ! 私も手伝うし、嫌だと言っても連れて行くからね! 攫ってでも連れて行くさ。それじゃ、先に上に上がってるから、一息ついたら上がって来て」

 彼女はカップを片手に器用に梯子を登っていった。彼女の私に対する奔放さは昔から知っているので、私としては退屈な話だった。

 私は真顔のまま天窓を見上げた。やるべきことは色々ある。考えることは色々ある。両親の説得、引っ越し、転校、将来の展望、環境の変化に対するストレス、それから……。ちょうど日差しが差し込んできて、私は目を細めた。

 不意にロフトから顔が覗いた。

「ごめん、やっぱり早く上がってきてくれる? せっかくなら君が近くにいてくれた方が嬉しいんだけど」

 立ち上がると、諸々の苦労を今から思って残りのコーヒーを一気に煽った。ため息吐きつつ、光投げかけられた梯子に手をかける。

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少女、ふたりの距離 季弘樹梢 @jusho_sue

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