そのタナトスは嗜虐に満ちて

「な、なんで……なんで、あなたがここに……?」

「あー……気になる?教えたところで死んだら終わりだし、わざわざ言わなくてもいいかなって思ってたんだけど……気になるなら一応教えてあげるよ。」

恐怖に後ずさりながら聞けば、先程の男性を殺した瞬間の愉しそうな様子とは打って変わって心底つまらなさそうな声で淡々と答える。

「別に大したことはしてないんだけどね。強いて言うなら君の無警戒っぷりが僕にとっては役に立ったって感じかな。君のクラスが移動教室で誰もいなくなってる間に、君のスマホを覗いただけ。画面ロックぐらいかかってるかと思ったんだけどそれすらなかったからすぐに用が済んで助かったよ。流石に人に見つかったら面倒だからね。」

昨日までは自宅に置いてきていたものの、今日に関してはここに来るために必要な地図として持ってきていたスマートフォン。今は自分の制服のポケットに入っているが、学校にいる間は確かに自分の鞄の底に隠してしまいこんでいた。

何故彼女がこの待ち合わせ場所に辿り着けたのかについてはそれで納得できたが、しかし、それは花子の意図した質問に対する答えではない。

「そうじゃなくてっ……!なんであなたが、ひ、人殺し、なんて……!」

あの転校生が、ほんの一瞬でも自分に希望を持たせてくれた彼女が残虐非道な殺人鬼であると認めたくなかった。せめてそうなってしまった理由を、彼女をそうさせてしまった何かを知りたかった。

「もう死ぬ君がそれを知って何になるの?さっきも言ったけど、『死んだらそこで終わり』なんだよ?余計なおしゃべりなんてする必要なくない?」

「っ……。」

酷く冷淡に回答を拒否される。もうこの殺人鬼の中では花子がすぐに亡き者になるということは確定した未来であるようだった。

学校での優しそうな笑顔が脳内でガラガラと音を立てて崩れていくように感じる。どうしてそんなにも簡単に人の命を奪う決断を下すことができるのか。今朝のニュースで報道されていた被害者と、先程目の前で殺された男性を含めて計八人。そして今、九人目を終わらせようとしている。

けれど、その『死』こそが、自分の望んだ――

「(……死んだら、『終わり』?)」

不意にその言葉が引っ掛かった。

回り始める思考。しかし殺人鬼はこちらのことなどこれ以上待ってはくれないようだった。

「ねぇ、もういい?僕だって現場に長居したくないんだよね。用事は早く済ませて帰りたいんだけど。」

また一歩、迫るナイフ。反射的に後ずさると、不機嫌そうな黒い瞳がその心理を探るようにすっと細められた。

「……何?『殺して欲しい』んじゃなかったの?」

「わ、私は……、」

人生とは、その人自身が主人公の物語なのだという例え話を聞いたことがある。

そうなれば、その人生という物語のエンディングはその人の死の瞬間になるのだろう。

「私は……確かに、学校ではいじめられてるし、家でもろくに扱ってもらえてない……。何のために生きてるんだろうって、ずっと思ってた……。」

もしも自分の人生を物語として書き出すとするならば、少なくとも自分はその物語を幸せな物語だとは思わない。

そしてその苦しみから逃れるために命を絶つエンディング。主人公は、自分は死んでしまう。

死んだ主人公は確かに苦しみも悲しみも味わうことはなくなる。

けれど『なくなる』ことだけで幸せになれるのか?楽になった、と感じる心すらもなくなってしまうのに?

「それはすごく苦しいし、辛い……何度も死にたいって思った。なんの為に生きてるんだろうって、思った。でも、でも……このまま終わるなんて嫌なのっ。」

震える声が吐き出される。殺人鬼はピクリと反応し、しかし何も言わずに花子の言葉の先を待つ。

自分が何度も繰り返した、『死にたい』の裏に隠れていたのは。

この壁際から、見えない殺人鬼に向かって願ったのは無などではなかった。

――ただ、幸せになりたい。それだけの事だった。

「一度も幸せだって思えないまま、こんな気持ちのまま……私はまだ、『死にたくない』っ!!

 だから、お願いします……殺さ、ないで……っ!」

黙ってこちらを見ている七華の前で両手を握りしめ、神にも祈る気持ちで彼女の答えを待った。

沈黙。

……沈黙。

しばらくその様子を眺めていた彼女は、ふっと表情を和らげて目を伏せる。

「……そう。『死にたくない』、かぁ……。」

ぽつりと呟かれたのは独り言か、それとも俯いて目を瞑っている花子へ話しかけた言葉だったのか。ナイフをゆっくりと下ろし震える左肩に手を置けば、死にたがり『だった』少女はびくりと肩を震わせて反射的に顔を上げる。

「なんか癪だけど、ある意味アイツのおかげかな。よかったよ、君が『生きたい』って思ってくれて。」

その表情は、学校で始めて顔を合わせた時のような穏やかで優しい微笑み。とん、と手を置いていた肩を軽く押され、よろけて数歩後ろに下がった。驚きながらも恐る恐るもう数歩下がってみるが、七華は微笑んだままそれ以上距離を詰めに来る様子はない。自分の生還を確信し安堵に表情を緩ませた花子は心からの感謝を述べる。

「……っ、あ、ありがとう……!」

「ううん、こっちこそありがとう。思い直してくれて。」

にこにこと、笑顔のまま。

笑顔のままで。


「それじゃあ楽しい鬼ごっこを始めようか。」


天から地へと突き落す。

「……え?」

「勘違いしてるみたいだから言っておくけど……こいつを殺しに来たのは僕の名前を騙って気持ち悪いことしてるのが目障りだったから。今君を殺そうとしてたのも、君が僕の犯行現場を見た目撃者だからってだけ。誰が好き好んで自分に一切メリットのない殺人慈善事業なんてするのさ。」

つらつらと語る彼女の様子は、つい数分前の様子を彷彿とさせた。馬鹿にしたような、それでいて楽し気な……。

悟る。自分の大きな間違いを。もう既にどうしようもなくなっていた現実を。

目の前のこの少女は祈るべき神様などではない。自分を救いに来た救世主などでもない。

「――ご愁傷様。僕の為に『黙って』貰うよ?」

自分の娯楽のために人を殺す、快楽殺人鬼でしかないのだと。

ナイフが振りかざされるのを視認するよりも先に、荷物を放り出して全力で地面を蹴った。

余計な重りなど持っていられない。失くしたら母に怒られる?怒られるからなんだというのだ。ここで捕まれば確実に死ぬ。何時間かけて怒られたって、どれだけ人格を否定するような罵倒を受けたって、それだけで命は尽きはしない!

地図を見ながら歩いてきた道はうろ覚えでしかないが、それでも記憶を頼りに走るしかなかった。運動神経に恵まれているわけではない花子にとってはたった一瞬の減速すらも命とり。地図を確認しながらでは逃げ切る自身などなかった。

走る先、青いプラスチックの大きめのゴミ箱が目につく。通りすがりにそれを掴んで自分の背後へと引き倒せばその空のゴミ箱は地面に倒れ、こちらを追う七華への軽い妨害となった。

「あはははっ!いい判断じゃん!逃げきってみなよ、逃がさないけどね!」

背後からの声に心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じ、振り返りもしないで走る。

助けを求めて叫びたかった。けれど、叫べば自分を追う殺人鬼にも場所を知らせることになる。

何より叫ぶことが無駄だということは先に殺されたあの男性が身をもって知らしめてくれていた事実。自分の倍はあるのではないかというあの声量で叫んでも、自分とあの殺人鬼以外に誰かが姿を現すことはなく、今だって誰も姿を見せはしない。先ほどまでいた『待ち合わせ場所』が路地裏の随分奥のほうであったことはここに来る道中の歩いた距離と地図の表記で把握していた。この場所がもはや誰も住んでいないような場所なのか、それとも叫びも意味をなさない程治安の廃れた場所なのか。

ふと背後からの足音が消えたことに気づき立ち止まる。撒いたのだろうかと考えたが、それでもこのままこの人気のない路地裏に居たのではいつどこで殺されてしまうかわかったものではない。大通りに戻る道を確認しようとスマートフォンを取り出しかけて、目の前の影に息を飲んだ。

「ひ……っ!!?」

「こっちはダメだよ、園田さん?」

視線の先で、ぎらりと光る。

その脇を無事にすり抜けるなど、自分にできるわけがない。踵を返して再び駆けだした。

何か大通りに戻るための目印になるものがないか、走りながら探す。

この路地裏には入ったことがないとはいえ、いずれどこかでは自分の知った道に辿り着けるはずだと信じていた。

相手は殺人鬼とはいえ先日この町に来たばかりの転校生。十七年間この町で生まれ育った自分のほうが、よく知っている道は多いはずだった。

……けれど、『転校生』であるはずの相手のほうが、自分よりもこの辺りの地図を把握していたということを思い知らされることになる。

「う、そ。」

目の前に現れたコンクリートの高い壁。廃ビルに囲まれた行き止まり。

自分には乗り越えられないと察して引き返そうとした花子の前に死神が立った。

「……ゲームオーバー、だね。」

息切れ一つ起こさずに余裕の表情でこちらを見る少女。すべてお見通しだったとでも言わんばかりのその表情に、途中で何度か先回りして進行方向を変えてきたのはこの行き止まりへ追い込むための布石だったのではと思い至る。夕日を背に浴びて歩いてくる彼女から少しでも距離を取ろうと後ずさるが、すぐに背後の壁に背中が当たった。

笑顔に湛えられた愉悦と殺意に鳥肌が立つ。

「い、嫌……。」

「そっか、嫌かぁ。でも僕も、警察に通報されたりしたら嫌だからなー。」

逃げる手段をなくした獲物との距離をわざとらしいほどゆっくり詰めるのは彼女の嗜虐性故か。

どうすればこの状況から逃れられるだろう。自分という目撃者を殺すよりも、生かしておいたほうがいいと思ってもらうにはどうしたらいいのか。先ほどの会話の中で七華が口にした『メリット』という単語が頭をよぎる。

自分が提示できる、彼女に対してのメリットは?必死に考えても、焦りが先に立ってしまいなにも思いつかない。

「(でも……このままじゃ、本当に今度こそ殺される!!)」

徐々に息が詰まるような感覚に襲われる。首を切り裂かれるよりも先に、空気に充満した殺意で窒息しそうだった。

「お願い……絶対、絶対に誰にも言わないからっ、約束、するから……っ!」

「約束?あはは、そんなの口だけなら何とでも言えるよ。君だってそういう人、今までに見てきたんじゃないの?」

必死の命乞いにも一切耳を貸してくれない。また一歩、距離が狭まる。

口約束に意味がないなら、他に何ができる?自分の命の代わりに、自分が誠意として目に見える形で示すことができるものは?

なりふり構っている暇はなかった。

どんなに不格好でも、死にたくなかった。

自分の生を、諦めたくなかった。

「わ、私っ……!!あなたが望むことなら何でもするっ!!」

容赦なく、喉元を狙って凶器が構えられる。

足りない。もう一度、付け加える。

「何か私にできることがあるならなんだってする!!だから、殺すのだけは、それだけはっ……!!」

必死の思いで訴える。けれど、まだ足りない。現に、殺人鬼の視線に込められた殺意はもう痛いほどに自分に突き刺さっている。

考えろ。何でもいい。すぐにでも用意できるもの……投げ捨てた荷物の中には、何が。

はっ、とそれが浮かんだ。浮かんだけれど、それを口にするのはあまりに無様なような気がした。でも、それでもほんの少しでも自分の命を繋ぐ可能性が強くなるのなら。確率が上がるのなら。何も言わないよりは言った方がいい。……意を決して、声を張り上げた。


「お、お金ならっ!!お金ならいくらだって払うからぁっ!!」


ぴたり。

喉元で、ナイフが止まった。

「……は?」

「あっ、そ、そのっ、いくらでもとは言っても、今すぐ持ち合わせがあるわけじゃなくて、そのっ……」

素っ頓狂な声を上げ、呆気にとられている七華。その様子に気づいているのか否か、さらに弁解を加えようとする花子だったが、七華の機嫌を損ねないような言葉選びに迷って徐々にもごもごと口籠ってしまう。

「で、でも、ちゃんと、払う意思はある、から――」

「……ふ、ふふっ、あはははははははっ!!!」

我慢できなくなったように、高らかな笑い声が路地裏に響いた。七華が笑いながら数歩後ろに下がったことにより花子の喉元からナイフが離れ、未だ油断できないながらも少し余裕が生まれる。次は花子が呆気にとられる番だった。ひとしきり笑った七華は息を整えながら花子に問う。

「あはは――あぁ、もう、何それ。ドラマとかのベタな成金悪役じゃあるまいし。

 それに、君って別にどこかのお金持ちのお嬢様なわけじゃないよね?」

「う……。そ、そうだけど、でも、どんな金額でも、ぶ、分割払い、なら……?」

その言葉にまたけらけらと笑いだす。花子にとっては必死の命乞いだったのだが、七華にとっては随分滑稽な言葉だったらしい。ナイフは右手に握ったまま左手で腹を抱えて笑うその声に人を馬鹿にするような色はなくなっていた。

「分割払いって!あのさ、それってつまり、君は君自身の身代金を払おうってわけでしょ?身代金の分割払いなんて僕、聞いたことないよ!それに、お金を払ったからって本当に警察に駆け込まないなんて保証ができないのは結局一緒じゃない?」

「そ、れは……。」

「でも……『できることがあるならなんだってする』んだよね?面白いじゃん。」

笑う彼女と、離れたナイフ。そして穴だらけの命乞い。自分の置かれた状況を理解できないまま戸惑う目の前に、再度ナイフが突きつけられる。

しかしそのナイフにはもう殺意は籠っていなかった。

「いいよ、生かしてあげる。……ただし月額二千円。おまけに僕の監視付きの余生でよければね。」

死なずに死んだという安堵から地面に崩れ落ちた花子に、七華は心底楽しそうに微笑みかけた。

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