渦巻く真偽

教科書を抱えてぼんやりと廊下を歩く花子。

普段の移動教室の際もチャイムがなる直前に教室に着くようギリギリまで教室に残ったうえでゆっくり移動しているのだが、それを含めても歩くペースは普段よりも随分遅い。なおかつそれだけゆっくり歩いても十分間に合ってしまうのではないかというほど教室から出るのも早かった。

『花子さん、なんか元気なくなーい?』

『何?そろそろ本当に死んじゃう?あはははっ!!』

今朝投げかけられた言葉が脳内でぐるぐると渦を巻く。彼女たちにとってはただの嫌がらせの言葉に過ぎないだろうし、昨日までの花子ならただそれに強い不快感を得ていただけだっただろう。しかし、今の彼女にとってはそれは充分に起こり得る近い未来の話になっていた。

『本当に死にたいなら、明日ここにおいで』

あのコメントの後、つどったーの中の個人チャットに送られてきた座標。地図アプリでその座標を地点登録すれば、大戸叶高校から自宅への帰り道の途中にある路地裏の一角に印が付いた。このアカウントが本当に連続殺人犯のものであるのなら、匿名性を利用した誰かの悪戯などでないのなら、その場所に行きさえすればこの世に別れを告げることができるのだろう。

いじめが始まって二年を過ごすうちに、いつしか願い続けていたものがついに目の前に現れたにも関わらず、花子はそのアカウントに言葉を返すことができなかった。「殺してほしい」とは即答できなかった。

「(これ以上生きてたって、もう希望なんてないはずなのに……。なんで私、まだ迷ってるの?)」

自分に疑問を抱いたまま、選択の時は刻一刻と迫っている。今を逃せばもう、こんな機会は二度と訪れることはないのだろう。

どん、と突然肩に衝撃が走った。はっと我に返った花子の腕の中から教科書がばさばさと床に滑り落ちる。咄嗟にぶつかった人物のほうへ振り返って「ごめんなさい」と言いかけた花子だったが、その相手を見て言葉を詰まらせた。

「うわ、トイレの花子にぶつかっちまったー!」

「きったねー!お祓いしねぇと呪われるー!」

わざとらしい大声が廊下に響き渡る。その途端に休憩時間の喧騒は静まりかえり、周囲の視線が一瞬で花子に収束した。

花子に直接嫌がらせをしてくるのは初乃だけではない。いじめに便乗し、花子のことを丁度いいサンドバッグか何かのように扱って来る人間も数人居る。わざと花子にぶつかりげらげらと笑いながら走り去っていく男子生徒はそんなクラスメイトの一人だった。

大人数の前で貶された惨めさと恥ずかしさ、誰も自分に手を差し伸べてはくれない悔しさで胸がいっぱいになり急いで荷物を拾って立ち去ろうとするも、落とした下敷きが静電気で地面に張り付いてしまいなかなか拾い上げられない。こんな時に、とより一層焦る花子の目の前に突然それが割り込んだ。

それは見慣れた自分の筆箱であり、同時に長い間見ることのなかった光景だった。

「……大丈夫?」

顔を上げると心配そうな黒い瞳と目が合った。願ってこそいたが予想外の出来事に目を丸くしていると、彼女は不思議そうに首を傾げる。

「えっと……これ、君のだよね?まさか、違う?」

「……あ、いえ、私の、だけど……あ、ありがとう。」

戸惑いながらも筆箱を受け取ると、彼女は「どういたしまして」と人の好さそうな笑顔を浮かべた。悪意のない笑顔を向けられるなど、本当にどれだけ久しぶりのことだろうか。自分に自ら話しかけてきた彼女を少しの警戒心を込めてまじまじと見て、彼女が付けている『小野里』と書かれた名札が自分と同じ緑色であることに気づいた。

この学校では学年ごとに名札の色が分けられており、花子達二年生は全員緑色の名札を使用している。また一学年の数がそう多くないこともあってか、同学年であれば顔や名前を知らない生徒など居ないといっても過言ではない。にもかかわらず、花子は彼女の顔も名前も知らなかった。そこまで考え、不意に少し前に風の噂に聞いたばかりの話を思い出す。

「あなた、もしかして……三組に来たっていう転校生?」

「え、もしかして私の事、隣のクラスにまで伝わってるの?なんか有名人になったみたいでちょっと恥ずかしいなぁ。」

きょとんとした後、すぐに少し照れくさそうな笑顔を浮かべる彼女。ころころと表情を変える彼女はいじめなどという暗い話とはいかにも無縁そうに見えた。

「実はちょうど一週間前に転校してきたところなんだよね。私は――」

「な、七華ちゃんっ!」

彼女が名乗ろうとした時、その後ろからやってきた別の女子生徒が血相を変えてその腕を掴んだ。あまりの勢いに困惑するその少女を半ば無理やり花子から引き離すように連れ去りながら、その耳元に何か耳打ちする。転校生の少女はそれを聞きながら何度かこちらを振り返っていたが、やがてそのまま花子の視界から消えていった。

聞こえなくてももうわかっていた。あの明るい少女にもおそらくこの学校の汚い常識が吹き込まれてしまったのだろうと。そしてきっと、彼女とはもう二度と会話をする機会などないのだろうと。たった二、三回言葉を交わした程度でほんの少しでも期待し、心を痛めている自分に嫌気がさす。こんな現状で、期待など無意味だというのに。

未だいくつか散らばったままの荷物を拾い集めて急ぎ足でその場を後にする。徐々に興味を失ったように自分たちの会話や行動を再開させる同級生たち。音楽室に向かう階段に差し掛かってなんとなく後ろを振り返った時にはもう、花子のほうを見ている人間は居なかった。




「どうしてよ。」

吐き出したその言葉を聞く相手は居ない。あの女子生徒の行動……否、正確には自分が置かれている現状そのものに対する憤りと反論が今更ながらに口から溢れ出していく。

「なんでみんなしていじめの話をどんどん広めていくのよ。少しくらい私の味方が居てもいいじゃない。助けようとしてくれたっていいじゃない。いくら四宮さんがお嬢様だからって、人気者だからって、いじめは悪いことなんじゃないの?なんで誰一人止めようとしないのよ。」

足を進める。地図を確認しながら先へ、先へ。こみ上げる涙に視界が歪み、制服の袖で目元を乱雑に拭った。拭う間も足は止めない。

「私、なんで家でも学校でもあんな扱いされなきゃいけないの?どこでなら私、普通に扱ってもらえるの?」

止まってしまえば今朝まで理由もわからないまま感じていたあの躊躇いがまた戻ってきてしまう気がした。

自分には死ぬしか救われる方法がないのだという結論がどこか揺らいでしまう気がした。

「なんで私がここまでされなきゃいけないの?私、ここまでされなきゃいけないこと、何かした?……だったら、私が何かしたなら、何が悪かったのか教えてよ……っ!」

悲痛な叫び。それでもこの場所には誰もいない。誰ともすれ違いすらしない。叫べば叫ぶほど、虚しさが心を蝕んでいく。

手を差し伸べて自分の傍に立ってくれる人間などもうどこにもいないのだろう。

「……『死にたい』。」

フィルター越しに聞いているような自分の声は、まるで自分のものではないようで。

「『死にたい』……『死にたい』、『死にたい』『死にたい』『死にたい』『死にたい』……っ!」

口にする度、自分の歩幅が大きくなる。

自分の生命線が縮んでいく。

ずきずきと胸が痛む。

呼吸が乱れる。

涙が落ちる。

……もういい加減、解放されたい。

数歩先に見える最後の曲がり角。そこを左に曲がれば、もう終わる。――解放されるはず、なのに。

「……っ……。」

あと一歩というところで、背中を押す希死念慮に対抗する何かに阻まれそこから動けなくなってしまった。ほんの少し、もうほんの少しだけ踏み出せば。夕日の朱い光が差し込むその中に足を踏み込みさえすれば、望んだ安寧が手に入るのに。

動け、と小さく自分に言い聞かせるように呟いても動かない足。今更怖いとでも言うのか。一体何が怖いというのか。恐れるべきは、この苦痛がこれから先もずっと長く続くことではないのか。

「(ここまで来たのに。……こんなところで立ち止まってたって、仕方ないのに!)」

心の中で響く叫びの代わりに、止め処なく溢れる涙。

コンクリートの冷たい壁に手をつき、ずるずるとその場に座り込んだ。

苦しい。辛い。痛い。こんなものはもう嫌だ。楽になりたい。

角の向こうの光の先。そこに居るはずの殺人鬼。行けないのなら来てもらおう。縋るように、花子は切実な願いを叫ぶ。


「た――「た、助けてくれえぇぇっ!!!俺は、俺はこんなところで死にたくないんだよぉっ!!」


その声は、その倍の声量の、野太い絶叫に掻き消された。

ずしゃ、と倒れこむような音と共に夕日の明かりの中に影が現れる。驚き絶句する花子の目の前で、その影はずりずりと音を立てながらゆっくりと近づいてくる。その影の動きからして、叫び声の主は地面に尻もちをついたような状態で後ずさりしているらしい。その上に第二の人物の影が重なった。

「あっはは!何言ってんの?君、あんなの『殺してください』って言ってるようなもんじゃん。」

酷く怯えた様子の男の声と対照的な、嘲りを含んだ軽い声。男の声は何度も「来るな」「助けてくれ」と繰り返しているが、中性的なその声の主は全く相手にしていないようだった。

この角の向こうで何が起きているのか覗き込んで確かめる勇気もないまま、ただ目の前の影の動きに目を奪われる花子。

「いやぁ、それにしても笑えるよね。わざわざつどったーで僕の――連続殺人鬼のフリまでして死にたがりの女の子に片っ端から声かけて、うまく引っかかったら無理やりシてやろうって算段だったわけだ。もう、最っ高に気持ち悪かったよ!僕は何も言ってないのに勝手にSonoさんだと勘違いして肩抱いてきてさぁ。挙句に耳元で『最期なんだからいいだろ?』って……あー、気持ち悪かったぁ。」

『本物の連続殺人鬼』がけらけらと馬鹿にしたように笑いながら語る、『自称殺人鬼』だったらしい男の目的。その口から語られた出来事が本来自分の身に起こる予定だった、と考えると全身に鳥肌が立った。確かに自分は殺してもらうためにここまで来たが、死ぬのだからといってそんなことを強要されるなど考えるだけでぞっとする。少なくとも自分は、人権までも投げ捨てに来た訳では無いのだから。

そしてそれは同時に、恐らく女性なのだろうと思われる殺人鬼にとっても不快な事であったらしい。

「君がSonoさんのこと呼び出した場所を予想して先回りしてきてみればとんだセクハラ被害だよ。あんまりにも気持ち悪くて気持ち悪くて、思わず君の脇腹刺しちゃったじゃん。あーあ、君も他の人と同じように、一瞬で済ませてあげようと思ったのにさー。」

欲に踊らされた哀れな男との距離をさらに詰めた殺人鬼の影が、片手に持った鋭い何かをくるりと閃かせた。

「ひっ!!?い、いやだ、嫌だ!俺は、俺はまだ――」

「まぁまぁそう遠慮しないでよ。痛いの嫌でしょ?すぐ楽にしてあげるから……大丈夫、だよ!!」

少し力を込めた声と同時に影が手にしていた凶器が振り下ろされ、眼前の影の上に鮮血が飛び散った。

「――――――っっ!!!」

上体を地面に倒した男が角の先から頭だけをこちらに出した。大きく切り開かれた首の傷口と白目をむいた男の顔がはっきりと視界に入り、思わず口元を手で押さえる。悲鳴を上げずに済んだのは奇跡だっただろう。

ピクリとも動かなくなったその男性に、殺人鬼は一層高く楽しそうに笑い声をあげる。

「あっっはははははは!!!ご愁傷様だったね、おにーさん!結局なんの欲求も満たせないまま死んじゃった!これに懲りたらもう勝手にこんな気持ち悪いことの為に僕の肩書き使うのは……って、もう次なんてないか。」

その後も何か呟きながらごそごそと何かしているらしい物音がする。何をしているのかは勿論のこと、何を喋っているのか、その内容も全く頭に入ってはこない。

――ただ、自分の気持ちが理解できなかった。

死ぬことなんて怖くないはずだった。

死による救済を求めたはずだった。

だから連続殺人鬼に会いに来た。殺されるために。

約束を交わした相手は確かに偽物で、偽物の思惑は予想外のおぞましいものだったけれど……今この壁の向こうにいるのは本物の連続殺人鬼。

それならば、経緯はどうあれ結果として目の前にあるのは望み通りの状況だ。

ここから顔を出して、殺してくれと頼むのが本来の自分の目的ではなかったのか。

それなのに、何故自分は今息を潜めて逃げようとしている?

何故こんなにも恐怖している?

おかしいじゃないか。だって。

「(私は……全部終わりに、したかったはずじゃ……?)」


「──ねぇ、聞いてる?」


「っ!?ひ……!!?……え……?」

突然目の前に現れた顔に咄嗟に後ずさり、困惑する花子の様子を見てまた笑う。

「あはっ、やっぱり聞いてなかった?『よかったね、デリカシーのないことされずに済んで』って言ったの。」

にこにこと笑顔で話しかけてくる彼女。その様子は一見すれば普通の世間話でもしているだけのようだった。顔や衣服に返り血を浴びている事さえ省けば、だが。

「だけど、もう少しゆっくり歩いてれば良かったのに。ああ、でも君にとっては望んだ結果になるのかな。」

恐怖と戸惑いに一歩下がれば相手も一歩踏み出してくる。隠れていた彼女の体が壁の向こうから現れた。

纏う衣服は紛れもなく自分と同じもの。

長い栗色の髪はあの時と同じ髪型。

明瞭に話すその声は、ああ、何故気づかなかったのだろう。あの少女と全く同じ声だということに。

「──ねぇ、そうでしょ?死にたがりの園田さん。」

小野里七華。

そう呼ばれていた転校生は、冷笑と共に右手の殺意をこちらに向けた。

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