『日常』の綻び

「花子さーん、そのスリッパどうしたのぉー?」

教室中に響く厭味ったらしい女の声。

三人の女子生徒が教室の隅、一人の少女の席を取り囲むようにして立っているのを他のクラスメイト達が遠巻きに見ている。面白がるように観察する者もいれば、関わらないようにとそっと目をそらす者、あるいは視線すら向けずに我関せずを貫く者。反応こそ人それぞれではあるが、この教室にいる誰もが「ああ、今日も始まったか」とその光景を日常風景として認識していた。

「自分が住んでるからってトイレのスリッパなんて履いてこないでよ。教室の床汚くなるじゃん!」

「ま、でも靴も汚いもんねー。」

くすくすと笑う三人。彼女らが取り囲んでいる少女は学校の名前入りの黒いスリッパを履いているものの、それはもちろんトイレのスリッパなどではない。そんなことは三人も承知の上であり、また取り囲まれている張本人、園田花子も三人がわざとそう言っているのだと理解している。そもそも、花子が来賓用のスリッパを借りる羽目になった原因も彼女らの仕業であるのだから。

かと言って、そう反論したところで誰も自分の言葉になど一々聞く耳をもってはくれないことも分かっている。意味の無いことをしても仕方ないのだが、それでも胸の内の反抗心を込めて真正面に立っている少女を無言でじろりと睨んだ。

「うわ、初乃のこと超睨んでるんですけどー。」

「やだぁ、『トイレの花子さん』に呪われるー!」

けらけらと笑い意にも介さない。腹立たしさを募らせながらも彼女から視線を逸らし、早くこの時間が終わらないものかと軽くため息をついた。

四宮初乃。このクラスの、もといこの学校の有名人。彼女が四宮財閥の令嬢であるという事実が彼女の名前を学校中に知れ渡らせる大きな要因になったことは疑う余地もない。加えて、強気でわがままな面はあれど友人達には人並みに優しく接しており、加えて容姿にも恵まれている彼女の周囲には決して人が絶えることが無い。

自分の周囲のもの全てを味方につけているかのような、そんな彼女に目をつけられたのは中学校三年生の頃だった。きっかけはわからない。少なくとも自分は何かを明確に指摘されてはいないし、誰かに何かいじめの原因になるようなことを指摘された記憶もない。それまで花子と初乃は目立って関わったことすらなく、更に言うなら初乃が誰かをいじめている姿など誰も見たことがなかった。

なんの前触れもなく始まった花子へのいじめは、初乃の知名度と周囲の取り巻き達によって瞬く間に周囲に広まっていき、今や学校中の人間が事実上初乃の味方になっていた。

「初乃ちゃん、もうすぐ先生来そうだよ。」

「あ、ホントだ。もうすぐチャイム鳴るじゃん。じゃあ花子さん、後でねー。」

クラスメイトのうちの一人に声をかけられ、初乃達は意地の悪い笑みを浮かべて立ち去っていく。チャイムが鳴るまで残り数分。何をするでもなく窓のほうに視線をやれば、そこに反射して映る教室の景色の中にこちらを見ている一組の女子生徒がいた。なんとなくそちらへ振り返ってみれば、二人は気まずそうに慌てて視線を逸らした。

中学時代、いじめが始まる前は花子にももちろん友人がいた。それが彼女たちだった。いじめが始まった当初は花子を励まし積極的に傍に居ていくれた二人だったが、いじめによる嫌がらせがエスカレートしていくにつれて花子に向ける表情がぎこちなくなっていき、そして……現状に至る。

『せめて一緒に帰ろう』『帰り道で愚痴でもなんでも聞くよ』と言ってくれていた友人がある日、自分を置いて校門を出ていくのを教室の窓から見つけた時の感情は昨日のことのように覚えている。それならすぐに自分から離れてくれたほうがどれだけよかったか。いや、最初から友人にすらなっていなければ、裏切られた悲しみなど感じずに済んだのかもしれない。

そう思い耽ったところで時を戻すことは出来なければ、過去の事実を変えることもできない。花子もまたかつての友人達から目を逸らして、また窓の外の世界へ意識を戻した。

もうしばらくすれば教師が来て授業が始まる。ほかの生徒達にとっては退屈でしかないその1時間弱は、花子にとって比較的安心して過ごすことのできる時間だった。






街灯がぽつぽつと明かりを灯し始めるころ、ようやく自宅の冷たいドアノブを捻った。

「……ただいま。」

「ああ、おかえりなさい。」

リビングに見えた背中に声をかけると、こちらを見ることも無く淡々と返される返事。母の背中越しにノートパソコンの小気味よい音が聞こえてくる。

ピリピリと張り詰めた空気から察するに、なにか急ぎの仕事をしているのだろう。そのままリビングの前を通り過ぎて2階の自室に向かおうとしたところを呼び止められる。

「……どうかしたの?」

「コーヒー。」

相変わらずこちらを向かないまま、白いシンプルなカップが持ち上げられる。母を刺激しないよう、極力母には近づきたくなかったのだが指示されたからには従わざるを得ない。掲げられているカップを受け取ってキッチンに向かい、インスタントコーヒーの粉をだす。

母とのこのような関係が始まったのは母と父が離婚してからすぐだったか。元々家庭よりも仕事を重要視する傾向のあった母は家の用事や雑用を何かと花子に押し付けるようになり、親子というよりはさしずめ家政婦と雇い主のような関係になり果てている。結婚し花子を産むまでがどうだったのかはわからないが、花子が物心ついた時には家のことはほぼすべて父がこなしており、母はことあるごとに父に怒りをぶちまけていたように記憶している。

「(お父さんも毎日こんな気持ちで過ごしてたのかしら。)」

母に何か用事を頼まれる度にそんなことを考える。もしそうだったならば父が他の女性に心変わりし、ある日唐突に自分たちの前からいなくなってしまったのも無理はない。父が家を出ていく際、自分にだけ謝罪を述べていった理由にも合点がいく。

「(謝るなら連れて行ってくれたらよかったのに。そうしたら……)」

「花子。」

「っ……何?お母さん」

何か気に障ることをしてしまったかと慌てて顔を上げる。今日初めて自分と目を合わせた母はやや不機嫌そうな表情だった。

その表情は以前にも見たことがある。そういえば先ほど、軽くとはいえ無意識にため息をついてしまったような。

「あんた、また『いじめられてる』とかなんとか面倒な事言うつもりじゃないでしょうね。」

「……大丈夫。」

「そう。ならいいんだけど。」

ふい、とまた画面に戻される視線。わかってはいたが、ほんの少しの失望が重く肩にのしかかるように感じた。


かつていじめのことを母に相談したことがあった。その時にはすでにほぼ現状と変わらない生活を送ってはいたが、それでも血の繋がった家族である母ならば励ましの言葉なり助言なり、何か花子の助けになるような言葉をかけてくれると信じていた。ところが母はあっさりとその期待を裏切ったのである。しばらく部屋から出たくなくなるほどに悲しみ落ち込んだことはきっと一生忘れることはできないのだろう。

『……だから?だから何なの?』

『え、……その、』

『私が仕事で忙しくしてることくらい知ってるでしょう!?余計な面倒事まで持ってこないでちょうだい!』


「花子!コーヒー一杯入れるのにどれだけ時間かけてるの!?」

「あっ……ごめんなさい。」

ぼんやりと数年前の出来事を思い返していると、ついに母の怒声が飛んだ。これ以上母を刺激しないよう急いで、しかし絶対にこぼさないように母のもとへカップを運ぶ。自宅に居ても、母と同じ空間にいる間は一瞬たりとも気が休まることはない。極力母の神経を逆撫でしないよう自分の一挙一動に細心の注意を払って行動し、リビングやトイレなどの共用空間を使う時も後から母が使用する際に機嫌を損ねかねないものが無いようにしなければならない。今日も母が無言でコーヒーに口をつけるのを見届け、リビングに何もやり残していないことを確認してから部屋を去る。階段を上がり自室のベッドに倒れこむと、今日初めてやっと息をつくことができた。

初乃達に壊される可能性を回避するため、学校には持っていかず枕元に置いたままにしていたスマートフォンに手を伸ばす。……こういった物を買い与えてくれる辺り、一応自分の子供だという認識はしてくれているのだろうか。ロックを解いて表示された画面の一番左上に配置している紺色のアイコンをタップすれば画面いっぱいに紺色が広がった。中央に白い文字で「つどったー」と表示された後、白い画面に誰かの独り言のような短文がいくつか並んで表示される。かつての友人と共に始めたSNSの一つだったが、今は彼女らとの繋がりはなくなってしまっている。それでもなんとなく惰性で使い続けているツールではあるが、あまり踏み入れたくないリビングにあるテレビの代わりの情報源として自分の生活には欠かせないものとなっていた。

『古原町の連続殺人事件、まだ犯人捕まってないの?怖っ!もう六人目じゃん!』

不意に、そんな言葉が目に留まる。

花子が住む大戸叶市に隣接している町。あまりに身近な場所での大事件についてのそのコメントはつい二日ほど前に発信されたもののようだった。気になって検索バーに『連続殺人事件 古原』と打ち込んでみれば、関連情報のまとめにすぐに行きつくことができた。

『約一年前から古原町を中心に起きている連続殺人事件』

『現場には犯人に直接繋がるような手がかりは一つたりとも残されていない』

『被害者達に明らかな共通点はなく、無差別的な通り魔であると考えられている』


『被害者は皆、首の頸動脈を鋭利な刃物で切り裂かれてほぼ即死であったと思われる』


「……即死……。」

端末から目を離して想像する。痛みも何も感じる間もなく唐突に自分の命を奪われ、そしてそれ以降自分はもう何も感じることができなくなるのだ。それなりに幸せに生きている人達からすればそれはどんなにか恐ろしいことなのだろう。

けれども、そうでない花子はそれほど恐ろしいことだとは思えなかった。寧ろ――

『私の事も、殺してほしい』

打ち込んだネガティブな文章。送信すれば数々の独り言の一番上にそれが並び、そしてまた別の誰かの独り言がその上に積み重なっていく。

自分の言葉が電子の海に飲み込まれていく様をぼんやりと見つめていれば、ピコンと通知欄に赤い印がついた。開いてみれば一件の返信通知。

『そんなに思い詰めないで。あなたにはあなたが思ってる以上の価値があるんだよ。』

自動返信による定型文で機械的に励まされる。なんとも言い難い虚しさを覚え、一週間ほど前に試しにフォローしてみたその無人アカウントをそっとブロックすると宿題に取り掛かる為に重たい体を起こした。もうしばらくすれば今度は夕食の準備もしなければならない。それまでに少しでも終わらせておかなければ……。

ピコン。

背後で再び通知音が鳴った。先程のアカウントの他に自動返信のアカウントはフォローしていなかったはず。一体誰が、と閉じた画面を開いて──息を飲んだ。


『だったら、殺してあげようか?』






「あーあ、めんどくさいなぁ。やっと『先生』から離れられたと思ったのにさー。」

明滅を繰り返す街灯の足元に俯いて座り込んでいる人影。その目の前に立つ少女は心底うんざりした声で愚痴を漏らしているが、座り込んでいる人物はその声に答えることはなく、少女もその人物から何か反応が返ってくることなど微塵も期待していない。それもそのはずだ。座っている女性は少女によって先程殺されたばかりの、七人目の犠牲者なのだから。

赤いスマートフォンを手慣れた様子で操作していた少女は、しばらくするとため息をつき、そのまま体の向きを変えて歩き出した。

「はいはい、帰りますよ……。ちょうど後始末も終わってたし。

 まぁ別にあっちでも、僕は僕のやりたいようにやるだけなんだけどねー……ただ、いろいろ覚えなおすまでが面倒ってだけで。」

ぶつぶつと文句を漏らしながら、画面の中に流れているコメントを適当に流し読みする。先日自分が殺した六人目のニュースが報道されたからか、『古原町連続殺人』という単語がよく検索されているワードのランキング上位に入っているようだ。それを示すように、自分の見ているホーム画面にもその関連のコメントが多く流れている。

「『もう六人目』?……さっきもう一人逝ったとこだよ。次が君にならないように気を付けなよねー……?」

どこか他人事のように淡々と呟いていた彼女の目が、あるコメントを見つけた瞬間に少し驚いたように軽く目を見開く。そして何度か画面の操作を繰り返すと、先程までの不服そうな様子とは打って変わって楽しそうに口元を歪めた。

「……ふっ、あはは……っ!ああ、いいよ。そんなにお望みなら殺してあげる。大戸叶での最初のターゲットは君に決まりだ。

 その為に……まず君の事を見つけなきゃね。ねぇ、『Sono』さん?」

画面に表示されているのは『Sono』というユーザーのプロフィール画面。そこには無防備にも、彼女の個人情報が堂々と晒されていた。

――『大戸叶高校二年生』という、個人特定にはあまりにも有用すぎる情報が。

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