紫苑

何もかもが充ち足りていて、何もかもが足りなかった。世界はいつも僕の知らないところで回っている。


丘の表面を埋め尽くすように敷き詰められた住宅街の中をかけていく。まだ冷たさが残る空気に混じった白い息と規則的なリズムでアスファルトを蹴る音が早朝の静かな街に響く。緩やかに続く坂道。ほとんど無意識に出来ていた呼吸はしだいに僕の意識の大半を占めていく。足が重たい、胸が上がる。


もうここで止まってしまおうか。


そう思う。けれどここで立ち止まってしまえば頂上までずるずると歩いていってしまうんだろう。腕時計のストップウォッチを確認する。不安に似た何かわからない正体不明のものに背中を押されて、僕は坂道を駆け上がった。


ドーナツ型をした円形のロータリーに着いて腕時計のボタンを押す。タイムは昨日より縮まった。ゆっくり歩道を歩きながら息を整える。首筋を流れる汗が冷えていくのを感じながら光の温もりの中に体を浸した。陽の光が射すのはさっき駆け上がってきたばかりの坂道。そこから昇ったばかりの朝日と駅ビルが遠く見えた。あと1時間もすれば川を渡る線路はたくさんの人を運んでいくんだろう。液晶の向こう側、切り取られた世界に。ビルを渡る橋の上で炎に包まれた身体。交差点を横切るトラック。地下では急き立てられるように傘を突き立て、地上では一歩を踏み出せてしまった命が忙しない溜息にかき消される。


僕はただ見てみたいんだ。誰かの目じゃなく自分自身の目で。


僕はまたゆっくりと走り始めた。

耳をすませば街が目を覚ます音が聞こえる。

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Tokyo Colours 伊ノ守 静 @sei_anemone

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