羅刹と修陀(二)

 そんな折、有馬左京吉継は於菊を。飯田濠の神楽河岸を少し北へ行った辺りであった。


 屋敷へ帰る途上、中間が昏い水面にぶかりと浮く振袖を見つけた。揚場も近く、陽のあるうちは人足で賑わっているものの、いまは人影ひとつない。月は半ば欠け、指差す先が着物なのか、身投げしたかばねなのか、判別がつかなかった。


──面倒な。


 思いながらも、近くの辻番へ中間をやった。梅雨の間の、泣かずに持った一日だったが、すでに西から雲が寄せていた。


 ほどなく駆けつけた番人は、柄の長い鉤型にひっかけ、陸へ引き摺り上げた。ぼたぼたと辺りを濡らす。身投げか、落ちたか、落とされたのか。横たえられ、提灯に照らされた顔は十六、七。稀に見る美形だが、すでに紙のように白い。


「あ、こりゃ、神楽坂の大黒屋の娘でございます」


 番人のひとりが言って、おどおどと顔を見合わせる。


「どうした」

「お畏れながら、殿様。この娘、あたりで有名ななんでさ」

「小町娘なんですが、去年の穴八幡の祭りを境に、おそろしげなお狐様に憑かれちまって、そりゃあ、もう」


 と、道具を抱え、申し合わせたようににじり下がって行く。


「どこだ」

「どこ、と申されますと」

「身元がわかるのであれば、届けてやるのが筋であろう。その大黒屋とやらは、どこにある」

「へえ」


 へえと言ったきり、無言で押し問答がつづいた。





 結局、金子を掴ませ駕籠を呼ばせた。駕籠掻きも、乗せるを見てあからさまに嫌がったが、無言で睨む有馬に、渋々ながら従った。


 中間を先に帰し、駕籠掻きについて行く。

 酔狂が過ぎると思ったが、狐憑きと美形の屍である。ことの行方が気になった。


 大黒屋とは青物問屋のようで、行幸寺を左に折れた白銀町にあった。旗本屋敷の壁の向かいに三軒並んだ店の右端、かぶららしき看板を掛けた、間口一けん半の店である。往来はとうに絶え、武家地の緑陰が黒々としていた。


「ご苦労」


 有馬は、駕籠から娘を下ろすと肩に担いだ。駕籠掻きは、相場以上の代金を握りしめ、見る間に駆け去って行った。


 有馬は、見かけよりも重い娘をひと揺すりした。


「名はなんと言う」


 すると、だらりと伸びた娘が、背中でくすりと嗤った。


「なんだ、気づいてたのかい、殿様」

「名だ」

「於菊」

「何をしていた」

「べつに」

「命拾いをしたな」

「まさか」


 有馬は、無造作に投げ下ろした。

 娘はくるりと身を返し──たまではよかったが、無様に地面へと落ち、呻きながら半身を起こした。

 有馬は大刀を抜くと、娘の鼻先へ鋒を向けた。


「何者だ」

「だから、於菊だよう」


 ざんばらの髪の間に、眸が穴のようだ。にやりと笑う。

 その時だ。

 大戸が開き、灯りが漏れた。ゆうに六尺はありそうな黒々とした影が立つ。奥からは殺気というか、鬼気というか、おのれが動けば奔流となって押し寄せてきそうな気配がした。


(なるほど)

 謎が解けた、と思った。急速に興味が失せる。


 於菊は動かない。有馬を見上げ、嘲るように、嫣然と笑んでいる。が、土を掴む指に有馬は首を傾げ、笑み返した。刀を引き、わざと音を立てて納める。


「酔狂も良い加減にしろ」

「殿様も」

「手当せい」


 誰も追って来なかった。それを惜しいと思いながら、有馬は南へと、神保小路にあるおのが屋敷へと下って行った。





 それからひと月ほど経ったのちである。夏のうだるような晩であった。


 有馬の家は、旗本小普請組七百石の旗本である。似たり寄ったりの旗本屋敷が連なる一角にあり、八百坪あまりの敷地に母屋と離れの隠居所、代々の大殿様が丹精している牡丹の庭がある。


 隠居所の主人はない。

 十になる一子鶴松が元服し、家名を継げば、直におのれが住うだろう。そうなれば、城勤めに煩わされることもない。元々おのれが嗣ぐものではなかった。余生は、父祖が遺した盆鉢を丹精すればよいだろう。

 妻は鶴松の産褥の床で逝った。まだ、十九だった。


──そうか。


 有馬は、ようやく気付いた。あの於菊とか言う娘。面差しがどことなく似ていたのだ。


「探したよ、殿様」


 それゆえか、突然目の前に立たれても、有馬は驚かなかった。数百の牡丹の鉢が並ぶ庭に立ち、半ば闇に溶けた黒繻子の振袖に、口許にあかるい紅をさした


「見つけたよ、殿様」

「ああ」


 これがおのれの命運であろう、と悟った。




(続く)













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