犬と猿(奈落の下)

「行ったぞ」

 伊佐次が遠ざかるのを確かめ、有馬吉継は奥の襖戸を開けた。

 立膝の於菊が島田を解いている。振袖を脱ぎ散らかし、櫛笄を放り出して、襦袢姿で鏡に向かって顔を顰めていた。


「於菊、おまえらしくもない」


 舌を鳴らし、器用に元結へ鋏を入れる。肩に落ちる髪を束ね、前に回して櫛を入れだした。


「ああ、おいららしくもない」

「どうした」


 吉継は豊かな黒髪に指を滑らせ、一握りにした。顎が上向き、開いた口唇から白い歯が覗く。引き戻して、於菊は睨んだ。


「殿様、苛々するのさ。あの親分さんの顔を見ていると、妙に苛々するんだよ」

「一介の岡っ引など、お前の眼中にはないだろう」


 取り戻し、しばらく無言で髪を梳く。やがて、器用に丸めて碧い玉のついた笄一本で留めた。


「犬なら、犬らしく居りゃあいい」

 なのにあいつは、と於菊は鏡を睨む。


「殿様。この世を生きていくには、犬として生きるか猿として生きるか。おいらはその二つしかないと思っている」

「犬と猿か」

 面白がっている口調だ。


「ああ。だけどね、おいらは犬にも猿にもなれねえ性分だ。だから十の時に、ただの於菊として生きることにした。殿様だってそうだろう」

「儂もか」

「ああ。若隠居したのはどうしてさ」


 なにが気に入らないのか、於菊はまた頭を振って髪を解くと、梳きはじめた。


「たかが、おいらの命と人様の命。それぐらい、好きにさせてくれろ」

「儂にはどうでもよいがな」


 於菊は笑んだ。


「殿様、だから好きなのさ」

「それほど、儂に嬲られたいのか」

「まさか」


 吉継は於菊を抱き寄せた。懐に手を入れ、厚く巻かれた晒に眉を顰める。於菊は首に手を回し、耳に口を寄せる。


「さ、御前、解いておくれな。生娘のように恥じらってみせるかい」


 吉継は目を細め、於菊の首筋を舐め上げ、その塩を愉しんだ。


「儂は、其方の肌に狂うてるだけかもしれんな」

「まあ、御前。それ以上、生きるになにが要りましょうや」


 あどけない作声で囁くと、於菊は大きく背を撓らせた。




(犬と猿、了)






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