犬と猿(三)
伊佐次が陣取ったのは
そして、次。
中盆の合図で、壺と賽子が交錯した。吸い付く白い指を追いかけ、手持ちの駒札をすべて押し出す。
「半」
一瞬、場が白む。気を取り直した中盆が、丁半と声を掛け仕切っていく。
「どちらさんも、ようござんすか」
伊佐次の積んだ札は法外だ。誰もがその行方に固唾を飲んだ。
「駒が揃いました」
壺振が両手を開く。いかさまなど縁遠い涼しい顔だ。
「勝負」
「四六の丁」
溜息が漏れ、座を離れた客が伊佐次の肩を次々と叩いていく。
娘の
伊佐次は笑み返した。
座を立つ。
「兄さん、今夜はツキがなかったですかい」
「ああ。そんな日もあるさ」
また来る、と三下へ言い置いて、伊佐次は長屋を出た。
「ご苦労さんでございます」
門前で提灯を掲げた小者へ腰をかがめ、潜戸を抜ける。角を曲がってようやく、首筋の汗を拭った。
翌日から日をおかず、伊佐次は有馬屋敷へ通った。見張りを退かせ、誰も近づかないよう言い渡す。夕刻に出掛け、木戸が閉まる時分には戻ったが、何がどうなっているのか、誰にも告げなかった。
さすがに十日目となって、古参の手下、三吉が意見をしてきた。
「皆、心配してまさあ」
「だろうな」
伊佐次は、煙草盆を引き寄せ、灰を落とす。
「有馬屋敷は、近頃ちょいと名が知られてきています。親分を見知った流れ者がいるかもしれません」
「
反故を紙縒にし、吸口を外して掃除にかかる。高価な煙管ではなかったが、伊佐次にとっては
「そろそろ
「伊佐次さん」
餓鬼の頃とは違い、滅多に名で呼ばない。目下に示しがつかないと、
「心配えするな。絡め取られちゃいねえよ」
三吉は、強情な犬のようだ。
「ちいとばかし考えがある。あと数日、見逃してくれろ」
伊佐次に目を据え、やがて頷いた。
「出過ぎたことを言いまして」
「馬鹿言うな。おめえがそんな真似したことねえだろうが」
紙縒の先を、雁首から引っ張り出す。てらりとした
その晩も、伊佐次は神保小路の有馬屋敷を訪ねた。門番も賭場の三下も、えらく愛想がいい。小銭を握らせた所為もあろうが、多からず少なからず金を落とし、後腐れなく遊んで帰る。誰と揉めるでもなく、壺振の娘へちょっかいを出すでもない。手の掛からぬ上客と見たのだろう。
今宵も一度勝ち、一度負けて伊佐次は引いた。
「お帰りですかい」
「ああ。少しここで休ませて貰っても構わねえかい」
寄ってきた三下に──桃作というしおらしい名を嫌い、栗作と名乗っているらしい──それとなく小銭を握らせる。
伊佐次は上框に掛け、筒から煙管を出す。一服点けて、ふと言った。
「厠はどっちだい」
「へい。奥の廊下のいっとう突き当たりでさ」
「ちょいと借りるよ」
今宵の壺振は四十絡みの小男だ。外連味のない勝負師のようで、それはそれなりに面白い。
伊佐次は灰を落とし、丁寧に煙管を拭った。
月の冴え冴えしい晩だった。
伊佐次は懐から草履を出すと、植込みを跨いで近づいた。
「壺振の姐さんだね。おまえさんの猫かい」
ちらりと眦を上げた。子猫の首筋を摘み上げ、縁の下へと放る。親猫がいるのだろう、闇から啼き声がした。娘は顔を伏せたまま、伊佐次を見ようともしない。
「驚かせたようだ。すまねえな」
背を向けると、
「波切りの親分じゃござんせんか」
「あんた、俺を見知ってるのかい」
間は二間。振り返ると、娘は嗤っていた。
「親分を知らない渡世人はもぐりだろう。ああ、違うね。ただの間抜けさ」
脹脛も露わに、ぶらりぶらりと足を揺らす。両の手を突いて顎を上げ、ぽってりとした口唇を嘲りに歪める。菩薩にも似た美形だけに、一層毒々しい。
「あんた、何者だ」
「しがない鉄火場の壺振でござんすよ」
「名は」
「於菊」
一歩踏み出した。瞬時に跳び退る。猫のようだ。
「いけないねえ、親分さん。此処はお旗本のお屋敷うちだ。もしいま、此処で金切声を上げて」と於菊は衿元を寛げる。白い頤を撫で、おのれの胸元に手を入れ、殊更目を細める。「手籠にされかかったって訴えたら、こりゃ見ものだねぇ」
「そうだな」
伊佐次は動じない。
「於菊、さんとやら」
「あいよ」
「俺は、いま人を探している。うちの若い
「おおこわい。そりゃ、お気の毒に」
「馬鹿力の夜鷹を知らねえかい」
「知らないねえ」
於菊はふっと笑んだ。
「ご愁傷様。それじゃ、あたしはこれで。御免下さいよ」
(あの女だ)
伊佐次は後を追った。
棟続きの長屋の角を曲がる。これ以上奥へ入っては拙い。ここは町方ではないのだ。
於菊の足取りに迷いはなかった。幾度も角を曲がって母屋から遠ざかり、やがて垣と小さな門を抜けると、辺りの様子が変わった。
鉢の庭だ。立派な建家に面して庭があり、二段に板を渡した棚に瀬戸と土鉢がこれでもかと並んでいる。伊佐次は於菊を追って、奥へ奥へと歩み入った。月下の鉢の庭は、どこか墓場に似ているようだ。
「下郎、何用だ」
建家の水腰障子が開き、大刀を手にした影が立った。
伊佐次は、その場に平伏した。
「ご無礼いたしました。手前は伊佐次と申します。お長屋をお訪ねしておりましたが、こちらの牡丹の話を聞いて、一目見たいとつい踏み込んでしまいました」
お許しをと、さらに平伏する。
「ほう」
と、声が和らいだ。
「其方、牡丹が好きか」
「へい。有馬の大殿様は、玄人顔負けの寒牡丹を育てなさる。しかも、町方に気軽にお分けくださると聞いております」
伊佐次は、わずかに顔を上げた。
隠居というが、まだ若い。四十後半か五十と踏んだ。面立ちはよく見えないが、刀を左手に持ち、わずかに右足を踏み出している。
「ならば一鉢持っていけ。枯木のような枝に大輪が点くぞ。奇妙だが、美しい花だ」
「よろしいんで」
「構わん。此度は牡丹に免じて咎めん。次はないと思え。よいな」
「へい、肝に銘じまして」
「さっさと去ね」
殺気が失せる。伊佐次は気配が去るまで、その場に平伏していた。脇を流れ落ちる冷たい汗に、息を整える。
(仕切り直しだ)
於菊と名乗ったあの娘。何処に消えたのか。
伊佐次は、手近な鉢を抱えた。振り返るこどなく来た道を引き返した。
(続く)
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