犬と猿(二)
神保小路の有馬屋敷とは、旗本小普請組七百石、有馬左京の代々の住居であった。似たり寄ったりの旗本屋敷が連なる一角で、八百坪あまりの敷地に母屋と離れの隠居所、その大殿様が丹精している牡丹の庭に門から続くお長屋と、目立つ処のないこじんまりとした屋敷であった。
「親分、それがまあ、ひでえ鉄火場でして」
少し離れた居酒屋で、伊佐次は手下の鬼牛を相手に一本付けていた。すでに日は暮れ、秋風も冷たい。小綺麗な店だが味も小綺麗で、大根の漬物を噛み砕きながら、なんとはなしのもの足りなさに、ふと生姜かねと思い到る。
目の前の手下は丼飯をかっ込み、目を細めて飲み下していた。鬼牛は十七。まだ育ちそうな、ひょろりとした破落戸だ。名に似合わぬ優しげな面立ちは一見害のなさそうな様子だが、怒らせると収まりのつかぬ暴れん坊でもあった。
それが、伊佐次にだけは懐いている。世話になった女から拝み手で頼まれ、目端が効くこともあって、今年から見習いとなった。
「どういうことだ」
「博打というより、悪どい金貸しなんでさ。有馬屋敷は入ったら最後、すぐにすっからかんになっちまって、けれど帰しちゃくれねえ。帰りたくもねえ。貸してやるからと甘く囁かれ、借りちまったら最後、
「それほど巧い壺振がいるのか」
鬼牛は、年に合わぬ下卑た笑いで口の端を歪めた。
「胸に晒しを巻いた大層な別嬪が、諸肌脱ぎで振ってくれるそうですぜ。いや、おいらもちょっと」
「百年早えぞ」
「ちえ」
口を尖らす様は年相応だ。
「誰が張っている」
「へえ。三吉の
「そうか」
伊佐次は多めに酒代を置くと、
「適当にやって、さっさとおっかさんのところへ
「ええっ」
「おめえは見習いの預り者だ。文句なら、てめえのおっかあに言え」
なにやらぶつぶつ言う鬼牛を残して、伊佐次は当の屋敷へ向かった。絡げた裾を下ろし、有馬屋敷からひとつ折れた、町人町との境にある町屋へ入った。
「親分」
古参の手下三吉は、窓の障子戸を少しだけ引き違え、屋敷へ通じる道を張っていた。
「どうでえ」
「何事もなく」
ちらりと振り返り、会釈する。三吉は見るからに堅物とわかるいかつい男だ。伊佐次と同じ子年の生まれ、同じ井戸で
「牛の野郎はどうだい」
三吉は破顔した。そうすると
「ものになりそうかい」
「目端の効く奴ですから、先走らねえなら生き延びるでしょう」
「なるほどな」
ひとつ間違えば、母親が泣くことになる。
「悪いが、できるだけ面倒をみてやってくれ。あいつのおっかあには、むかし世話になった」
「承知してます」
一方で、伊佐次は股引きを脱ぎ、懐をくつろげる。髷を傾け、身なりをそれとなく崩す。
「ちょいと行ってくらあ。幸い、ここいらは俺の縄張り《しま》じゃねえ。面も割れていねえだろうから、気軽に遊んでくるとしよう」
「へい。お気をつけて」
伊佐次は外へ出たとたん、風の冷たさに肩を竦めた。今年の夏はやけに暑かったが、晩夏は雨続きで呆気なく秋となった。
(思いのほか、冬が早えかもしれねえなあ)
軽い足取りで有馬屋敷の長屋門へと近づき、片側の潜戸を三度叩いた。
「何者だ」
侍のような四角張った声音だ。
「へい。こちら様の御隠居様が、めずらしい牡丹をお分けくださると聞きやして」
三吉が聞き出した符丁だ。娘を女衒に売り飛ばした
「入れ」
一歩入れば闇である。無紋の提灯を下げた小者が、横柄な態度で長屋の右奥を指した。腰高障子から灯りが漏れている。
腰を低く礼を告げたあと、伊佐次は引手に手をかけ、息を整えた。
「ごめんくださいよ」
汗と酒の臭いだ。薄暗がりの奥に
「初めてかい」
土間に陣取った男が声をかけてきた。どこの三下か、しまりのない目元に媚びるような笑みを浮かべ、伊佐次を上から下まで値踏みした。
「こちらさんで、大層別嬪の姐さんと遊べると聞いてね」
男は頷いた。奥を示す。
「そういうことなら、好きなだけ遊んでいっておくんなせえや。大層どころか滅法でも足りねえ姐さんだ」
「そりゃ、愉しみだ」
示された奥で金子を駒札に変え、伊佐次は人波の隙間から
──あれかい。
「壺をかぶります」
かたさの残る娘の声だ。
百匁蝋燭を背に、諸肌脱ぎで一人の娘が壺を構えていた。片膝を立て両手を開き、一歩踏み出した足指の可愛らしさと、白い湯文字を割って覗く、柔らかな
伊佐次が驚いたのは、その娘が浮かべている笑みだ。壺と
ふいと、娘の
背筋がぞくりとする。
見てくれは菩薩のように美しい娘だが、伊佐次の頭のなかで半鐘が鳴る。
(こいつは何者だ)
「丁方ないか。ないか丁方」
「半方ないか、ないか半方」
娘は動かない。伊佐次へ目を据えたまま微笑んでいる。
──おじさん、そいつね、お役者小僧だよ。
養い子のおこうが言っていた。
(こいつか)
賭場の男達は、喰い入るように娘の手元と立て膝の奥を覗きながら、盆台に駒札を積んでいく。
「御免よ」
伊佐次は娘へ笑いかけた。男たちを掻き分け、盆台の一角に陣取った。
(続く)
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