犬と猿(一)
ふざけた
(さて、どうするか)
波切りの伊佐次は、剃刀を当てたばかり顎を撫でながら思案した。
頼んできたのは、おのが島にある賭場の胴元だ。早々悪どい商売はしない男だが、
(てえことは)
関わる理由がない。
だが、伊佐次はなぜかその話が気になって仕様がなかった。何だろうと思う眼裏を、ついと紅色の鹿子絞が過ぎる。あれはなんだと思い返すうちに、耳元で声がした。
「おじさん、こんな具合でどう」
女髪結のおこうは、死んだ親父の代からの贔屓だ。女の身で店を構えて三年になる。つまり、親父の鉄三が死んで三年だ。
伊佐次は、お上の鑑札を預かる御用聞きだ。毎朝同じ時刻に寄って身なりを整え、まずは旦那のご機嫌伺いに八丁堀へ足を向ける。
鏡を覗き込みながら、鬢を指で撫でつけた。
「ありがとよ、おこうちゃん。さすがだ。ますます腕が上がったな」
おこうは道具を片付けながら鼻で笑った。年増女のような仕草に、ついとがめたくなる。
(親じゃあるめえし)
おこうは確か、今年で十八だ。赤子の頃から知っていれば、そんなものなのだろうと思う。女房も子もいない伊佐次にとって、成り行きで面倒をみることになったおこうは、実の娘のようなものなのだ。
おこうは、持ち前の勝気な目で、値踏みするように伊佐次を見返した。こういう顔をするときは、なにか魂胆がある時だ。
「どうした。面白えことでもあったか」
「何が聞きたい、おじさん」
と、舌舐めずりをする顔が親父そっくりだ。
髪結床が知らぬ噂話はない。親父の鉄三は、伊佐次の「地獄耳」だった。それが祟っての最後だった。おのが「犬」ゆえではなく、「詮索ずき」ゆえに身を滅ぼした。
「やめてよ、おじさん。小言は聞かない」
「俺がなんで、おまえさんに小言なんざ云わなきゃいけねえ」
「嫌だからでしょ。あたしがおとっつぁんと同じ轍を踏むんじゃないかって。おじさんの所為であたしまでおっ
「図星だ」
「おじさん、正直だから好き」
おこうは、からからと笑った。
「で、何をきいた」
「こないだ、ここで、四ツ木の胴元さんから賭場荒らしのこと頼まれてたよね。すごい美人のふてえあまのこと」
そっくりの口調に思わず笑う。
「受けるか決めてねえぞ」
「ちんけな話だし、あたしもそう思ったんだけどね」
「そいつのことか」
「聞きたい?」
伊佐次は観念した。
「早く云え」
「最近、神保小路の有馬屋敷に、たいそうな美人が出入りしてるんだって」
貧乏旗本の屋敷が、賭場に貸し出されるのはよくあることだ。武家地は町方の手が及ばない。格好の隠れ蓑なのだ。
「それで、どうした」
どこの賭場にも美形のひとりやふたり。
おこうの鼻息が、かすかにあらくなる。
「おじさん、そいつね──お役者小僧だよ」
伊佐次の目が、物騒なひかりを宿す。
「なんで、そう思った」
「女の勘」
おこうにもおこうの
「わかった。だが、おまえはもう関わるな」
伊佐次は法外な髪結賃を置いて、外で待たせていた手下に一言、二言ささやく。
「いいな、おこう。きっぱり手を引くんだぞ」
「いってらっしゃい」
伊佐次は、養い子のはしゃいだ声に送り出された。
〈続く〉
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