闇の髑髏
──ひとを騙すなんざ、屁でもねえや。
──屁、かえ。
──屁でなくば、鼻糞でさあ。
──ならば、てめえの嘘八百は鼻糞のお練りってわけだな。汚ねえなあ。
橋上から聞こえ落ちてきた
闇である。本所は御米倉に近い石原橋の下だった。
その凝った暗がりの欄干の下、かすかな星明かりさえ避けるように、菊之助は全身黒衣で蹲っていた。
目元ばかりが白い。頭巾の際からのぞくびいどろようの
ふと、足元の拳ほどの石を掴んだ。川中へと弧を描く。
──おい。
橋上の声が低くなる。
──いま、なにか跳ねたぞ。
──ああ。大きいな。
──確かめるか。
──鯰だろうさ。
──もっと大きそうだ。
──石でも落ちたほどの音だ。
──誰かいるのかも知れねえ。一丁、降りてみるか。おや、こわいのかい。
──こわかねえや。
──なら、見に行こう。降りて確かめよう。
──やなこった。
──やっぱり怖いんじゃねえか。
とひとしきり揉めたあと、一旦声は遠ざかり、やがて此方へ降りてくる気配があった。草を踏み、足下不如意で滑ったのか、「あ」と小さく叫んで提灯が燃え上がった。
「なにしていやがる」
「仕方ねえじゃねえか。滑っちまったもんは仕様がねえ」
影はふたつだ。ひとりは、大漢の生臭坊主龍海坊とよい勝負の背格好で、手には錫杖ではなく腰に大脇差。西国の田舎侍のようだ。
いまひとりは半分ほどの小男で、声からすると鼠のように尖った顔だろう。
木戸が閉まったこの時分、賭場帰りの酔っ払いか同業者か。手にした提灯には、丸に波の字。
(ほう)
菊之助は、蝋色の半纏を細い肩から落とし、ひらりと裏返した。
その青白い
「あ、ありゃっ」
「なんでい」
欄干に手をかけて登りきり、振り返った菊之助の眦を何かが掠めた。肩口に焼けるような痛みが走って、危うく水へ落ちそうになった。
「馬鹿か、おまえは」
「言うね、旦那」
菊之助は、上目遣いに吉田孫兵衛を見上げた。おのれを晒で巻きあ上げる手首を掴み、二の腕へと指を這わせる。
「おいらは柔な怪我人だ。もちっと優しくしても罰はあたらねえや」
目を瞬き、品を作って艶冶に微笑む。
「止めろ。色仕掛けは俺以外を当たれ」
「ちえ」
巻き終わった晒の具合を確かめ、白磁の肌を収める。衿元を扱いて肩を回しかけ、眉を顰めた。
「あの馬鹿力が。刀を投げるなんざ、無法もいいところだ」
「橋脚に串刺しになれば、悪行も絶えたものを」
「旦那」
菊之助は孫兵衛の背中へ身体をひっ付けると、その首をかき抱くように腕を回す。耳朶を噛むほどに近づいて、
「それほどおいらが嫌いかえ」
孫兵衛は無言だ。
「そりゃあ、あんな出会いじゃ、おいらを憎むのは仕方がない。しかしねえ、旦那」
胸元へ手を差し込む。しっとりと濡れ、おのよりもいつも肌が熱い。その熱が菊之助を煽る。前へ回り、膝に乗り、細い身体を蛇のように巻きつけ頬を寄せる。ざらりとした頬を舐め上げながら、おのれをゆっくりと擦り付けた。
「さあ、抱いておくれな。今夜も旦那のこれで悦ばしておくれ。おいらはおっかさんの仇だ。これは敵討ち。死に体まで成敗して、そして」
「黙れ」
「痛い」
孫兵衛は、菊之助を床に組み敷いた。怪我など知らぬかのように頭を押し付け、手荒く着物を剥ぐ。
「旦那、痛い、痛い。死んじまうよう」
「だから俺に構うのだろう、於菊」
「なんだい、そりゃ」
ぞくりと身の裡が悦んだ。
「ああ、そうだよ。旦那に呼ばれると、身が蕩けちまいそうだ」
孫兵衛の荒んだ目が菊之助を捕らえ、肩を掴み、血が滲むまで爪を立てる。抉られる熱さと痛さに、おのれの「生」を満喫する。
「嗚呼、生きている」
吐息のように漏らした途端、孫兵衛は身を剥がした。至極醒めた目で見下ろしている。
「なんだ。止めるのかい。──意気地なし」
脱ぎ散らかし、素裸で胡座をかき、菊之助は吉田孫兵衛を謡うように罵り続けた。
「あら、兄さん」
橋の上ですれ違った女に袖を引かれた。白粉の剥げた細い手だった。
「てめえ、誰でえ」
「あら、忘れちまったのかい」
満月の下、その夜鷹は息を飲むほど美しい顔を晒した。なかでも黒目が濡れたようで、ぞくりとする
「この間、散々あたしと遊んで、翌朝、起きるのもしんどかったんだよう。なのに、忘れちまうなんて酷い兄さんだわい」
「──ああ。あん時の姐さんかい」
朱い口唇が釣り上がった。
「覚えてたのかい。なら、今日も遊んでおいでな」
「すまねえな。今日はよんどころのない野暮用があるんで、また今度手合わせしてくれろ。名はなんという」
「そうだねえ」
撫でながら袖を引く手を剥がした瞬間、おのれの腹に何かが刺さった。膝が笑う。
「てめぇ」
短刀だ。柄元まで深々と刺さったそれを、女とは思えぬ
「この間は世話になったねえ。おいらの肌に傷をつけてもいいのは、うちの旦那だけなんだよう」
菊之助は刃を上にすると、さらに肝の臓目指し突き上げた。
「ざまあねえや。あばよ」
足をかけて短刀を抜き、その汚い袖で拭う。目の端には、逃げていく小男の背中が映っていたが、追いかけもせずに放っておいた。
丸めた
そうして夜鷹は蘭蝶を口
さて、これが生涯の敵手となる波切の伊佐次と菊之助、その因縁の端緒であった。
〈了〉
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