畢生の夢 お役者小僧遺聞
濱口 佳和
真面目さゆえに翻弄され
「そこなお女中、どうされた」
夜分も遅い、月も朧な晩である。
人通りも絶えた堀端一番町、千鳥ヶ淵も近い武家屋敷が続く辺りであった。
吉田孫兵衛は、手にした提灯を掲げ、人影へ歩み寄った。
若い女のようだ。半蔵堀の近くに屈み込んで、月光にもその細い背が、かすかに震えているのがわかる。
近づく足音に気づいたようで、びくりと身体を震わせた。
「ああ、案ずるな。怪しいものではない。そこの」
と、堀向かいの大名屋敷の門を指し、
「南部丹波守様の家中で、吉田孫兵衛と申す。このような場所でどうされた。気分でも優れぬのか?」
「あい……」
小さな、鈴を振るような細い声が戻ってきた。
大振袖の
美しい。見たこともないほどの麗質だ。朋輩から石部金吉だの、刀を抱いて寝ているだのと言われる孫兵衛でさえ、一瞬で胸が高なるほどの美形であった。
ふと気づく。
娘の足元には、脱いだ草履。きれいに揃えて置いてある。白い足袋の上の足首には紅い
二人の目線が合った。
娘が動く。目と鼻の先は、暗い深いお堀だ。水面で月光が跳ね散っている。
飛び込もうとするのを、孫兵衛は提灯を捨て、飛びついた。
「お離しくださいませ! どうか、このまま死なせて……!」
「何を馬鹿な!」
地面に諸共に倒れ、堀端から引き離す。
香の匂いと華奢な身体に驚き、孫兵衛は慌てて女から身を離した。
町家の娘は、たっぷりとした振袖を抱えて、泣いているように顔を覆った。
「怪我はないか? 家へ送っていくゆえ、名と住居を教えてくれ」
その時、ほかにどうすればよかったのか。
「は、はい」
娘は美しい顔を上げた。月の天女のようである。なにかを言いかけ、ぷっくりとした口唇を開いたが、そのままふらりと気を失ってしまった。
「おい!」
思い切り揺さぶろうと思って、手を引っ込める。
相手は女だ。しかも、嫁入り前の娘らしい。着ているものから、麹町あたりの大店の娘なのだろう。今頃、家人が探し回っているに違いない。
しかし、ここで待っているわけにもいかない。上役の用向きで他出し、ただでさえ帰りが遅くなっていた。
「仕方がない」
孫兵衛は、昏倒した娘を横抱きにし、目の前の主家である、陸奥七戸藩上屋敷の潜戸を叩いた。
孫兵衛は、おのれの用を済ませた後、些細を上役に伝え、娘を長屋で一夜預かる旨の了解を得た。
家にいる老母へ世話を頼み、明日になったら、麹町辺りをあたってみるつもりだった。幸い、吉田の家は江戸定府だ。土地には明るかった。
娘は、一刻ほどしてふっと目を開けた。黒目がちの吸い込まれるような眼差しだった。
しばらく不思議そうに視線を泳がせていたが、孫兵衛と老母に目を止めると、大きく見開いた。
「案ずるな。ここは屋敷内の御長屋だ。母がおまえの面倒を見てくれていた」
娘はふらつきながらも起き上がり、布団を下がって畳に手をついた。
「大変ご面倒をおかけしました。私は麹町山元町の呉服屋、里見屋の娘で菊と申します」
堀端で取り乱していた時とは、別人のようだった。
「落ち着かれたか、菊どの」
「はい。……あのような姿をお見せして、恥ずかしゅうごさいます」
「身投げしようとするとは、一体どうしたのだ」
お菊は、縋るような目で、孫兵衛を見上げた。その目尻を涙が一筋流れていく。
「私には、幼い頃からの許婚がおりました。それが先月、流行り風であっさりと亡くなってしまい、その喪も開けぬうちに、気の進まない縁談を持ちかけられて」
後ろで母親が、「まあ」と小さな声を立てた。
「お
畳についた手のひらに、ぽたりぽたりと落ちていく。
孫兵衛は、なんと声をかけるべきか言葉もなかった。
そうか、うん、うん、と相槌をうちながら、娘の気が済むまで聞いてやった。
一刻もそうしていたら涙も枯れ果てたのか、お菊はすっと寝入ってしまった。
孫兵衛は、母にも礼を言い、ようやく夜半になって床に就くことができたのである。
翌朝、母と三人で朝餉をとってから、店までお菊を送って行った。
里見屋は、なかなかに立派な店構えの呉服屋で、飛び出てきた父親へ娘を渡すと、二人は店先で周囲の目も憚らず、抱き合って泣いていた。
礼をしたいというのを断って、孫兵衛はよいことをしたと満足感に浸りながら、屋敷へと戻っていった。
それからしばらくは、あのような娘御を嫁に迎えたいと、老母が何度も繰り返して言っていた。
それから半月も経たぬ頃、七戸藩江戸屋敷へ盗賊が入った。
盗られたのは家宝である、将軍家御拝領の刀剣一振りと、金子三百両であった。
残された痕跡から、下手人は、昨今世を騒がす盗賊〈お役者小僧〉とわかったが、ものが物である。盗られたことを表沙汰にはできなかった。
憤懣やるかたなく、孫兵衛は知己の町廻り同心から御手配書を手に入れた。
その人相書を、一目見て驚愕した。
(お菊!)
まさか、と思う。
すぐさま麹町山元町の呉服屋へ駆け付けた。
きれいさっぱり空屋となっていた。近所に聞くと、十日ほど前に夜逃げしたという。
──やられた!
おのれは多分、盗賊の下見に手を貸したのだ。
(知らぬとは言え、俺は盗賊の手引きをしてしまった!)
孫兵衛は、一晩迷ったのち、上役へ正直に申し出た。
結果、吉田の家は改易となり、母は悲嘆のうちに引っ越し先の割長屋で死んだ。
それからはお定まりの自暴自棄で、酒と博打に身を持ち崩し、やがて世を拗ね、ただの強盗から、はずみで人斬り強盗へと成り果てた。
幾年過ぎた頃か。
恨みを抱え、彷徨う場末の賭場で、ようやく出会えた、あの忘れもしない花の
華奢な身体に着流し、銘仙縞の小袖に男髷。柳眉を片上げして、猫のようなしのびやかな低い声で囁いてきた。
「やあ、
艶冶に笑ったお菊こと菊之助と、それが初回で、一生の不覚となる地獄の再会であった。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます