第76話 三献の儀
「とりあえず信行兄上に会ってお話をしたい。兄上に取次ぎをお願いします」
悔しいけど、本当は凄く悔しいけど、唇をかみしめて頭を下げる。
兄弟とはいえ、出陣の前に気軽に信行兄ちゃんのところへは行けない。ここは筆頭家老のクソジジイに頼んで連れていってもらうしかない。
「残念ながらそれはできませぬなぁ」
「なぜですか!?」
「殿はもうすぐ三献の儀にお入りになるのでな」
三献の儀式―――現代では神前結婚式で行われる固めの盃、三々九度としてその儀式は残っている。
でもこの場合は出陣前の験担ぎだ。
三献の儀っていうのは、三種の
三種の肴は、アワビの肉を細長く切って打ち延ばして干した打アワビ、栗を干して臼でつき殻と渋皮を取り除いた勝栗、そして昆布の三品になる。
それぞれ、打アワビは「打つ、討つ」、勝栗は「勝つ」、昆布は「喜ぶ」という意味に当てはめて、戦で「打って」「勝って」「喜ぶ」ようになるという験を担いでいる訳だな。
戦に勝って帰ってきたら、今度は勝栗、打アワビ、昆布の順番で食べる。意味は「(戦に)勝って、(敵を)討って、喜ぶ」になる。
もちろんアワビの数も五本、栗は七つ、昆布は五枚って数も大体決まっている。地方によっても違うかもしれんけど、一般に三、五、七の数字は縁起がいいとされてるからな。その数で合わせる。
大将はまず左手でアワビを食べる。この食べ方にも決まりがあるんだよな。まあ
それから三枚重ねた土器でできた盃に酒を入れてもらう。酒を注ぐのは
次に栗を食べて酒を飲み、最後に昆布を食べて酒を飲んで終わりだ。
そしてその後は、陣太鼓を打ち鳴らして出陣だ。
「それがしもそろそろ殿の元へ行かねばなりませんのでな。代わりの者に案内させましょう」
案内? どういうことだ?
「ああ、ちょうど良い所へ。通政、喜六郎様を奥の離れへお連れしなさい」
クソジジイは通りかかった林通政を呼び止めた。信行兄ちゃんと同い年の通政は、クソジジイの甥で林秀貞の嫡男になる。
信長兄上の近習として仕えてたはずだけど、こいつも裏切ったのか。
というか、父親が信行兄ちゃん派になってるんだから、仕方ないといえば仕方ないんだが。
それでも、本来は信長兄上の側に控えていなくちゃならないこいつが、ここにいるのを許せない。
「え? 叔父上? 奥の離れへですか?」
驚いた顔で、通政は俺を見た。そうだよな。奥の離れって、戦の時に身分の高い捕虜を入れておくために作られた、いわゆる座敷牢のことだからな。
普通の戦では捕虜なんて取らないで首を取るから、なんでそんなものが末森にあるのかは謎だ。
「さよう。喜六郎様はこの戦を憂いておいででな。もし万が一、殿に反目なさるようでは、戦の後に喜六郎様ご自身が肩身の狭い思いをせねばならぬであろう。それゆえ、戦が終わるまでは大人しくして頂くが重畳であろうよ」
信行兄ちゃんが勝つことを欠片も疑っていない態度に腹が立つ。
「信長兄上は負けません!」
悔しくて言い返したけど、クソジジイは鼻で笑った。
「なんとも、世迷いごとをおっしゃる。喜六郎様は神仏の御使いと言われておるが、はて、ただの妄言をまき散らすだけの気狂いかもしれませぬなぁ。どちらにせよ、奥の離れに閉じ込めておかねばなりません」
「信長兄上は負けません。兄上には神仏の加護がついておりますから」
「ほうほうほう。これはしたり。これだけの劣勢を覆すことができるとお思いか?」
「信長兄上にはできます」
「はっ。大言壮語もいい加減になされ。我が方の兵は二千。対して信長の兵は七百にも満たぬとか。赤子の手をひねるよりも楽に勝てましょうな」
その馬鹿にしたような口調に俺は切れた。どこかで堪忍袋の緒がブチッと切れた音が聞こえた。
「予言してやろう。信長兄上はこれより尾張を統一し、美濃、伊勢、近江は言うに及ばず、やがては日ノ本全ての国を平らげ、やがては日ノ本の覇者となるであろう」
「だから……何を……世迷言を……」
「だがそれをお前が見ることが適うかどうかは分からぬがな。三途の渡しの向こうから、指をくわえてみておればいい」
「―――言わせておけばっ」
俺の頬を打とうとしたクソジジイだが、とっさにジジイの振り上げた腕を林通政が抑えた。
「叔父上! 喜六郎様は織田の若君でございますよ!」
こめかみに血管を浮かべたジジイがブルブルと震えている。目は血走って、いかにもご立腹のようだ。ザマーミロ。
「殿が尾張を統べるようになったなら、喜六郎様にはきちんとした躾が必要ですな。儂が、いずれ直々に躾てさしあげましょう。今から覚悟されておくのですな」
昏いまなざしが俺を舐めるように見る。
俺は、侮られないように、その目を見返した。
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