第68話 織田信広

 織田家の長男である信広兄さんについて俺が知っていることはそんなにない。信長兄上より十歳年上で、母親は身分の低い侍女だったらしいってことくらいだ。


 あんなに子供がいっぱいいるのに、信広兄さんと信長兄上の間が十歳も離れてるっていうのが、不思議だろうけど、それにはちゃんと訳がある。


 父上の前妻が尾張下四郡の守護代だった織田達勝の娘だったっていうのは前にも言ったと思うんだが、離縁するまでの間になかなか子供が生まれなかったらしいんだよな。やっと生まれた子供も女の子ばかりで嫡男は生まれなかった。

 しかも悋気が激しくて、信広兄さんを産んだ侍女には、そりゃあもう、辛く当たったんだとか。


 それで、信広兄さんの後、前妻と離縁して俺たちの母上と再婚するまで十年も子供が生まれてなかったんだ。まあ、それではっちゃけて、その後子だくさんになったわけだが。

 ちなみに四男の信時兄さんもその侍女さんが生んだ子供だ。残念ながら信時兄さんを生んだ後、産後の肥立ちが悪くて亡くなったそうだけど。


 庶子とはいえ、信広兄さんはなかなか優秀だったらしく、父上と一緒に何度も戦に行って活躍したらしい。十六年前のまだ十六歳の時に対三河の最前線である安祥城(あんじょうじょう)主を任されてるくらいだからな。お飾りの大将じゃやっていけない場所だ。


 だけど十年前の第三次安城合戦の時に、信広兄さんは今川義元に仕える希代の名将、太原雪斎と松平広忠によって生け捕りにされてしまった。

 なぜ殺されなかったかっていうと、当時尾張には松平広忠の嫡男の竹千代がいたからなんだな。


 竹千代が尾張に来た経緯も、ほんとにマンガみたいな話なんだ。


 まず第二次安城合戦の時に、敵対してた三河の大名の松平広忠は大敗をした。主だった家臣はみんな討ち取られちゃって、自分自身も重臣の本多忠豊が身代わりにならなかったら討たれてたくらいの厳しい戦いだったそうだ。


 それに加えて、今度は松平でお家騒動が起こった。広忠の叔父の三木松平の松平信孝が家督を奪おうとしたんだ。どこでも弱った当主に下剋上して成り替わろうって親族はいるもんなんだな。織田も人のことは言えないけどさ。


 そこで松平広忠は今川に助けを求めた。だけど今川もタダでは助けない。代わりに人質をよこせって言ったわけだな。その人質が、松平広忠の嫡男である松平竹千代、後の徳川家康だ。


 今川は嫡男を人質に取ることによって、三河の国人に対しては「嫡男はこっちにいるんだから、俺たちのいう事を大人しく聞け」って脅せるし、竹千代に対しては、小さな頃から今川で育てれば今川寄りの思想に染められるから、言う事なしだ。


 あれだ。ゲリラとかテロリストが誘拐した子供を洗脳して少年兵にするのと似たようなもんだ。


 ところが、松平にとっても今川にとっても予想外のことが起きる。大事な人質を今川まで送る役目を受けていた広忠の後妻の真喜姫の父、つまり広忠にとっての岳父である戸田康光が、よりによって竹千代を織田家に永楽銭千貫文で売っちゃったのである。


 ちなみに竹千代の生母である於大の方は、父の水野忠政が織田に寝返ったんで、離縁されて家に戻されてる。だから継室に真喜姫を迎えたんだろうけど、その父も松平を裏切るとか世知辛い世の中だよなぁ、ほんと。


 って、調略したのはうちの父上なんだけどさ。さすが尾張の虎だ。いや虎は関係ないのか?


 これを月谷和尚さまから聞いた時はびっくりしたね。人質を奪って自分の有利にするくらいなら分かるけど、普通、金で売り飛ばすか? 

 永楽銭千貫文っていうと、現代の価値に換算すると、大体1億5000万円くらいってところか。確かに大金と言えばいえるけど、でもなぁ……


 当然のことながらそれを知った今川義元は激怒して、太原雪斎に命じて戸田康光の居城である田原城を落とし、戸田氏を滅ぼした。


 たとえ1億5000万円もらっても、命を失ったら意味がないよな。

 だけどお金のためって言うより、竹千代がいなくなったら娘の真喜姫の生んだ男子が松平の後継になるって考えたのかもしれんな。戸田氏が滅んだ今となっては、もう分からないことだけど。


 そうして織田の人質になった竹千代だけど、史実通り、信長兄上のいいおもちゃ……あ、いや、遊び相手になって、それなりに楽しい人質生活を送っていたらしい。

 普通、よその大名の嫡男連れて、山に猪狩りには行かないよな。津島の湊にも繰り出してたらしいんだけど、それってもう人質って言わないような気がするんだけど、俺の気のせいだろうか。


 本来は寺に押し込められて窮屈な生活を送らなくちゃいけなかったわけだから、信長兄上に振り回されてる時間は、それでも楽しい思い出になったんじゃないのかな。


 だけど今川義元にしてみれば、自分のところに来るはずだった人質を織田に奪われて、顔をつぶされた状態な訳だ。

 そこで、安城城を攻め落とした時に信広兄さんを殺さずに、竹千代と交換する切り札にした。


 多分、信広兄さんが織田の後継になる目が完全になくなったのは、この時なんじゃないかな。それまでは庶子とはいえ戦上手で名を馳せていたから、もしかしたら父上の後を継げたかもしれない。正室の子供が信長兄上だけじゃなくて信行兄ちゃんもいたから望みは薄かったかもしれないけど。


 あ、俺も一応正室の子供だったね。

 だけど俺は織田の当主の地位なんて、あげるって言われてもいらないけどさ。

 だって家中はガタガタで、周りは敵だらけなんだぞ? 俺からすればババ抜きのババくらいの代物(しろもの)だ。どう考えても残り物には災いしかないだろ。


 だけど、そんな当主の座でも、欲しいと思う人はどうしても手に入れたいんだろうなぁ。

 信行兄ちゃんもずっと当主の座を狙ってたしな。そして今度は信広兄さんか。


 はぁ。まったく、なんだって謀反なんかするんだよ。



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