第66話 不穏な空気

 信長兄上を庇護していた斉藤道三の死は、ようやく平穏になりつつあった尾張に、またもや波紋をもたらした。


 尾張の国は八つの郡に分かれている。上四郡が春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡。そして下四郡が海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡だ。

 このうちの下四郡は、信光叔父上の死によって今では全て信長兄上が治めているんだけど、上四郡は岩倉城主の織田伊勢守信安が治めている。


 織田伊勢守家は、いわゆる織田の本家みたいなもんだな。

 織田伊勢守家が本家で、織田大和守家が分家で、そのまた分家の分家が弾正忠家だって言えばわかりやすいかな。

 だから元々は尾張上四郡を織田伊勢守家が治めて、尾張下四郡を織田大和守家が治めてきたってわけだ。


 織田信安の正室は父上の妹だから、俺と信長兄上にとっては伯母にあたる人だ。だから一族といえば一族だな。父上が生きていた頃は親密な関係だったみたいなんだが、父上の死と、それから俺たちの従兄弟である犬山城主の織田信清と所領問題で揉めてから敵対するようになっちゃったらしい。ちなみに織田信清のところには、側室腹の奈津姉さまが嫁いでいる。いとこ同士の結婚だね。


 なんでも、織田信安は小さい時に当主になったから、織田信清の父で、俺たちの叔父さんにあたる織田信康に補佐してもらってたらしい。

 その信康叔父さんが、まだ尾張が道三と敵対してた頃に加納口の戦いで亡くなったから、信安は預けていた大久地の所領を返して欲しいって言ったんだな。だけど信清が返さなかったんで、揉めた。


 信長兄上も調停はしてたみたいなんだけど、あの信長兄上だしなぁ。絶対何か余計なこと言って織田信安を怒らせたんだと思う。


 元々、信安に権利があるんだから、とっとと返せば良かったんだと思うんだけどな。ただそうすると、信清があっさり敵対するからな。

 信安の権利を認めれば信清が敵対し、信清の権利を認めれば信安が敵対する。

 なんていうかもう、お前ら利害関係でコロコロ敵対するんじゃないよ、って言いたくなるよね。


 そんな感じで不満を持ってたから、信安は斉藤義龍の調略に応じちゃったらしいんだよな。岩倉城は尾張の北にあるし、呼応もしやすかったんだろう。


 信長兄上が美濃に出兵した隙を狙って、織田信安が清須城近くの下之郷ってとこに放火したんだ。もちろん美濃から戻ってきた信長兄上は激怒して、報復に岩倉城近くの信安の所領を焼き払った。

 そういう訳で、今ではすっかり敵対関係だ。


 しかも調子に乗った美濃勢はちょこちょこ尾張にやってくるしな。うざったいこと、この上ない。


 思ってたよりも斉藤義龍はデキる武将だったんだな。


 そして義龍の調略は、尾張上郡だけじゃなくて、尾張下郡にもじわじわと浸出してきた。段々と信長兄上の周囲が不穏な空気に包まれていくのが俺にすら分かる。


 そしてそれは、この末森でも例外じゃなかった。


「最近、どうも城の雰囲気がよくないでござるなぁ」


 俺は熊に新作のそぼろおにぎりを餌付け……じゃない、試食させながら話を聞いていた。そぼろの肉は鴨肉だ。これを包丁でひき肉にするのは大変だったけど、そこは力仕事担当の熊にがんばってもらった。そのうち津島の五郎助さんにミートチョッパーを作ってもらおう。そしたらもっと簡単にひき肉ができるだろう。

 ちなみにフライパンの方はもう作ってもらった。なかなか使いやすくていい感じだ。

 味つけは味噌を酒と甘味で伸ばした割り下で作っている。

 甘味は砂糖、と言いたいところだけど、甘蔓《あまかずら

》だ。これも高級食材なんだけどな。


「どのように、良くないのですか?」

「そうでござるなぁ。例えるならば、野戦の時に伏兵がいるような感じでござろうか」


 いやそれ、全然例えになってないけど。意味が分からんよ。


「それにしても、このそぼろというのはうまいですなぁ。臭みもないですしな」

「ええ、生姜で臭みを消しました」

「極楽浄土というのは、これほどまでに美味い物を食せるのですなぁ」


 本当は極楽浄土じゃなくて未来の日本での庶民フードだけど。でも、この戦国時代から考えたら、現代日本の食生活ってまさに極楽のような世界かもしれんなぁ。世界中で一番おいしい物が食べられるって言われてるしな。


「また、林殿が暗躍しているのでしょうか」


 本当に林のジジイは余計な事しかしないよな。もう年なんだから、田舎にでも隠居して大人しくしてればいいのに。


「実は……それがしに、信行様にお味方すれば、市姫様を娶らせても良いと考えているというお話があり申した」

「林殿からですか!?」

「そうでござります」


 熊は何でもないことのようにもぐもぐと握り飯を食べているけど、え、それって熊は信行兄ちゃんに味方するってことなのか!?

 いや、それはないか。誠実さと真面目さが取り柄の男だからな、熊からそれを取ったら、何も残らないじゃないか。


「もちろん、お断りしたのですよね?」

「当然でござる。殿には起請文もしたためておりますしな」


 ああ、そういえば傅役になるって決まった時に、そんなのを書いてたっけ。去年の信光叔父さんの件があるから、織田家では起請文は絶対に守らなくちゃいけない物って認識になってるからな。

 もっとも、そんなオカルトがなくても、熊は一度誓ったことは守りそうだけど。


「それに……それがしは自分の力で武功を建てて、殿に願い出るつもりでおりますゆえ」

「そうですね。市姉さまも、それを待っていらっしゃると思いますよ」


 だってさ、美濃から帰ってきた時の熊を見る目がさ、無事で帰ってきてほっとした、って感じだったからな。


 歌がるた、効果があったんだな。良かったな。


「いや、その……そうだといいでござるが……」


 照れた熊は、大きな体を丸めて握り飯をほおばった。

 熊は俺よりずっと年上だけど、そんな姿はちょっと可愛く見えた。


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