第65話 天下布武

 翌日は負け戦で気が立っているだろう信長兄上に会いに清須へ行った。だけど予想に反して信長兄上は静かに斉藤道三の死を悼んでいた。

 俺は清須で、人払いされた部屋に通された。部屋の外には、心配そうな丹羽長秀と池田恒興が控えている。二人にそっと頭を下げて、俺は部屋の中へと入った。


「兄上……」


 信長兄上は胡坐をかいて、床に置いた書状を肴に好きでもない酒を口にしていた。ちびり、ちびりと舐めるように酒をあおる。


 俺は無言のままその正面に座り、信長兄上が口を開くのを待った。


「喜六。なぜ人は死ぬのだろうな」


 やがて、兄上がポツリと呟いた。

 俺は、少し考えて答えた。


「……一人では成せぬことを、次代に託すためではありませんか?」

「なぜ一人では成せぬ」

「長く生きると、しがらみができますから。最初の純粋な思いが、時と共に濁ってしまうのだと思います」


 そう言うと、信長兄上は少し考えて、盃を傾けた。コクリ、と一口飲んで、顔をしかめる。


「こんなまずい物を、皆はよく飲むな」


 そしてそのまま残りを一気にあおる。信長兄上は空になった盃を投げ捨てた。かろうして割れなかった盃はカランと乾いた音を立てた。


「だが……酔いたくなる時もあるということか」


 父上が逝き、傅役の平手政秀が逝き、そして今また岳父の斉藤道三が逝った。どの人も皆、信長兄上の良き理解者だった。その喪失感は言葉に言い尽くせないほどの物があるのだろう。


 俺は立ち上がって、うつむく兄上をそっと抱きしめた。大人と子供だからか、座っている兄上の顔は同じ高さにあった。それを見ないように、袖でそっと兄上の顔を覆う。


「兄上。私の夢を覚えていますか?」

「あの、たわけた夢か」

「私の夢は一人で成せますので、絶対に叶えますよ」


 うん。100歳まで生きて、畳の上で大往生するんだからな。


「ですから、兄上。100まで生きて大往生した兄上を私が看取りますから安心してください」

「たわけたことを……」

「だって戦のない世の中を兄上が作ってくださるのでしょう? 兄上は天下布武の夢を父上たちから託されたのですから、実現できない夢ではないはずです」

「天下布武だと? それは武をもって天下を治めるという事か? いや、喜六がそのようなことを言うはずはない。だとするなら……」


 あ、あれ? 天下布武ってまだ知らないキーワードなのか?

 いやだって、織田信長といえば天下布武だよな。だからこの言葉を使ったんだが、天下泰平の世の中を望むっていう意味じゃないのか!?


 俺は信長兄上の頭を抱えたまま、内心では冷や汗をダラダラ流していた。

 兄上の頭じゃなくて、自分の頭を抱えたくなる気分だよ。


「春秋左氏伝かっ」


 えーっと。

 ナニソレ?


「なるほど、そうか。七徳を備えた者でなければ天下を治められぬ、か。七徳とはすなわち、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにすること。なるほど、そのような世であれば、戦はなくなるのであろう」


 そ、そうか。天下布武ってそういう意味だったのか。知らなかったよ。

 でもそのうちに信長兄上が言いだす言葉なんだから、今言っても同じことだよな? だって、たった今、兄上が天下布武の言葉の意味を自己解釈したんだからな。

 俺は何もしてないよな?

 れ、歴史を変えたなんてこと、きっとないよな。変わったとしても、大したことないよな。うん。


「天下布武を成す、か……ふん。なるほど。確かに一代ではかなえられまい。……面白い。俺がその夢、かなえてみせよう」


 信長兄上の声に覇気が戻る。

 俺の袖を振り払った兄上は、すっかり元の兄上だった。


「喜六。俺は尾張を統一して美濃を食うぞ。そしてその後は天下布武を日ノ本に知らしめる。俺に手を貸せ、喜六!」

「はい、兄上!」


 言われるまでもない。きっと俺は兄上を手伝うために、この時代に生まれてきたんだよ。

 今。

 そう、確信した。


 天下布武。

 俺と信長兄上で実現しようぜ!


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る