第64話 長良川の戦い・帰還

 弘治二年 四月二十日。


 舅である斉藤道三への後詰に美濃へ向かった信長兄上は、行軍の最中に大良の河原で義龍軍と激突した。

 しかしその応戦中に道三討ち死にの一報が届く。信長兄上はすぐさま撤退を指示。


 だが道三を討って勢いづく義龍軍は兄上の軍を猛追した。その結果、織田側はかなりの被害を受けてしまった。


 山口取手介と土方彦三郎が討ち死に。退却中に森可成が千石又一と激しく渡り合い、膝を切られた。


 完全な負け戦だった。





 怪我がなくても敗残の兵っていうのは、こんなにも覇気がなくみすぼらしく見えるのか、と思うくらい、足取り重く熊たちは末森に戻ってきた。

 信長兄上も熊も無事で良かったとは思うけど、助けようとした人が討たれてしまって、手放しには喜べない。

 長良川の戦いで何があったのか、語る口も重たかった。


「では、兄上は兵と牛馬を全て渡らせて殿しんがりを務めたと申すか」

「はい。殿自ら乗る舟一艘だけを残し、追ってまいる美濃兵に鉄砲を放った後、お味方が川を渡りきるのを確かめてからご自分も川を渡りました」


 佐久間信盛の報告に、信行兄ちゃんは、さようであるか、と呟いてしばらく瞑目した。


 なんていうか、うん。信長兄上らしいよな。普通は大将が殿なんてやらないよな。

 でも兄上が殿だったからこそ、義龍の兵は兄上の覇気にやられて追撃の手が遅くなったのかもしれんな。なんといっても後の世で第六天魔王とまで呼ばれた男だ。眼力がハンパないし、声もでかい。


 でも林のジジイはそれを聞いて、あからさまに顔をしかめた。


「大将が殿を務めるなど、聞いたことがないわ。兵法のいろはも知らぬのではないか」


 その言葉に、報告をしている佐久間信盛の手が、ぎゅっと握りしめられるのが見えた。


「しかもわざわざ敵陣である美濃へ行くなど、浅はかにも過ぎましょう。むざむざ兵まで死なせたあげくに、肝心の入道殿はお討ち死にとは、なんとも無駄足であったことよ」

「美作守殿、お言葉が過ぎましょう!」


 さすがに暴言だと思ったのか、佐久間信盛が声を荒げる。でも林のジジイはフンと鼻で笑った。


「東がまだ落ち着いておらぬというのに、過剰な兵力を割いて美濃へ向かったのだ。これが愚行以外の何だと言う。この機に今川が攻めてこなかったから良かったものの、内応でもされておったら入道殿を救うどころか、この尾張が危なかったわい」


 末森の連中は、林のジジイの言う言葉に深く頷いた。しかも、とジジイは話を続ける。


「山口取手介と土方彦三郎が討たれたとか。先が楽しみな若者であったというのに、無駄死にじゃ」

「だが後詰の要請を断れば、尾張は腰抜けと笑われようぞ!」


 膝を激しく叩いて抗議する熊に、ジジイはあざけるように笑った。


「ふん。断りようなぞいくらでもあるわ。大体、ゆっくりと行軍しておれば、美濃に入る前に決着がついておったであろうよ」


 ジジイの言うことは結果論にすぎない。でも、信長兄上がどんなに早く行軍しても、道三は助けられなかった。戦支度に時間をかけていれば、訃報は清須で聞いたはずだ。


 何をしても無駄だったのだ、とジジイは現実をつきつける。

 確かにそれは結果としてそうなった。だけど―――


「しかし信長兄上はお味方を決して見捨てぬ武士の鑑と讃えられましょう。間に合うか、間に合わぬか。それは結果論にしか過ぎません。こたびは残念ながら間に合いませんでしたが、次はどうでしょう。電光石火の行軍に、助けられる命もあると思います」


 そこらの武士なら、間に合うはずもないと諦めるんだろうさ。だけどあの信長兄上だぞ? 窮地を何度も脱する不死鳥みたいな男だぞ? 最初から諦めて何もしないなんてこと、するはずがないじゃないか。


 そして涼しい顔で俺たちのやり取りを見ているお前たち。お前たちの危機に、誰が駆けつけてくれる?

 信長兄上のように命を賭けてでも助け出そうとしてくれる相手が自分にいるとでも言うのか? そして命を賭けて助けたいと思う相手がいるのか?


 よく、考えてみろ。


「ははは。まだ元服前の喜六郎様には、戦の事は分かりますまい。尾張のことはわしら大人に任せておればよいのですよ」


 大人に任せろとか言うけど、それで任せて戦乱の世が続いてるんだろ。ジジイはもう引退してすっこんでればいいんだ。


 ムカっときて言い返そうとしたけど、信行兄ちゃんに止められた。


「美作守も喜六も、もう止めよ。信盛、勝家。戦の後で疲れたであろう。ご苦労であった。後はゆっくり休むと良い」


 そう言われて俺もそれ以上言い返すのはやめた。

 そうだよな。佐久間信盛も熊も、戦から帰ってきたばかりで疲れてるもんな。しかも負け戦だ。精神的にもしんどいだろう。

 さすが信行兄上は気配りの人だな。


「そうですね。二人とも、今日はゆっくり休んでください」


 俺がそう言うと、佐久間信盛と熊は頭を下げた。


 信長兄上も負け戦に落ち込んでなければいんだがな。

 明日は朝イチで清須に行くかな。

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