第63話 長良川の戦い  閑話・范可 後編

 遺言状をしたためた殿は、自分が死んだならそれを信長様に届けるようにと手配された。内容までは分からぬが……おそらく、信長様に後を託すという内容であろう。


 そして大桑城から鶴山に出陣した殿は、長良川を挟んで義龍様の軍と対峙した。圧倒的なまでの兵の差に、殿はここで討ち死にするつもりなのだと分かった。


 尾張より龍の子が助けに来る前に。

 今川と美濃に挟まれる尾張が、これ以上の窮地に陥る隙を与えないために。


 双方しばらく睨み合ったが、やがて義龍様側から、竹腰重直が600人ほどを率いて川を渡ってきた。殿は自ら号令を出し、兵を鼓舞した。

 それに応えた旗本衆が竹腰重直らを打ち取った。


 だが二番槍は義龍様自らが率いてやってきた。


 それを見て、殿は目を細めた。


「見よ、定重。なかなかの采配じゃとは思わぬか。……儂も老いぼれて見誤ったか。息子は凡庸な猫ではなく、眠れる虎であった。尾張の虎から龍が生まれ、美濃の蝮から虎が生まれる。なんともはや、おかしな事ぞ」

「殿……」

「定重よ。そなたは十分儂に忠義を尽くしてくれた。この後は、虎の元に行くもよし、龍の元に行くもよし。お前の好きにせい」

「正月の参賀には義龍様にご挨拶申しあげましたのでな。もう義理は果たしましたわい。残る義理は殿への義理ですが、まだ果たしておりませぬ。ここで不義理をいたせば、道化家末代までの恥となりましょう。最期までお供いたす所存でござりますよ」


 殿は軍配を持ち直し、床几(しょうぎ)から立ち上がった。


「子が道を誤ったならば、正してやるが親の務め。范可はんかなどと名乗る義龍の親不孝を許してはならぬ。孫四郎、喜平次の兄弟ばかりか実の親をも手にかけようとするは、悪鬼のごとし。者ども、天誅を下してやるのだ!」

「おおー!」


 こちらの軍勢は明らかに少ない。だが。


「義龍、勝負じゃ! 一騎打ちをさせよ!」

「よかろう! 誰ぞ名乗りを上げよ! 美濃に巣食う梟雄に目に物見せてやるが良い!」


 さすが殿だ。一騎打ちに勝って、士気を上げようということか。戦の折に一騎打ちを申し込まれて、応えないのは武士として恥ずかしいことだからだ。


「斉藤治部大輔義龍様が家臣、長屋甚右衛門と申す! 一騎打ちに応じようぞ。腕に覚えのある者はかかってくるが良い!」


 馬に乗った若武者が義龍様の軍から一騎進み出た。それに応えて、わが軍からも一騎、進み出る。柴田角内すみうちという者で、元は尾張の守護代であった織田大和守信友の家臣で、尾張守護斯波義統が誅殺された折には森刑部丞兄弟を討ち取ったほどの腕自慢の者だ。大和守が信長殿と織田信光殿に誅された後は、縁を辿って殿に仕官した。


 両者は合いまみえ、合図と共に槍を構えた。


「いざ参らん!」


 長屋甚右衛門の槍が、柴田角内の顔を狙う。躱した柴田は、手にした槍で長屋の喉を狙った。

 それを避けた長屋の体がぐらりと揺れる。その隙を見逃さなかった柴田は、すかさず槍で突いて長屋の体を馬上から落とした。

 仰向けに倒れた長屋に、柴田も馬から飛び降りて伸し掛かった。そして長屋が態勢を整える前に、組敷いてその喉を短刀で掻き切った。


 双方の兵が固唾を飲んで見守る中、柴田が長屋の首を落とす。そしてその首を高々と掲げた。


「長屋甚右衛門が首、柴田角内が討ち取ったり!」

「おおおおおっ」


 それを合図に、両軍が激突した。

 私も槍を手に、殿の横で構える。周りには殿を守るべく、旗本たちが集まっている。柿田弥次郎、石谷対馬守、川島掃部助。皆、殿に最後まで従う覚悟を持った者たちだ。


 波が、桐の花にさらわれてゆく。


 柴田角内の武威によって始めはこちらが押していたが、いかんせん、兵の数が違った。殿の家紋を描いた旗が、一本、また一本と倒されてゆく。


「久しぶりに腕が鳴りますなぁ。まだまだ若い者には負けはしません」


 はっはっは、と陽気な声を上げて石谷対馬守が笑う。ついには本陣まで迫ってきた義龍様の兵が、槍を振りかぶって襲ってきた。


 それを払って、槍の先で突く。ひるむ敵をさらに屠る。槍がなまくらになって抜けなくなれば、腰の太刀を抜いて応じる。

 尻の青い若造などに、負けてたまるものか。


 殿も、槍を手に敵を薙ぎ払っている。その姿が若き頃の殿の姿に重なる。


 私も、殿も、若輩でございましたなぁ。


 遠くで柴田角内を討ち取ったという声が上がる。ああ、あの益荒男も数には勝てずに逝ったか。だがその武勇は後世に残るであろう。


 殿はと見れば、長井忠左衛門と渡り合っていた。その手には備中青江が握られている。


 だが長い斬り合いに殿の息が荒い。力で押し切った長井忠左衛門はそのまま殿を組み伏せた。どうやら生け捕りにするようだ。


 戦で死ぬが武士の誉れ。それを、生け捕りにしようなどと、どこまで殿を侮るのか!


 縄をうたれて義龍様の前に引き立てられていくのは屈辱であろう。あの殿の気性ならば、殊更に。


 その時、殿と義龍様のどちらにお味方するのかずっと迷っておった小真木源太が走り寄ってきた。そして殿の脛を切った。


 脛を切られて立っていられなくなった殿の体が、どうと後ろに傾く。


 その、顔が。

 かすかに笑んで見えた。


「逆賊、道三の首、小真木源太が討ち取ったり!」

「貴様! 横槍を入れるなど、卑怯だぞ!」


 首を掲げた小真木源太に、それまで斬り合っていた長井忠左衛門が激高する。


「貸せ! わしが鼻を削いで持ってゆく!」


 小真木から首を奪った長井が、その鼻を削ぎ、殿の首を放り投げた。

 弧を描いて飛んだ首が、空に舞って、落ちる。そこに桐の花が咲いた。

 兵たちの足に踏まれ、蹴り飛ばされ、見えなくなる。


「殿からの命令だ! 雌雄は決した。降伏する者の命は取らぬ。すみやかに殿の元に下るのだ!」


 殿……

 国盗りは楽しゅうございましたなぁ。

 策を巡らし槍を振るい。

 大国美濃をその手に握り。


「それがしは道化定重! 腕に自信のある者は参られい!」


 ですから殿。

 あの世でまた、共に暴れましょうぞ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る