第62話 長良川の戦い 閑話・范可 前篇

 川の向こうには殿の嫡男である斉藤義龍様の旗がはためいていた。二万に届かんとする桐の花が、こちらを圧倒するように咲いている。


 対するわが軍の二頭立浪は、二千七百ばかりだ。

 神風でも吹かねば、波は花に埋め尽くされてしまうだろう。


「殿。敵は血気にはやった若武者ばかりでござる。なれば相手を誘い込み、こちらの懐へとおびき寄せましょう。そこを横から衝き、全軍で攻めこむのです。さすれば勝機も見えて参りましょう」


 私は軍師として殿に助言をしたが、川向こうを鋭い目で見据える殿は、それに頷かなかった。


「のう、定重」

「はっ」

「儂は息子の才を見誤ったのかもしれんな」

「それは……」

「美濃の蝮も、寄る年波には勝てなんだか」

「そのようなことはございませぬ」

「よいよい。所詮、儂は地を這う蝮。天高く飛ぶ龍にはなれなんだ。ただそれだけの事よ」


 美濃の蝮と呼ばれた殿は、いつも目も眩むほどの覇気の持ち主であった。それがどうであろう。わずかに背中を丸めて寂しそうに笑む姿は、どこにでもいる普通の老人のように思えた。


 斎藤利政。

 油売りから身を興し、美濃の国主にまで上り詰めた立身出世の鑑と呼ばれる男だ。その通ってきた道は血と恨みにまみれている。


 取り立ててくれた主を殺し、主君を追い出し。


 悪党の中の悪党と呼ばれても、殿は誉め言葉だと呵々と笑った。


 確かに主君殺しは大罪だ。だが乱世の世の中で、子が親を、弟が兄を討つこの世の中で、下剋上の何が悪いというのか。悪いと言うならば、討たれる方が阿呆なのだ。


 討たれぬよう、利を配り、目を配る。そうして硬軟おり交ぜて民を、家臣を、国を支配すればいい。


 それに男と生まれたからには、どこまで自分が上に行けるのか、挑戦するのが真の男であろう。

 私はそんな殿に夢を見たのだ。どこまでも共に駆け、いずれは天にまで登ろうと。


 だがそれを遮る者がいた。尾張の虎と呼ばれた、織田弾正忠信秀だ。

 幾度も幾度も戦って。

 敵であれどもあっぱれと認め合う内に、殿は尾張の虎と手を組む事になさった。ご息女の濃姫様と弾正忠殿の嫡男、信長様との間で婚姻を結んだのだ。

 尾張の大うつけとも呼ばれる信長様との縁組に、家中の者たちは反対した。けれど殿は「婿が大うつけならば、尾張を喰らえばいいだけのことだ」と気にも留めなかった。


 そして婿殿との対面をする為にわざわざ尾張まで出向いた殿は、すこぶる機嫌の良い様子で私に言った。


「あれはな、龍じゃ。まだ小さき子蛇だが、いずれ見事な龍になろう。のう、定重。虎の子が龍になるとは、なんとも面白きことじゃな」


 それ以降、殿は何かと婿殿を気遣うようになった。

 好敵手であった弾正忠信秀様がはやり病で亡くなられてからは、織田家中で嫡男といえども立場の弱い信長様を陰に日向に助けてこられた。


 殿は、部屋にこもって書物を読むのがお好きな嫡男の義龍様よりも、信長様を真の後継者として考えておられたのだ。


 そしてさらにその立場を盤石にすべく、美濃国主の座も信長様の正室となられた濃姫の同母弟である孫四郎様に譲ろうとされた。


 美濃と尾張。共に手を取って栄えてゆく。

 美濃の蝮と呼ばれ、悪党の中の悪党と呼ばれた殿の、それが最後の夢だった。


 だが殿の夢が実現することはなかった。

 嫡男である義龍様が、孫四郎様とその弟の喜平次様を誅殺なさったのだ。


 そして家中の者に宣言した。


「わしはこれより剃髪して范可はんかと名を改める。わしに従うのであれば、次の正月には剃髪して出仕せよ」


 范可―――唐にて親の首を切って孝となした者の名前だ。

 つまりそれは、親殺しの宣言に他ならなかった。


 明けて弘治二年の元日。家臣たちは頭を剃って稲葉山に出仕した。 


 そして私は。





「定重、その姿はいかがした!?」

「私は隠居なさっておられるとはいえ、いまだ道三様の家臣にござります。しかしながら嫡子であらせられる義龍様もまた、私の主君に相違ありませぬ。よって、半分だけ頭を剃って出仕いたしました」


 殿は私の主君だ。それは間違いない。

 だが義龍様もまた、美濃の国主としてなくてはならないお方だと思うのだ。願わくば、敵と味方に分かれず、和睦して美濃を盛り上げてくだされば良いのだが。


 右半分だけ髪を剃った頭を下げた私を、義龍様は何も言わずにじっと見つめておいでだった。






 義龍様と道三様の小競り合いは何度も続いた。

 大桑城おおがじょうに籠城しながら義龍様の兵を撃退する度、道三様の兵の数が減ってゆく。尾張へ、濃姫様の元へ逃れましょうという家臣の言葉にも、殿は首を縦に振らなかった。


 まるで、死に場所を、死ぬ時期を、見極めていらっしゃるかのようだった。

 

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