第56話 モフモフ登場

「殿。そろそろ一服なさりませぬか。あちらに茶を用意しております」


 この時代から既に茶の湯って武士に人気なんだよな。


 茶の湯っていうと千利休って名前がすぐ出てくるけど、実のところ、茶の湯自体は結構前に唐から伝わっている。

 この時代に有名なのは珠光と紹鴎じょうおうだ。

 珠光って人はちょっと前の、室町時代の中頃に活躍したお坊さんで「わび茶」っていう利休のルーツみたいな様式を発明してる。武野紹鴎は去年亡くなった茶人だ。この人は堺の商人でもあったから、今井宗久みたいなもんかもしれんね。


 信長兄上の場合は、傅役の平手政秀が京都から来たお公家さんがびっくりするくらい豪華な茶室を作るくらい茶の湯好きなんで、その影響で茶の湯好きになってる。


 こんな昔から信長兄上は茶の湯好きだったんだね。


 名物狩りって言って、茶器とか茶碗とか買いあさってたから、ニワカ茶の湯好きかと思ってたよ。いやだって、成功してお金持ちになってからハマると、色々と由緒のありそうな物を買いあさる人って多いからさ。てっきり信長兄上もそのクチかと思ってたんだけど。


 よく考えたら信長兄上だもんな。昔から茶の湯好きだったからこそ、良い物を目の前にして我慢できるわけないか。権力と財力も持ってたら、自重なんてしないよな。うん。今だってあんまり自重しなさそうだし。


 そういえば、二歳年下の弟の源五郎も、信長兄上の参謀になるべく平手政秀に鍛えられてたから、同じように茶の湯好きになってるって聞いたことがあるな。


 ていうか、兄弟がこんなにいっぱいいるのに、参謀として期待されてたのって源五郎だけなのか。


 アレ、オカシイナ。俺は八男だからちゃんとした教育を受けてないんじゃないのか。源五郎って側室の子で十一男ダヨネ。アレー?


 家長の案内で屋敷の中に入ろうとした俺たちだけど、なんだか家の中が騒がしかった。どうしたんだ? と振り返ったら、廊下の奥からモフモフがやってきた。


 うをっ。目覚めてから初めてのモフモフだっ。


 俺はすかさず、走ってくるモフをつかまえようとして―――


 逃げられた。くやしー!


 そして俺の後ろで信長兄上が難なく捕まえていた。チクショー。こんなところでもスペックの違いを実感するとは!


「黒丸、黒丸、どこへ行ったの?」


 モフモフの走ってきた方から、女の子の声が聞こえた。鈴を転がすような、っていう表現がぴったりの声だ。


 そして現れたのは、俺と同じくらいの年の女の子だった。色白で、切れ長の目はちょっと垂れている。一重だけど、細くはないな。どっちかっていうと大きい。この時代の美人顔ってところか。でも現代でも品があって可愛いと思う。


 ちょっと市姉さまに似てるな。親戚だから似てるのかもしれんね。


「これ、美和。表に出てきてはならぬと言っておいたではないか」


 家長に叱られると、美和と呼ばれた女の子は初めて俺たちの姿に気がついたようだった。信長兄上のことを知っているのか、慌てて平伏した。


「家長の妹か。しばらく見ぬ間に大きくなったな」

「ご無礼をいたしました。すぐに下がらせますのでお許しくだされ」

「よい。探していたのはこれか?」


 信長兄上にしては優しい声で聞くと、美和ちゃんは「はい」と小さな声で答えた。


「紐で繋いでおかなかったのか」

「床に伏している父上にお見せしたくて……」


 ああ、そういえばさっき家長さんもそう言ってたね。え、でも紐で繋ぐの?


「兄上。それは繋いで飼うものなのですか?」

「貴重ゆえな。逃げ出さぬようにしておく」

「鼠はどうなさるのですか?」

「鼠だと?」

「はい。放し飼いにしておけば、鼠を捕りますから、穀物の被害が減りますよね? それなのになぜ紐で繋いでしまうんでしょう?」


 だってさ。信長兄上が捕まえてるのって、どこからどう見ても猫だよな。しかも黒猫。犬ならともかく、猫を繋いで飼う必要ってあるのか?


「……鼠を捕るだと?」

「飼い猫でも野生の本能がある子なら、鼠を捕まえてご主人さまに持ってきますよ。それに猫は家について犬は人につくって言いますからね。放し飼いにしても戻ってきますよ」


 猫の場合、縄張り意識が強いから、自分のテリトリーから離れないらしい。

 逆に犬はリーダーに従って群れで生きる性質だから、リーダーが離れたらそれを追いかけていくわけだ。


 昔からの言い伝えだけど、ちゃんと犬と猫の性質を表した言葉なんだな。


「そのような言葉、初めて聞いたぞ」


 あれ? そう?

 視線を巡らすと、熊と家長さんが頷いていた。

 あちゃー。またやっちゃったか。


「例の夢か」

「はい」


 うへぇ。また熊が、さすが喜六郎様、御仏の知識を惜しみなく今世に伝えておられる、ってキラキラした目で見てるよ。


 違うんだ。ちょっとだけ前世の知識があるだけで、大したことは言ってないんだ。だからそんなキラキラした目で見ないでくれ。どうにもいたたまれない。


「おお。噂は本当だったのですな。殿の弟君が御仏のご加護を得ているというのは。いやぁ。これで織田家は安泰でございますなぁ」


 ぎゃあ。そんなに持ち上げないでくれ。俺はそんな凄い奴じゃないんだ。むしろ中身は小心者の小市民だ。


「しかもこ奴には野心というものがない。得難い弟よ」


 わっはっは、と笑って俺の頭を撫でまくる兄上は、知らずに俺にトドメを刺した。


 お願い……もうやめて……

 俺のライフはもうゼロだよ……


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