第16話 俺の傅役は

「さて、勝家よ」

「はっ」


 信長兄上はマイベッドに心を馳せている俺の、後ろにいる熊に声をかけた。


「お前は信行の宿老であろう。喜六の供で清須に参るほど暇とは思えん。なぜここへ参った?」


 そう聞かれて、熊は一瞬俺を見た。また、あの苦いものを飲み込んだような表情をしている。それからゆっくりと平伏した。


「恐れながら申し上げます。殿にお願いを申し上げたく、参上いたしました」

「……何ぞあるのであれば、末森を任せておる信行に言えばよかろう」


 信長兄上は、怪訝そうに眼を細めた。

 熊は、平伏したまま顔を上げない。


「信行様には既に何度か申し上げましたが、よき返事をもらえませなんだ。それゆえ、殿に直接お願いに参った次第でござります」

「つまらぬ願いであれば、刀の錆にしてくれるぞ」

「構いませぬ!」


 顔を上げた熊が、自分の覚悟を示すように大声で吠えた。


「ほう。では聞くだけは聞いてやる。申してみよ」

「はっ。お願いというのは喜六郎さまの事でございまする。なにとぞ、喜六郎さまに傅役もりやくをおつけくださいますよう、お願い申し上げます」


 熊の言葉が意外だったんだろうか。信長兄上は驚いたように目を見張った。


 っていうか、俺のモリヤク?

 いやもう十歳だし、別に子守りされなくても大丈夫だけど。それともまた何かやらかすかもしれないから、見張りが必要とでも思われてるのかな。


「傅役だと? 親父殿がつけた傅役がいるだろう?」

「それが、守山の仕置きの後に、大方様が三十郎様の傅役に変えられまして……」

「なんだと!? では喜六には傅役が一人もおらぬのか!?」 


 信長兄上もびっくりしたらしく驚いている。

 え? そんな驚くことなのか?


「さようでござりまする。なればこそ、こうして殿に喜六郎さまへのお力添えをお頼みしに参った次第でござります」

「元服前の織田の男子に傅役がおらぬなど、聞いたことがないわ。信行も何をしておるのか」

「なにぶん、大方様には頭が上がらぬようでござって……」

「末森の城主ともあろう者が、なんとも情けない……」


 後で知ったんだけど、モリヤクって、元々は帝の皇太子である東宮の教育係を「東宮傅(とうぐうふ)」っていうから、そこから取って、武家の子息の教育係の事を傅役と言うんだそうだ。

 お子様のお守りじゃなかったんだな。


 でもそうか。俺には傅役がいないから、勉強する時間がなかったんだな。てっきり前世知識がたくさんあるから必要ないと思われて、兵法とかもう習わなくてよくなったんだと思ってたよ。

 確かによく考えたら、前世の知識なんて大したもんはないし、そもそも前世で兵法なんて習ってなかったよ。前世でそんなもん必要なかったし、当然だけど。


 兵法か……喜六の記憶を思い起こしても、さっぱり分からんぞ。比翼の陣とかだっけ? 比翼だから、鳥が翼を広げてる感じで布陣するのかね。


 あと熊の言ってる「大方様」っていうのは俺と信長兄上の母である土田御前のことだ。当主の母親のことを、一般的に大方様とか大方殿って言うからな。


 それにしても普通は元服前の男子には傅役がつくもんなんだな。それを弟のほうに替えるっていうのはさ、母上ってどんだけ俺のことが嫌いなんだろうね。


 ああ、それで熊がずっとあんな変な顔をしてたんだな。


 そんな顔しなくてもさ、別に俺は何とも思ってないぞ。前の喜六だったら、どうだったか分からんけど。


「相分かった。喜六には適当な傅役をつけよう。他には何かあるのか?」

「いえ。それだけでござります」

「ふん。ついでに何か俺に注進することでもあるのかと思ったが、違ったか」

「滅相もないことでござります」


 熊は若干焦りながら首を振った。

 うん、こんなとこで謀反の疑いをかけられたら困るよね。


「勝家」


 熊の言いたいことが分かったからか、信長兄上の声が少し柔らかくなった。


「はっ」

「そなたも那古野布団が欲しいのなら、くれてやってもよいぞ」


 と、思ったら、すぐになんだか意地の悪そうな響きに変わった。そして熊をじっと見つめながら扇子を開く。


 あ、なんか、これ、無理難題を押し付ける前触れだ。俺のシックスセンスがそう言っている!


「まことにござりますか!?」


 熊はそんな不穏な様子に気がつかずに、単純に布団をもらえるのかと喜んだ。


 おーい、熊。俺も命が惜しいから声に出しては言わないけど、そっちには罠があるぞー。熊鍋にされるぞー。


「嘘など言ってどうする。ただ、な。その前に一つ聞かせよ。そなた、那古野布団で寝る時に、体の向きはなんとする?」


 信長兄上は手に持った扇子を閉じながら聞く。そしてまたゆっくり扇子を開いて、開いたそれをパチンと閉じる。


 パチンという音に重なって、後ろでゴクリを喉を鳴らした音がした。振り返ると、熊がその浅黒い顔からダラダラと汗を流している。ただでさえゴツイ顔が、なんかもう幽鬼か、って顔になっていた。

 もう夏は過ぎたのに、暑がりだな。いや、冷や汗なんだろうけどさ。


 これは、あれだよな。西が清須で東が末森。どっちに足を向けて寝るかってことだ。つまり信長兄上につくのか、それとも信行兄上につくのか、旗幟を鮮明にせよ、ってことなんだろうなぁ。


「あ、頭を西でござりまする!」


 平伏して答える熊に、信長兄上はさらに聞く。


「二心はないな?」

「もちろんでござります!」

「では熊野誓紙にて誓え」


 ギロリと熊を睨む信長兄上は、あの熊でさえ震え上がるほどの覇気に満ちていた。さすが信長兄上だな。つつしんで猛獣使いの称号を進呈しよう。


 この間会った、ゴローザさんが何やら紙と硯を持ってくる。紙には花のつぼみみたいなのと鳥みたいなものが描かれているけど、余白に何か書くのかね。


 どうするのかと見ていたら、紙を受け取った熊は、それを裏返して何やら書いていた。そこにゴローザさんから小刀を借りて、親指を軽く切って血判を押す。


 そしてその書状を信長兄上に渡した。


「起請文にござりまする。お改めくだされ」

「うむ。しかと受け取った」


 書状を受け取った兄上は、ニヤリと笑った。


「そこで、だ。修理亮。そなたを末森城主織田信行の筆頭家老からはずすこととする」

「ど、どういうことでござるかっ!? 起請文にも記しましたように、それがしは―――」


 いきなり職を首になって焦る熊の言葉を遮って、信長兄上はしてやったりと笑った。


「以後、喜六郎の傅役となるように。……勝家。喜六郎を頼むぞ」

「はっ。ははーっ」


 信長兄上の話を聞いて感極まった熊が、何度目か分からない平伏をした。兄上もそれを見て、満足そうに頷いている。


 えっと、何だか感動的なシーンなんだろうけど、これって俺のお守りが熊になるってことだよな?

 え? じゃあこれからずっと熊と一緒なのか?

 ええっ。それって俺にとっては罰ゲームって言わないか!?


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