第一章 苗字にまでは責任は持てない
第2話 巨乳に惑わされないための三箇条詠唱終わり。
さて話は一月前にさかのぼります。
さすがに、こんなおかしな状況の説明をしないわけにもいかないし。
事の始まりは――父さんの転勤が決まった時になるのかな?
父さんの勤めている会社が
で、父さんはなんとそこの副所長。事務方の何でも屋――一般に言うところの総務部というのかな、そこの部長格みたいな役職を拝命した。
父さんのキャリアからすると、可能性としてはありだけど、社内でも意表を突いた人事だったらしい。
要は結構な大抜擢だった、というわけだ。
ただこの大学、お世辞にもあんまり都市部にあるとは言えなくて、前に住んでいたところからJRに乗って半日以上という、かなりの遠距離。
それでも家族三人で引っ越しをするのにためらいはなかったけどね。
そうしてゴールデンウィーク明けの五月上旬、僕はこの
僕は特に人見知りでもないし、転校作業自体は問題なく終わった。可愛い女の子といきなり仲良くなったりはしなかったけど、一週間ほどでクラスには溶け込めたと思う。
思うけど――
今になってちょっと引っかかるのは、クラスの連中は僕にどんな話が持ちかけられるのか知っていたんだろうなぁ、と気付いてしまったこと。
気持ち、予想していた反応よりは新しいクラスメイト達は温かだった。
さて、その温かさの代償が形となって現れたのは、やっぱり一週間後。
一週間というのは実に良い目安だね。学校生活だけでなく、引っ越した後のあれやこれやも、この頃には一段落していた。
そんな頃合いの、昼休み。
「赤月君、今日の放課後あいているかしら?」
と、出し抜けに僕を誘う存在が現れたのだ。
これが
鐘星高校の女子の制服は、田舎の学校らしくバリエーションも少なく明るい青のブレザー。
その制服がいまいち似合っていないのは、この女生徒があんまり女子女子していないからだろう。
顔はまぁ、整っているのだろうけれど凄いつり目で、非常に攻撃的。
で、外見から何よりもわかる女性らしさの象徴部分が――無い。
何にも無い。
「赤月君?」
安心してください。その視線に気付かれる危険性は皆無と考えてくださってOKです。僕、周囲視は得意なんだよね。
問題にならないところに視線を合わせながら、そういうことを確認するのは簡単なことだ。
で、その確認のための空白を埋めるために自分から質問する。
「大丈夫だけど、君は?」
あ、前後したけど僕はこの時、緑陸の名前をまだ知らないから、こういう台詞になる。
「緑陸円。あなたと同じ二年生で三組よ」
ちなみに僕は五組。しかしこの時の僕は、よそのクラスに知れ渡るほど目立つようなことをした覚えはなかった。
「放課後に大学の方までつきあってもらいたいの」
斬りかかるような口調ではあるが、気を遣ってくれているのはわかるし、大学に行くというイベントにちょっと興味が湧いた。
鐘星高校は明確に附属高校というわけではないけれど、父さんの会社と協力している三津佐大との縁は深いらしいという話を聞いていたからだ。
鐘星高校の生徒に対しては、ほとんどオープンキャンパス的な扱いで、講義も聴くことが出来るらしい。
「何の用かは、その道すがらに説明ということで良いかしら? 放課後にまた来るから、そのままこの教室で待っていて」
何だか段取りが完璧に決まっているらしい。僕は否応もなくうなずくしかない。
実を言うとやっぱりこの時も違和感らしいものを感じてはいたんだ。
だって他のクラスの女子がわざわざ呼び出しを掛けてきたんだよ。あからさまに冷やかしてくるほど親しいクラスメイトがいるわけじゃないけどさ。
つまり、もう少し注目を浴びても良いと思う。それなのに誰も僕を見ない――というかこの時は誰も視線を合わせようとしなかったんだ。
それはきっと、可哀想な物から目を背けようという、ただそれだけのことだったんだよね。
☆
もちろん当時の僕は、そこまでの結論に至れるはずもないから、それでも放課後を楽しみにしながら午後の授業をやり過ごして、緑陸を待ったね。
僕は言われたことは、きちんとやる主義だから。
自分からは何かをしようとは思わないけれど。
「ごめんなさい。先方の都合がちょっと悪かったみたいだけど話はつけておいたから」
クラスメイトの大半が教室から姿を消した頃、緑陸が首をかしげたくなるようなことを言いながら姿を現した。
「行き先は大学の研究室。石上研究室って言うんだけどそこの准教授に会ってもらいたいの」
「うん」
荷物はまとめていたので、僕にあまり関心がない様子の緑陸の背中をすぐに追いかける。
「かなり歩くから。質問があるなら言って」
「緑陸って……」
僕は一番気になっていたことを切り出した。
「珍しい苗字だね。いきなりこんなこと言うのも何だけど、言い辛いし」
「おかげで滑舌がよくなったわ」
確かに緑陸の声は非常に聞き取りやすい。
「……もっともこの苗字には他にも意味があったのだけれど」
「はい?」
「それは追々わかるだろうから、気にしないで。他に質問は?」
このあたりで高校の校舎からはすでに出ている。
あ、また説明が前後したけど鐘星高校は何というか――森の中にある。坂道を下りきった、元は沼とかがあったんじゃないかと思うような場所だ。
もちろん、森の中の一軒家みたいな佇まいではないのだが校門のある場所以外は、三方全部森に囲まれている光景というのは、僕にとってはなかなかに新鮮だ。
校舎自体は鉄筋コンクリートの四階建てとオーソドックスな造りなんだけどね。
緑陸は、校門ではなく東側の通用口みたいなところへ向かっていく。
このままだと森の中を通ることになるんじゃないかな? と、思っていたら実際その通りになった。もっとも未開の森の中を通っていくなんてこともなく、ちゃんと整備された道がある。
「赤井君は、これから何が起こるのか聞かないの?」
森を抜けたあたりで、緑陸から逆に尋ねられた。
「その准教授に会うんじゃないの?」
「そこからの話に興味は?」
「あるけど、ここで緑陸さんが話して良い内容なら二度手間になるし」
「……この場で、無理矢理にでも承諾させたい誘惑に駆られるわね」
「あ、やっぱり何かの勧誘なんだ。実験の手伝いかな? それだと僕が呼ばれる理由はわからないんだけど」
周囲を見渡せば、いつの間にか大学の敷地に入っていたらしい。私服姿の大学生らしい人達がやたらに広い通りをゆったりと歩いている。
「赤月君、何か部活はやってたの?」
「中学の時は天文部」
「前の学校では?」
「なにも。誘われなかったからね」
そして、これから誘われるのは、大学と共同の部活なのかな?
そこで会話らしい会話はとぎれ、黙々と歩く緑陸の背中を見つめるだけの時間が過ぎていく。随分と姿勢が良いね。
「――遠くまでごめんなさい。やっと到着よ」
かれこれ十五分も歩いただろうか。
目の前には灰色の豆腐。研究棟というか、研究所として独立した建物をもらっているようにも思える。これはもしかして何か
普通の家屋と変わらぬインターホンを押して、
「緑陸です」
と滑舌よく緑陸が告げると、妙齢の美女が扉を開けて出てきた。
この人が問題の准教授だとしたら――若すぎないかな?
さて、ここで呪文を唱えておこう。
一つ、胸の大きい女性と結婚すると、将来的に残念なことになる。
一つ、付き合っても、常時あの胸が揉めるわけじゃない。
一つ、他の男どもの視線が気になるに違いない。
よし。
巨乳に惑わされないための三箇条詠唱終わり。
「今日は急に呼び出してしまってごめんなさい。それなのにそれを先延ばししようとしたりして。円……緑陸さんに怒られてしまったわ」
人当たりも柔らかだ。
「朝子さんは人が好すぎるんですよ。朝子さんの問題は大学でも最優先事項でしょうに」
緑陸は、と言えばそれを補うようにきつい口調だ。
研究室の中は思ったより整理されていて、今にも地滑りを起こしそうなほど積まれた書類とか、何十個も重ねられたコーヒーカップとか、そういう雑然さを象徴するような光景がどこにもない。
本当に何の研究をしてるんだろうな。
「とにかく掛けて。こんな場所でもコーヒー出すくらいのことは出来るから」
と、部屋の片隅にある応接セットを示された。
なるほど、それぐらいのもてなしは受けても良いような気がするな、と思っていたらコーヒーを準備するのは緑陸だった。ちょっと気まずさを感じるが、手伝おうにも勝手がわからない。
結局、大人しく待っていると、あれよあれよという間に、コーヒーセットが並べられた。目の前には岸田さんが座り、僕の横に随分間を開けて緑陸が腰を掛ける。
うん。正しい距離感だね。
とりあえず、出されたコーヒーに口をつけて、これなら何を頼まれるにしても環境だけは良さそうだ、などと当時の僕は考えていた。
いやまぁ、もうおわかりだろうけど僕はこれから戦隊に誘われるんだよね。
理由も推して知るべしという感じだけど、それは後にとっておこう。
ただ誘い文句。
これにはしてやられたね。切り出し方はごく自然だったし、しかも嘘もついていなかった。後から文句――言うつもりもないけど――のつけ様もない。
その時、岸田さんはこう言ったのだ。
「……あ、あの恥ずかしい話なんだけど、私の治療を手伝って欲しいの」
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